出発地点

 

 

 

 

 

 目を覚まして、それが異常な状況だと衝撃を受けるのは、これで二度目…多分。
 一度目は本当にひどいものだった。

 自分なのに自分でなくなって、本当に苦労した。

 沢山の人に迷惑をかけ心配をかけ、一人を長い事苦しめた。

 けれどそれもようやくの事、終わりを迎えた。

 これで大手を振って帰れる。

 やっと戻れるのだ。

 それに関して何も覚えていないので、どこに戻るのか…まったく分からないのだが。

 仰向けに横たわる身体を起こし、後頭部を覆う鈍い痛みに顔をしかめながら撫でさする。

 ここに倒れて頭を打ったから痛いのだろうか。

 仰向けに倒れていたという事は、恐らくそうなのだろう。

 ではここはどこだ。

 白壁の狭い部屋。

 窓はなく、ただ白いだけの、素っ気ない四角い部屋。

 あるのは出入り口の扉だけ。

 頭をさすりさすり立ち上がり、低いとも高いともない天井を見上げる。それから扉に目を向け、部屋を見回す。

 はたと思い至りさすっていた手を見る。

 血が付いているという事はなかった。

 その点は安堵する。

 と、薬指の根元に白銀の輪がはまっているのに気付いた。

 手のひらを下にしてじっくり眺める。

 質素なデザインの細いリング。

 それをこの指にしているという事は既婚者なのかと、へえと声に出して頷く。

 再び目を奪うものに気付き足元を見やる。

 この部屋で初めて目にする白以外の色。

 

「3…だ」

 

 手のひらよりややはみ出るほどの大きさで、数字の3が、鮮やかな赤色で書かれていた。しゃがみ込んでまじまじと見つめる。

 

「クレヨン…かな」

 

 少し掠れた具合が、クレヨンに似ていた。鼻を近付け嗅いでみるが、そうとも違うとも判別は出来なかった。

 

「さん……さん。three…trois…drei……」

 

 赤、Red、Rouge、rosso…顎に指をかけひとしきり考えてみるが、何にも行きつく事はなかった。

 他に異変がないか部屋中くまなく探すが、赤色で書かれた3以外は見つけられなかった。

 謎の『3』をひと撫でし立ち上がり、扉の前に立ちノブに手をかける。

 警戒と無防備の中間ほどの心もちで押し開き、面食らう。

 部屋の中は煌々と明るいのに対し、扉の向こうは、真っ黒な闇だった。部屋から漏れる明かりが届く範囲はごくわずかで、扉の外がどうなっているのかほぼ全く分からない状況。

 扉を開けたまま、しばし立ち尽くす。

 

「仕方ねーか」

 

 軽く頭をかいて、部屋の外に一歩踏み出す。

 厄介な事に扉は自然に閉まるようで、そうなると手探りで進むしかなく、やれやれと溜息をつきながらも扉の右横から始める。幸いな事に手はすぐに角に行きついた。試しに反対側を探ってみると、同じくすぐに角に行きついた。どうやら部屋の幅と同じ程度の廊下らしきものがあって、今出てきた部屋は、この廊下の突き当たりだという事が分かった。

 進む前に、もう一度部屋の扉を開け白光の中に立つ。

 

「さて…どーすっかな」

 

 閉まろうとする扉を身体で押さえ、進む方に目を向けて思案する。

 そこで異変が起きた。

 突如周り中に声とも音ともつかない雑音が満ち溢れ、それと同時に真っ黒だった闇が晴れた。

 といっても範囲はごくわずかで、立っている場所と、少しの先が辛うじて見えるほどだったが、先ほど推測した通り、狭い廊下の突き当たりにある部屋の前に立っている事、少し進むと右手にまた扉がある事が確認出来た。

 この音は何なのか、何故闇が晴れたのか、そしてあの扉は…驚きつつ辺りを見回している内に音は止み、同時に辺りはまた元の真っ黒な闇に包まれた。

 しばし茫然と立ち尽くす。

 

「考えててもしゃーねーか」

 

 生来の楽天家、なるようになると気持ちを切り替え、両手で壁を探りながら一歩ずつ進む。

 一時的に明るくなった時目に刻み込んだドアノブの位置に手を滑らせ、指先に触れた丸い金属ににやりと笑う。

 果たしてこの部屋には何が。

 警戒と無防備に期待を混ぜ、扉を引き開ける。

 先ほどと同じく、白壁の狭い部屋。

 あるのは出入り口の扉だけで、他の三面には何もない。

 だが劇的に違いがあった。

 中央には小さなテーブルがあり、向かい合わせに椅子が二脚。椅子もテーブルも、部屋の色と同じ素っ気ない白。

 しかしテーブルの上には、白以外の色があった。

 一杯のコーヒーと、パンが一つ。

 

「コーヒーとパン…亀か?」

 

 白い皿の上に乗ったパンは、見間違いようもなく、カメの形をしていた。二つの目がちょんとある頭、小さな四本の足と小さな尻尾。甲羅を模した格子が、チョコレートらしきもので描かれている。

 仰け反って扉の外を一旦うかがい、左右を見渡してから、もう一度部屋に視線を戻す。

 

「食べろ……ってことか?」

 

 わけが分からないと頭をかく。

 見るからに怪しい二つではないか。

 しかし。

 白いカップの中湯気を立て、いれたてを主張する一杯のコーヒー。香りはふくよかで上品、見ているだけで喉をくすぐる。

 白い皿の上鎮座する、可愛らしいカメのパン。ふっくらと丸みを帯びた形は、否応なく口の中に柔らかさを連想させ喉をくすぐる。

 見るからに怪しい二つではあるがしかし――どういうわけか懐かしさを感じさせた。

 コーヒーは好きだ。いつ好きだったのかどこで想ったのか全く覚えていないが、コーヒーは好きだ。

 カメのパンは、多分中身はカスタードクリーム。たっぷり入っていて、ずっしり重たい。少し可哀想に思いながら、ぱくぱく食べるのがいい。

 

「……なんでだ?」

 

 ごく自然に思い浮かぶそれらを不思議に思いながら、ごく自然にテーブルにつく。

 まずはコーヒーをひと口頂く。少し申し訳なさのまじった、ありがたい感情が喉に流れ込む。

 そしてカメのパンは、思った通りずっしり重たい。頭からがぶりとかじりつき、口中に広がるふわふわの感触に相好を崩す。

 しかし胴体に一杯詰まった甘いカスタードクリームは少々つらく、コーヒーの苦みで騙しだましやっとこ飲み込む。

 空になったコーヒーカップと白い皿。

 

「コーヒーと亀さんのパン…ごちそうさまでした」

 

 甘ったるい後味にやや顔をしかめ、半ば無意識に手を合わせる。言い終えてから、自分の口で『亀さん』と言ったのに急に恥ずかしくなり赤面する。

 逃げるように部屋を出る。

 最初にいた部屋と同じく、扉は、開け放しておく事は出来なかった。

 鍵はかからないようなので開け閉めは自由に出来るが、扉が閉まると、辺りは真っ黒な闇に包まれる。仕方なくまた手探りで行くかと溜息をついた時、先刻起きた異変…声とも音ともつかない雑音と共に暗闇が一時的に晴れた。

 泡を吹き飛ばすようにほんのりと辺りが明確になり、辛うじて、少し先にまた扉があるのが確認出来た。

 その向こうに目を凝らすが、見届ける前にまたもとの暗闇に戻ってしまった。

 

「とりあえず進むか」

 

 自分への励ましに声に出し、少し頭をかいて、壁伝いに歩き出す。

 扉を開けると、またしても白壁の狭い部屋。

 相変わらず窓はなく、あるのは出入り口の扉だけ。

 部屋の中央には小さなテーブル、テーブルの中央には、コーラの缶が一本置かれていた。

 途端に衝動が沸き起こり、突かれるまま駆け寄り手に取る。

 ひんやり冷たい、未開封の缶コーラが一本。

 まじまじ眺めた後、頬に当ててみる。

 

「つめてっ!」

 

 当り前の事に当り前の声を上げるのがおかしくて、何をしているのかと自分に笑う。

 笑いかける、傍に立つ誰かに。

 

「……そうそう」

 

 ぼんやりよぎった人影、思い浮かぶ光景に半ば無意識に頷き、これが見たかったとほっとする。

 ぼんやりしたものをはっきりさせようと、目を閉じる。

 思い出すのに、煌々と降り注ぐ光は少し邪魔なのだ。

 

「えー……と、なんだっけ」

 

 目を閉じて、深く集中する。

 しかしすぐに目を開き、腹の底から湧いてくる気忙しさにそわそわしだす。

 のんびりしている場合じゃない。

 誰か…これを誰かに渡さねば。

 いや、違う。それだけじゃない。

 やるべき事はたくさんあるのだ。

 やるべき事が。

 いてもたってもいられず、缶コーラ片手に部屋を飛び出す。

 扉が閉まるとまた元の真っ黒な闇に包まれるが、かまわず次の扉目指して手探りで進む。

 部屋はあるはずだ。

 部屋にあるはずだ。

 少し焦りながら壁をあちこち探っていると、三度、例の異変が起きた。暗闇が晴れる合図。

 声とも音ともつかない雑音に耳を澄ます。

 目の前には、果たして扉があった。

 見つけたと、薄く笑う。

 そしてもう一度笑う。

 知らず内に込み上げる笑み。

 雑音と思っていたものが違うと気付いたからだ。

 これが『雑音』なものか。

 雑音だなどと、頭を殴りたい気分だ。

 それほど腹を立てているのに、顔中に笑いが溢れて止まらない。

 鏡はいい、見なくても、恐ろしくしまりのない顔をしているのは分かっている。

 逸る気持ちのまま扉を開ける。

 目の前に広がる、白壁の狭い部屋。

 中央にはやはりテーブルがあり、テーブルには、綺麗に畳まれた綺麗な色…青緑色のマフラー。

 背後で扉が閉まる音を聞きながらテーブルに近付き、おずおずとマフラーに手を伸ばす。

 ふと視界の端にとらえるは、部屋の隅に置かれたクリーム色の丸いゴミ箱。

 

「あれも一緒か……だよな」

 

 当然か、と、納得する。

 あらためてマフラーを手に取る。

 広げる。

 この身体には明らかに小さい、子供の為に作られた手編みのマフラー。

 ちょっと怨念がこもってそうな、柔らかくあたたかく優しい青緑。

 

「……ちくしょう」

 

 もれた悔しさは無意識のものだった。

 何を、こんなところでぐずぐずしているのか。

 走れ、早く抜け出せ。

 急いで向かえ。

 

「………」

 

 向かう場所へ向かう為の名前が、声が、あと少しで出てこない。

 

「……!」

 

 もう呼べるはずなのに、出てこない。

 

「ちくしょう……」

 

 焦れば焦るほどただ疲れが積もり、名前があやふやになっていく。

 部屋を出て、次の部屋に向かう。

 一つずつ贈り物を見つけて、次の部屋へ、また次の部屋へ。

 時折降り注ぐ声…慈愛に満ちた呼びかけに助けられながら、一つひとつをたどる。

 サッカーボールを見つけた。

 紅と緑の季節が向かい合うしおりを見つけた。

 白い皿の上、嫌がらせのように山と積まれたレーズンサンドと、横に置かれた二枚のレモンサブレを見つけた。

 テーブルの上、晒すように置かれた青い短冊は照れ臭くて正視出来なかった。

 たった今逆さに振ったばかりの、静かに雪降るスノードームに顔が火照った。

 真っ赤になった顔とどちらが真っ赤か、いい勝負の、熟れた苺にまた顔が熱くなる。

 赤い顔のまま、まっちゃ味のアイスキャンデーにかじりつく、が、残念な事にあたりは出なかった。

 少し残念なのを大いに喜びながら次の部屋に足を踏み入れる。

 白壁の狭い部屋、中央のテーブル。

 テーブルの上には、一枚きり写真があった。

 自分じゃない自分と映る、髪の長い女。

 咲きこぼれる笑顔が、しようもなく眩しい。

 愛しい。

 苦しいほどに。

 

「……」

 

 そっと女に触れてみる。

 名前を呼びたいのに、その名前が出てこないのだ。

 どうしても、名前が出てこないのだ。

 呼んでいるはずなのに。

 呼べるはずなのに。

 

「くそ……」

 

 しようもなく疲れて、床の上に座り込む。そのまま無造作に壁に寄りかかった。

 正面に写真を掲げ、瞬きを交えながらじっと眺める。

 こんな時もあったねと笑ってやる為に撮った写真を、こんなに苦々しく眺めているとは。

 こんなにも覚えているのに。

 自嘲の溜息すら出なかった。

「数字の3は…三人の3だ。赤は好きな色で…だから始まりの部屋だったんだ」

 ここまでを振り返り、ぼんやりと声をもらす。

 髪の長い女がたどり着いた真実。

 その瞬間から、三人で歩いてきた。

 時に道を間違えても、はぐれても、また手を繋いで三人で歩いてきた。

 呼べない名前をお互い飲み込んで、それでも笑って、励まし合って、生き延びてきた。

 

「やっと呼べるようになったってのに……」

 

 不甲斐ない自分は、こんなところで迷っている。

 こんなにたくさんの贈り物を見つけたのに、名前だけが見つからない。

 もう呼べるはずなのに口から出てこない。

 目印だってこうしてちゃんと、指にはめているというのに。

 呼ぶ資格が、戻る資格がないという事か。

 

「とするとつまりこれは……これらは、冥土の土産」

 

 そう考えればしっくりくると、おかしくなった。

 そんなわけあるか。

 気合い代わりに頬を叩く。

 これ以上待たせてたまるものか。

 勢いよく立ち上がる。

 直後、部屋の明かりが消えた。

 扉の外と同じく、真っ黒な闇に包まれる。

 とうとういく時間が来たのだと、分からないが分かった。

 

「ウソだろ……」

 

 とにかく部屋の外へ出ようとたった今まで背中に感じていた壁に手を伸ばすが、指先はたどり着かなかった。

 ぎくりと背筋が凍る。

 ただ方向を間違えただけだと言い聞かせ、左右に振りながら一歩踏み出すが、やはり指先はたどり着かなかった。

 部屋は消えた。

 残る希望は踏みしめる足の感触だけだが、今にも消え去ってしまうのではないかと恐れてしまった瞬間から、わずかも動けなくなる。

 名前を呼ぶ事も出来ないのだから、戻る資格はないのだ。

 いくしかないのだ。

 

「……ウソだろ」

 

 真っ黒な闇の中、自分の声が虚しく響いた。

 すぐだ、すぐに思い出す。

 もう待たせたくない。

 今戻るから、今すぐ戻るから…名前を。

 どうかもう一度だけ名前を。

 一心に願うが、闇の晴れる瞬間はやってこなかった。

 慈愛に満ちた呼びかけが響く事はなかった。

 諦めるものか。

 あの女は諦めなかった。

 どんな時も力を与えてくれた。

 いつも笑顔を咲かせて見守ってくれていた、諦めるわけにはいかない。

 諦めてたまるか。

 そう思いながらも、伸ばした手は力なく下がっていく。

 闇に崩れる寸前、見えない手がしっかと掴んだ。

 指標となる確かなぬくもり。

 出口を教えてくれる見えない手。

 誰が教えてくれているのか、理解する。

 

「――蘭!」

 

 ついに名前が思い出された。

 

 

 

 唐突に視界が開けた。

 といっても見えるのは正面のごくわずか、端の方はやけにぼんやり滲んでいた。

 身体中いたるところがひどくだるく、息を吸い込むのもひと苦労で、自分は一体どうしてしまったのか理解出来ないほど何もかも鈍っていたが、右手だけが、痛いほど熱かった。

 この熱さは覚えがある。

 誰の熱さかも。

 右を向きたかったが、どうしても首が動かせなかった。

 ならばせめて握り返したいのに、それも叶わない。

 最後に残された声すら、掠れた音にもならなかった。

 ずっと黙っていたから、声を取り上げられてしまったのだろうか。

 ようやく、ようやくの事全てを話せる時が来たというのに。

 余りの悔しさに胸が潰れそうになる。

 

「大丈夫……」

 

 不意に声が耳に届いた。

 優しくひそめた、愛くるしい声。

 沈みゆく心が、その一言ですくい上げられる。

 

「呼んでるの…ちゃんと聞こえてる……大丈夫だよ新一」

 

 必死に目を動かして、新一はそちらを見た。

 この声。

 この声だ。

 この声だ!

 ずっと聞きたかった声。

 ずっとずっと聞きたかった声。

 新一と、名前を呼んでほしかった声。

 そこにいる、髪の長い女に。

 

 ――蘭

 

 愛くるしい声に良く合う笑顔、青空の中心で輝く眩しさが、胸をいっぱいに満たした。

 感情が一気に弾ける。

 あの真っ黒な闇の中で欠けていた激しさがいっぺんに蘇る。

 自分の足で立ち上がれたなら、彼女を抱え上げ、何度も飛び跳ねて、部屋中走りまわった事だろう。

 戻ってきたのだ。

 彼女が、呼び戻してくれたのだ。

 首を動かす事も手を握る事も声を出す事も出来ないほど満身創痍だったが、辛うじて許された右頬で笑う。

 身体はこんなに不自由だったが、自由を勝ち取ったと理解する。

 やるべき事はたくさんあった。

 まずは今、戻れた事に感謝して彼女に笑おう。

 お帰りと迎えてくれた、愛する蘭に。

 

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