ひと口分の独りじめ |
|
店内を満たす焼き立てパンのふっくら良い匂いの中、毛利蘭はある棚の前で真剣に思い悩んでいた。隣では大きな黒縁の眼鏡をかけた少年が、じいっとその横顔を見守っていた。 蘭の目の前には、二種類のメロンパンが並んでいた。それはただのメロンパンではない。可愛らしい亀の形をした、この店に来た際は彼女がいつも必ず買っているひと品だ。 ただし今日は、いつものグリーンのメロンパンに加え、チョコレートを練り込んだココア色のメロンパンが『期間限定』で売り出されていた。 左はいつもの亀さんのパン、右は今だけの亀さんのパン、さあどちらにしようか。五秒…十秒…右か左かめまぐるしく悩んだ末ようやく蘭は右のパンへトングを伸ばした。 ようやく決定して右へと手を伸ばしたのを見て、隣で待っていたコナンは心の中ではやっぱりと笑った。 期間限定の煽りは何とも効果的だと、残り少なくなった棚をちらと見やる。それから蘭を見上げ、にっといたずらっ子の顔で笑う。
「蘭姉ちゃんの事だから、両方選ぶかと思った」 「あー、またそうやって人を食いしん坊扱いする」
コナン君てひどいね…わざと拗ねてみせる頭上の女に大慌ての体でごめんなさいと謝り、コナンは笑った。 蘭も笑った。 くっきりとした日差しと、涼しげな風。 五月の清々しい晴天の休日。 米花駅の程近く、美味しい手作りパンとコーヒーが評判の店に、コナンと蘭は少し早めの昼を買いに訪れていた。
「私はこれでおしまい。コナン君は、他に食べたい物ある?」
店内をひと回りしてトレイに載せたパンを見せ、蘭が尋ねる。
「ボクもこれでいいよ。あとは、おじさんのサンドイッチだね」
コナンは軽く頷き、顔を上げた。 視線を受けて、蘭はそうねと店内を見回した。 家では、昨日の深酒がたたり二日酔いに苦しむ小五郎が一人留守番していた。 朝食時はさっぱり食欲がなかった小五郎も昼間近になると幾分調子が戻ってきたのか、お昼はパンにしようとの蘭の言葉に、ならばサンドイッチを何でもと頼んだ。
「じゃあ、これとこれを買っていきましょ」
奥の厨房から次々運ばれてくる作り立てのサンドイッチのパックを二種類選び、蘭はトレイに追加した。
「あ、コナン君、夏のコーヒーの限定メニュー、出てるよ。どれにしよう」
優しいお姉さんの声で『コナン君』を呼びながら、蘭は同時に新一も呼んでいた。 彼が好む、こだわりを持つコーヒー。
「……うん」
その、したたかで繊細な心遣いがたまらなく嬉しくて、むず痒くって、コナンは口元がだらしなく緩むのを自覚しながらも止められないまま、締まりのない顔でメニューを見上げた。 嗚呼、この女は本当に。 膨れ上がる感謝に喉が震える。
「えっとね……」
少しかすれた声で、コナンは希望を口にした。 |
手を繋いで帰る道すがら、コナンはパン屋での蘭を繰り返し頭に思い浮かべていた。 笑っていた、笑っていた…幸せだ。幸せそうに笑っている彼女を見られる自分は幸せだ。大嘘つきの己の悪行を棚に上げてよくもへらへらと言えたものだと恥じる気持ちもあるが、幸せに頬を染め穏やかに笑っている彼女を見られるのは本当に幸せだ。 ただ、パンを選んでいるだけなのに、なんて楽しそうなこと。 どちらにしようか悩んでいたあの顔もまた、いい。 わざと拗ねた時のあのとがった唇の何とも言えぬ可愛らしさ。 コーヒーどれにしようと聞かれた日には、天にも昇る思い…それはいささか大げさか。 いやいや、大げさなんかじゃない。 全てがまっすぐ自分に降り注ぐ幸せは、何にもかえ難い。 二人…三人の時間はいつも、彼女のくれる幸いはいつも、本当に有り難いもの。
「お父さん、二日酔い治ったかしら」 「うーん、どうかな」 「帰ってもまだ寝てたら、叩き起こしてやるんだから」 コナン君、引っ張り起こすの手伝ってね
冗談半分の蘭の言葉に合わせて、コナンは任せてと笑った。こんな他愛もない会話さえ、楽しくて仕方なかった。 何せ、彼女が笑っているのだ。楽しくない訳がない。 事務所に帰り付き三階に上り蘭に続いてただいまと玄関に入る、案の定返事はない。留守番はまだ、夢の中のようだ。
「お腹が空いたら、起きてくるでしょ」
予想はしていたと蘭は笑って、小五郎の分を冷蔵庫に収め、てきぱきと昼の支度に取りかかった。 出かける前に準備しておいたサラダを取り出し、買ったパンを大きな皿に並べて、各々の冷たいコーヒーを置く。 そして二人一緒に手を合わせる。 いただきますの声の後、コナンはちらと様子を見やった。 あの店で必ず買うあのパンを前にして、必ず迷う彼女を見る為だ。 さて、亀さんのパン、どこから食べようかと。 いつもいつも、思い悩む。 その姿はいつもながら、格別に可愛い。 何やかやと悩んだ末、いつも通り頭から…思い切りよくいくだろうと予測をしながら、コナンはふと目を落した。 はたと、目が合った。 皿の上で食べられるのを待っている亀のパンと、目が合った。 その、何かを語りかけるような上目遣いが、妙に癪に障った。
良いだろう。 羨ましいだろう。
ありもしない声が聞こえた気がした。
「蘭姉ちゃん、ひと口もらっていい?」
言うなりコナンは無造作に頭をむしり、返事も待たず口に押し込んだ。
「あら……珍しい。でも助かったわ。いっつも、頭の部分は悩んじゃうから」
良かったと無邪気に笑う蘭に笑い返し、コナンは得意満面で冷たいコーヒーに手を伸ばした。いつもながら美味い歯ごたえのパンとほろ苦いチョコチップをコーヒーで流し込み、自分のカレーパンに手を伸ばす。
これで安心して、二人…三人のランチを楽しめる。 |