喉がカラカラ

 

 

 

 

 

 三人揃って家を出た時、空はどんよりとした薄灰色の厚い雲に覆われていた。昨晩の予報では全国的に晴れと自信たっぷりに予報士は言っていたが、外れてしまったと、いささか重い気持ちで三人は米花駅へと向かった。

 環状線から乗り換え、東京駅まであと三つほどになった時、厚い雲は切れ日が射し始めた。

 車窓をすり抜けてぴかーっと射し込む白い光に、コナンは隣に座った女を笑顔で見上げた。

 すると、朝の天気同様、曇り空だった彼女…蘭の顔に、ようやく晴れた笑顔がのぼった。

 蘭は見上げてくるコナンを見つめ返し、にっこりと窓の外を振り返った。

 見渡す限り雲の海だった空は、いつの間にかすっきりとした青空に変わっていた。

 

「良かったね蘭姉ちゃん」

「そうね。向こうもきっと、良いお天気よ」

 

 晴れた空と晴れやかなコナンの声が少し眩しく感じられ、蘭はほんのちょっと、目を細めた。

 程なく電車は到着、ドア脇に立っていた小五郎が荷物を肩に二人へ目配せした。

 そこそこに混み合っていた車内が見る見る空いていく。二人も歩調を合わせ、小五郎の後に続いた。

 

「駅弁何買おうか、蘭姉ちゃん」

「そうね、見るの楽しみだね」

 

 コナンと蘭はエスカレーターに前後に並ぶと、他愛ない会話を交わしながら、小旅行の一歩目を大いに味わった。

 そう、小旅行に出かけるのだ。行く先は関東圏で一泊二日の行程、明日の夜にはもう家に帰り付いているが、たとえ日帰りであっても旅というのは心躍るもの。

 コナンは、彼女との思い出がまた一つ増える事を隠しつつ隠しきれず素直に喜び、子供にかこつけて弾んだ声を上げ、何度も顔を見上げた。

 蘭も同じく『お出かけ』を喜び、とろけそうな甘い声で応え、時折周りの旅行客を見やっては、出発当日のどこまでも盛り上がる気持ちを全身で表した。

 週末の東京駅は、ホームに階段にどこもかしこも見事なほど人の波に覆われていた。

 構内にずらり並ぶ土産物屋駅弁屋の数々、それに負けじとずらり買い物客が並ぶ。

 混雑ではぐれぬよう、コナンと蘭はエスカレーターを降りてすぐ手を繋いだ。

 

「しっかしいつ来ても、混んでるなあ」

 

 目についた駅弁屋の近くで立ち止まり肩の荷物を担ぎ直して、小五郎は感嘆した。本当にと二人は応え、このざわめきも旅ならではだと見回した。

 

「まずは弁当とビールだな。俺は適当に見つくろって先にホームに行ってるから、お前ら、ゆっくり選んでこい。出発は8:52だから、遅れるなよ。23番ホームだぞ」

 

 まあ、まだ時間はたっぷりあるな…時計を確認し、小五郎は新幹線の改札口を振り返った。

 

「コナン、蘭の先導頼んだぞ」

「うん、任せて」

 

 コナンは自信たっぷりに頷き、方向音痴という特技を持つ蘭の手を握り直し振ってみせた。

 小学生に誘導される高校生の風情に、蘭は苦い、複雑な表情を浮かべた。

 

「じゃあ、ホームの喫煙コーナーにいるからな」

「はあい」

 

 一人と二人に分かれ、一人は手近な弁当屋に、二人の方も、まずはと同じ店に向かった。

 

「今日はどんなお弁当にしようか、蘭姉ちゃん」

「そうね、今日はね……。うーん」

 

 コナンに合わせて返事をするが、言葉の意味も、目に映る物も、蘭はほとんど飲み込めずにいた。

 目の前には、これでもかとずらり並んだ色とりどり様々な駅弁があった。こちらには海の幸が山盛りの海鮮弁当、こちらには綺麗に仕切られた幕の内弁当、どれも色鮮やかに食欲をくすぐり、旅の醍醐味の一つを刺激した。

 が、それらは今、蘭の目には正しく映ってはいなかった。

 選ぶ楽しみに浮ついて見えてその実、表情はどことなくぼんやりとしていた。

 何故なら『六』という数字に捕らわれていたからだ。

 それは、昨日遅くまで二人で励んでいた『勉強会』にあった。最中に、コナンがあくびを噛み殺した回数。六回。

 眠気を堪え、遅くまで自分に付き合わせている申し訳なさ、不甲斐なさがその一回ずつに募り、翌日の今日まで影響して蘭を悩ませた。

 コナンの声が聞こえにくくなっているのはそのせいだった。

 まったく、情けない。情けないのろま。

 

「あっちのお店も見てみようか」

 

 けれどいつまでもこんな風にぐずぐずと引きずってしまうのもまた嫌で、蘭は意識して明るい声を出してみた。

 コナンの手を引き、隣の店を目指す。

 

「うん、行ってみよう」

 

 コナンがにっこり返す。

 蘭はぎゅっと奥歯に力を込めた。昨日は昨日で、今日は今日だ。今日はこれから楽しみが一杯で、楽しさ一色なのだ。

 不甲斐ない自分は、ひとまず脇へ退かそう…とは思うのだが、上手く切り替えが出来なかった。

 気付けばまた視線が下に落ちて、昨日の散々な勉強会の中身に打ちのめされるのだ。

 何と情けない事。いつまでももたもたと足踏みしてばかりで、ちっとも前に進んでいない。

 これでは、一体いつになったら横に並べるというのか。

 追いかける背中はどんどんと遠ざかっていくばかり。

 頑張ってついていくから、どうか置いていかないでほしい…繋いだ手をぎゅっと握り、蘭は強い顔で笑った。

 コナンがはっと見上げる。

 

「……ちょっと、迷子になりそうだったから」

「……うん」

 

 確かに辺りはかなり混雑しているが、蘭の言う迷子はきっと別の意味。聞きとったコナンは同じくぎゅっと手を握り笑い返した。

 朝から、いや昨日の二人…三人での勉強会から、いつになく沈んでへこんでくしゃくしゃのくたくたになっていたのは、見えていた。

 彼女はすぐ顔に出る。

 どうやら、物覚えの悪さに自己嫌悪に陥っていたようだ。

 決してそんな事など、ないのに。

 確かに苦手とする部分はいくつかあり、さまよってしまう事も時にあるが、投げ出す事なくじわじわと前進してついには解にたどり着く。

 何とも彼女は素晴らしいのだ。

 しかしそれを素直に伝えたところで、自分が納得しなければ絶対に受け取らない頑固な女の性分を分かっていたので、もどかしさに歯ぎしりを一つ二ついや六回ほども隠しながらして、昨日の分を終えた。

 まったく、どうしたらこの融通の効かない女を励ませるだろう。

 いつもの元気さを取り戻してもらうには、どうしたらいいだろう。

 手を引き、次の店を目指す蘭にふとコナンは言った。

 

「ねえ蘭姉ちゃん、お弁当買う前にさ、何か美味しいジュースでも飲もうよ。ボク、喉カラカラだよ」

 

 人いきれで少し堪えたとため息をつく。冷たいもので喉を潤して、少し休めば、また気持ちも上向いてくるだろう。そう願う。

 何か言いたげに曖昧な笑顔でじっと見つめてくる蘭を見つめ返し、コナンはふと笑った。

 

「まだ時間あるし、ゆっくり行こうよ」

「!…」

 

 何気ない一言だったが、それは蘭の心に思いのほか大きく響いた。

 ああ、そうだと、納得させてくれた。

 それと同時に、腑抜けでだらしのない自分がまた、嫌になった。またしても、彼…新一に余計な気遣いをさせてしまっているではないか。

 嗚呼、また、また。

 

「ね、行こ行こ」

 

 今目を見開いたと思ったらすぐまた心もとない顔になった蘭を力一杯引っ張って、コナンはずんずんとコーヒーの良い香りのする方へ向かった。

 

「蘭姉ちゃん、何にする?」

 

 たまたま目について入ったコーヒーショップにはコーヒーはもちろん、紅茶、ソフトドリンク、そしてショーケースには色とりどりの焼き菓子やパイの類も並んでいた。

 店内はそこそこ混み合っており、ざわざわ、がやがやと賑やかな騒音に包まれていた。

 

「なににする?」

 

 可愛らしい子供の声で見上げられ、蘭は慌ててメニューを見やった。

 

「じゃあ私は――」

 

 誘われてみれば自分も少し喉が渇いていた。冷たい物を飲んで、喉を潤して、それから落ち着こう。

 メニューが決まった。

 

「私、アイスのカフェオレ」

 

 メニュー表から目を戻しながらそう告げると、仰天するような低い声が耳に飛び込んだ。

 

「俺、コーヒー」

「え……」

 

 一瞬息が止まる。

 瞬きも忘れてまじまじと見つめる先には、確かに新一の貌があった。

 コーヒー分の小銭をすいと差し出し、してやったりと言わんばかりの、小憎らしい笑顔を浮かべている。

 凝視したまま、蘭は半ば無意識に顎を引いた。

 伺うように斜めに見つめてくる蘭がおかしくて、コナンは肩を震わせた。

 何か言いたげにむにゃむにゃと唇を動かしていた蘭だが、小銭を受け取るや不意にぱっと背を向け、カウンターに突進していった。

 注文した品を受け取り、蘭が振り返るまで、コナンはその背をじっと見つめていた。

 しばらくして向けられた目には、少し切羽詰まったような、熱心な勢いが込められていた。

 小さく、行こうと声をかけられる。が、それは勘違いで、行こうではなく『いたずら坊主』と言われたのが正解だった。

 それに気付いて、コナンはまた小さく笑った。

 蘭は、丁度開いていた店の中ほどのテーブルにトレイを置いた。

 二人掛けの小さなテーブルに、向かい合って座る。

 

「熱いから気を付けてね」

 

 わざと刺々しく言って、蘭はぶっきらぼうにコーヒーカップを突き出した。

 

「ありがと」

 

 想像通りの態度を笑って流し、コナンは受け取った。

 が、何故か蘭は手を離さなかった。

 さっきの仕返しかと顔を見れば、しまったと言わんばかりの強張った表情があった。

 

「ホットで、よかったのよね……?」

「うん、そうだよ」

 ありがとう

 

 大きく頷けば、途端に蘭はほっと笑顔になった。

 そしてすぐに萎んだ。

 めまぐるしい変化はとても可愛らしくて、コナンはただ見守る。

 蚊の鳴くような声でいただきますと呟き、蘭はストローに口を付けた。

 

「大丈夫だよ、蘭姉ちゃん。大丈夫だよ」

 

 なだめるコナンに唇を尖らせ、蘭はそんな事はないと目で告げた。

 持ち上げた視線をぽとりとテーブルに落とし、居心地悪そうに肩を竦める。

 

「わたし……」

 

 もごもごと、言いにくそうな、言いたそうな声音に、コナンは何も言わずただ耳を傾けた。

 ややあって、途切れた言葉が紡がれる。

 

「……わたしせっかちだから、すぐ急いじゃうの。それで迷子になってるんだから、本当にしょうがないね」

 

 曖昧な物言いの芯をすぐさま掴み、コナンは言った。

 

「でも蘭姉ちゃん、迷子になっても諦めないで、最後は必ず絶対目的地にたどり着くじゃない」

 

 頑固な性分らしく、こうと決めた道はたとえ迷うとも後退しない。背を向けたりしない。

 本当に厄介で、素晴らしい女。

 

「迷子になるからって、最初から行く事を諦めたりしないよね」

「……バカなのよ」

「ふうん」

 

 自分で言って自分で頷く蘭にコナンはくすりと笑って、コーヒーを一口すすった。

 

「じゃあ、ボクはそんなバカな蘭姉ちゃんが大好きだよ」

「……なによそれ」

 

 からかうなと、蘭は眼を眇めた。

 きっと睨めば、そこにあったのはからかうなんてとんでもない、まっすぐ向かってくるしっかりとした眼差しだった。

 

「っ……」

 

 蘭は小さく口を開いた。

 

「大体、新一兄ちゃんが何年もかけて覚えた物を、一カ月もしないで全部覚えようなんてさ、蘭姉ちゃん、虫がよ過ぎるよ」

 

 コナンは言いながら破れかぶれの気分であった。結局ここに至っても、彼女の元気を取り戻す方法が分からない。口を開けば出るのは外れの言葉ばかり。

 けれどそれらはコナンが思うよりはるかに、蘭の気持ちを楽にさせた。

 結局のところ、少しの言い合いが二人…三人には丁度良いのだ。

 それが三人にとって、一番心地よいものなのだ。

 

「……ええ、ええ、どうせ私は図に乗ってますよーだ」

 

 蘭はそう返して、ストローで乱暴に氷をかき混ぜた。グラスの中でがらごろと転がる氷を見ていると、少々愉快な気分になってきた。先刻までの重く湿った気持ちが、氷と一緒に溶けだしていくようだ。

 

「コナン君ほどじゃないけどね」

 いたずら坊主

 

 不意打ちの新一を遠回しにチクリと云われ、コナンは苦笑いを浮かべた。

 

「あれはさ、えっと……」

「……早く、役に立ちたいの」

 

 言い訳の間を与えず、蘭はじっとコナンを見つめた。

 コナンもじっと蘭を見つめる。

 引き結んだ唇にふっと笑みを浮かべ、コナンは二度三度静かに頷いた。

 

「分かってる。とてもよく分かってるよ」

 

 蘭は突如手を伸ばすと、カップに添えられていたコナンの手をしっかと掴んだ。

 びっくりして、コナンは肩を弾ませた。

 

「うわっ」

「絶対追い付くから、もう少しだけ待ってね」

 

 余りの剣幕に思わず笑ってしまいそうになる。

 

「ね、お願いよコナン君」

 

 恥ずかしいお願いなのは百も承知だと、蘭は赤い顔で真剣に言い募った。

 

「やだよ、待たない」

 

 そんな蘭とは正反対に、コナンはしれっとした顔で言った。たちまち蘭の顔が泣きそうに曇る。

 

「ムリヤリ連れてっちゃうもん。待たないよ」

 

 まさかと探る顔が本当に泣き出す前に、コナンはもう一言追加した。

 泣きそうだった顔は今度は、驚きと喜びに変わった。

 

「うん、お願い」

 

 蘭は頷いた。

 コナンも頷いた。

 

「それでね、蘭姉ちゃん。ちょっと熱い」

 

 コーヒーカップに押し付けられた両手を目で指して、コナンは笑った。何より熱いのは、蘭の手。蘭の気持ち。

 

「あ、いっけない!」

 

 蘭は慌ててぱっと手を離した。火傷させてしまったかと、コナンの手のひらを忙しなく確かめる。

 

「大丈夫。ほら、ヘーキだよ」

 

 コナンは笑って首を振った。血行が良くなって、少し赤くなった程度だ。

 

「ごめんね」

 

 ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、蘭はまたびくりと身体を硬直させた。

 

「あ、いっけない!」

 

 今度は何だと、コナンは蘭が見やる窓の外に目をやった。

 

「お弁当買ってかなきゃ。時間は……まだ大丈夫ね。行こうコナン君!」

 

 一気にグラスの残りを飲みほし、身支度を整え、コナンを急かし…蘭は慌ただしく席を立った。

 

「おいしかった、ごちそうさま」

 

 いつもの倍の速さで回転しながらも変わらぬ蘭に笑って、コナンも、一気に飲み干したコーヒーをごちそうさまとトレイに置いた。

 すっかり喉は潤った。

 一緒に気持ちも潤った。

 

「ありがとう、ごちそうさま」

「え、えっと」

 

 とびきりの笑顔を向ける蘭に目をぱちぱちとしばたかせる。何に向けての『ありがとう』なのかやや遅れて掴んだコナンは、心の底から、良かったと笑んだ。

 

「どういたしまして」

「ね、あっちのお弁当屋さん行ってみようか」

 

 店を出るや、蘭は手を引いて歩き出した。通路の向こう、ひときわ混んでいる弁当屋を目指す。

 張り切って早足になる蘭についていくには、コナンは走るしかなかった、

 元気になったのはいいが、やれやれ…たまらなく嬉しいと、コナンは一生懸命走った。

 どんな時でもこうして、一緒に走るのだ。

 自分が引っ張るのかそれとも彼女が引っ張るのかとにかく、一緒に走るのが自分の責任であり、義務でもある。

 しっかり繋がれた互いの手を見つめ、コナンはふと笑った。

 さあ、これから旅行を楽しもう。

 

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