7/7-ウルワシキセカイ-

 

 

 

 

 

 願い事なんかない。

 願う事なんて、一つもない。

 

 

 

 面倒くせーなー…

 

 毛利探偵事務所の三階、リビングの真ん中に仰向けになって寝転がり、コナンは長いため息を吐いた。

「面倒くせーから、適当に書いちまうか……」

 ぶつぶつと口の中で零し、また長いため息を吐く。

 身体の半分を潜り込ませたテーブルの上には、青と白の短冊が無造作に置かれていた。

 それが、今の彼の投げやりな態度の原因だった。

 今日の授業の終わりに、生徒全員にそれは配られた。

 

 

 

 ――願い事を書いて、明日までに持ってくるように

 担任である小林先生の声と、その後に続いたまるではかったように揃ったクラス全員の元気な返事が、耳の奥でまたもこだまする。

 返事は元気よく!

 事ある毎に教えられる言い付けを守って、半ば悲鳴混じりに子供たちが叫ぶ。

 鼓膜を破らんばかりのそれは、例えるなら…そうまさに、頭上をジェット機が通り過ぎたような轟音。

 なんでガキはああも、元気が有り余ってんのかね…

 大分慣れたとはいえ、一秒だってじっとはしていない、目まぐるしく移り変わって翻弄する子供たちのエネルギーに、感心とも呆れともつかない賛辞を贈る。

 そんな子供たちに混じって送る毎日は、疲れてくたびれてへとへとになってもまだ足りなくて、もう勘弁してくれと言いたくても言えないもどかしさがそこかしこに溢れているが、それはそれで有意義なものといえた。

 馬鹿馬鹿しいと思うか否かは、結局は自分の気持ち次第なのだと、わかったのだ。

 目の前に訪れるものすべてを受け入れるのは無理。

 すぐに折れてしまう。

 だからといってすべてを拒絶するのは愚か。

 いずれ腐ってしまう。

 

「しゃーねーな……」

 コナンはのろのろと起き上がると、傍に転がした鉛筆を握り、短冊を一枚、摘み上げた。

 そして何とはなしに、窓の方に向かってかざした。

「ただいま」

 色紙を通して夕日を見ると同時に、背後から、帰宅を告げる蘭の声が聞こえてきた。

 特に理由もなく、ただ蘭の声を耳にしただけだというのに、コナンは大げさに肩を弾ませ驚いた。

「お……おかえり」

 短冊をさっとテーブルの下に隠し、振り返る。

 買い物袋を下げ、いつもと変わらぬ笑顔の蘭に、コナンはぎこちない笑みを浮かべた。隠す必要もないのにと、咄嗟の自分の行動に内心首を捻る。

「ただいま、コナン君。今日はハンバーグよ」

「わーい、やった!」

 元気に応える少年に蘭も嬉しそうに笑い、それからね、と付け加えがさがさと買い物袋を探った。

「ほら、これ」

「!…」

 自分の身体でテーブルの下を隠し、ちらちらと背後を気にしていた少年の視線が、蘭の手元を見た途端強張る。

「可愛いでしょ!」

 蘭が取り出したのは、庭先に飾るものを半分ほどにした大きさの笹だった。

 笹と飾りと短冊がセットになって、透明なセロハンに収まっている。

「わぁー……」

 内心の苦笑いが強いせいか、驚いた演技が中途半端になってしまう。

 もしコナンが小学一年生ではなく、十七歳の男子だとするならば、「そんな子供みてーな事…」と鼻で笑うだろうが、コナンは紛れもなく小学一年生なのだ。

 無邪気に純粋に、短冊に願い事を書く年頃。

 そんなコナンに、蘭が言う。

「コナン君は、短冊にどんな願い事書く?」

 エプロンをつけながら訊ねる。

「え、と……」

 学校から渡された短冊を前に思い浮かべた適当な願い事が口まで出かかったが、コナンはすぐにそれを飲み込んだ。

 蘭に、適当な事は言いたくなかった。

 

 昔から、蘭は、こういったおとぎ話のような目に見えないものをとても大切にしていた。

 目の高さが同じだった頃、拗ねる顔が見たくて、わざと小馬鹿にした事があった。

 すると蘭は途端に、形の良い口を少し尖らせ、ふんとばかりにそっぽを向いた。

 そんな顔も、可愛らしかった。

 一つひとつの仕草が、たまらなく愛しかった。

 それらは、いつでも自分の傍にあるものと信じて疑わなかった。

 疑いもしない。

 信じる事すら忘れていた。

 浅はかだった。

 目の高さが違ってしまった今、彼女には、一回でも多く、一秒でも長く、笑っていてもらいたい。

 あの夜まで、張り詰めた心を隠し泣き顔を隠し、涙をこらえていた彼女の眼差しをずっと傍で見ていたから、余計に強く思う。

 けれどこれは。

 これは、願う事じゃない。

 

 願い事なんかない。

 願う事なんて、一つもない。

 

「ら、蘭姉ちゃんは何お願いするの?」

 下ごしらえを始めた蘭を見上げ、コナンはごまかしつつ訊ねた。

 聞いてから、しまったと内心舌打ちする。

「私? 私はね……」

 そんなコナンの危惧をよそに、蘭ははにかんだように笑って言った。

「私は……」

 それを耳にした途端、コナンは息も出来なくなるほどの強い衝撃に見舞われた。瞬きすら忘れ、じっと蘭の顔を見つめる。

「今の、誰にも内緒よ」

 頬どころか耳まで真っ赤にして、蘭は念を押した。

「え、あ……」

 耳の奥が腫れた様に重くなって、うまく声が聞き取れない。コナンは呆けたように口を開き、ぎこちなく頷いた。

「絶対よ。特に、新一には内緒だからね」

 そう言うと蘭は、ぽかんと開いたコナンの口に今日のデザートに買ったスイカを「口止め料」代わりに一切れ押し込んだ。その後は、意識してコナンの顔を見ないよう努め夕飯の支度を進めた。

 押し込まれたスイカもそのままに、コナンは、蘭の邪魔にならないよう後じさるのが精一杯だった。

 スイカの甘さは、遅れてやってきた。

 

 私は、新一のお嫁さんになる事

 今の、誰にも内緒よ

 絶対よ。特に、新一には内緒だからね

 

 たとえ二人きりの時でも「コナン君」「蘭姉ちゃん」である事に変わりはなく、人の目がある場ではそれは尚更強調され、その先にあるのは屈辱的な子ども扱いというひどい仕打ちだが、蘭の眼差しは一点の曇りさえなく工藤新一を見ているのだということ、絶対の信頼をもって注がれているのだということ、それが鮮やかに胸に迫ってくるから、しっかり立っていられた。

 彼女の寄せる信頼は、どんな時も、自分を『工藤新一』でいさせてくれる。

 彼女がいるからこそだ。

 ――信じているから

 瞳がそう語るたび、自分は決意を新たにする。

 彼女がいるからこそ。

 いずれ取り戻す真実の日に向かって、胸を張って歩いていけるのだ。

 彼女と二人…三人で。

 

 願い事なんかない。

 願う事なんて、一つもない。

 

 おとぎ話のような、目に見えないものをとても大切にする蘭の為に、自分は、出来る限りの事を自分の力で叶えてみせる。

 それは願い事とはまた違う。

 誓い――約束のようなもの。

 自分の力で叶える。

 蘭の笑顔がいつまでも途切れないように。

 幸せが、いつまでも続くように。

 

 願い事なんかない。

 願う事なんて、一つもない。

 

 書くべき事が決まった。

 

 笹は、屋上に出てすぐの場所に飾った。

 枝につり下げられた短冊には、それぞれ、願い事が書かれていた。

 夕飯時、事務所から戻った小五郎は蘭の差し出した短冊を鼻で笑ったが、そのわりには一番多く使った張本人で、どれもこれも即物的で「らしい」といえば「らしい」願い事あれこれだった。

 蘭の短冊には、そんな父親を諌めたり心配したりと、涙を誘う願い事が綴られていた。当然中には、十七歳の少女らしい微笑ましいものもあった。

 そしてまたコナンの短冊には、これまた小学一年生にふさわしい、無邪気で可愛らしい願い事の数々が並んでいた。

 もちろん、三人目の短冊は作ったものなのだが。

 夕飯後、蘭は後片付けに取り掛かり、その間にコナンは風呂に入り、小五郎はいつものように缶ビール片手にテレビを見ていた。

「お父さん、今日はもうそれくらいにしておいてね」

 洗い終えた食器を棚に戻しながら、蘭は顔を覗かせて釘をさした。

「わーかってるよ…」

 新しい缶を開けながら、小五郎は渋々答えた。

 本当は、これを空けたらもう二本、追加しようと思っていたのだが、日に日に母親に似てくる娘の小言には勝てそうになかった。

「下手に逆らうと、いつ空手が飛んでくるかわかんねーしな…」

 聞こえないよう小声で零す。

 そこへ、コナンが戻ってきた。

 背中を丸め、拗ねたように横目でちらちらと蘭を見やる小五郎の様子から事情を察し、内心密かに同情し肩を竦める。

「ら……」

 キッチンにいる蘭に向かって、風呂が空いた事を告げようとして、コナンは言葉に詰まった。

 汗を流しさっぱりしたついでにうっかり忘れてしまっていたが、顔を見た途端、先刻の言葉をはたと思い出したのだ。

「あ、コナン君お風呂出たのね」

 呼びかけて動きを止めたコナンに気付いた蘭は、特に不審に思う事もなくそう声をかけると、着替えを取りに部屋に入った。

「じゃあ、次私入っちゃうね」

 リビングにいる二人に告げて、蘭は浴室に向かった。

 その後ろ姿を、コナンはそっと見送った。

 顔が火照っているのは、風呂上りのせいばかりではないようだ。

 しばし考えた後コナンは、小五郎に気付かれぬようそっとリビングを出ると、屋上へ続く階段を上った。

 時折穏やかな風吹く夜、空には切れ切れの雲が月を横切って流れていた。

 見上げていた視線を正面に戻し、そよ吹く風にさらさらと揺れる笹の葉を見やる。

 コナンはゆっくりと手を伸ばした。

 

「はー、いいお湯だった」

 頬をほんのり赤く染め、洗い髪をタオルで拭いながらリビングにやってきた蘭は、父親がきちんと言い付けを守っているかさりげなく鋭く目を光らせ、空き缶が増えていない事に小さくよしと頷いた。

 部屋の隅で漫画雑誌を読みふけっていたコナンは、戻ってきた蘭にちらりと顔を上げ、特に何を言うでもなくまた雑誌に目を戻した。しかし何気ない風を装ってその実、今にも心臓が口から飛び出そうに緊張していた。

 髪を乾かそうと一旦部屋に引っ込む蘭に、後悔がどっと押し寄せてくる。

 胸の中は、恥ずかしさで一杯だった。

 そんな様子に気付くはずもなく、蘭は静かに部屋の扉を閉めた。

 ふと、目がいつもと違う箇所を見つけた。

 以前、とある陶芸教室に通い作った湯のみ、今はペン立てとして使っているそこに、笹がひと枝ささっている。

 一枚の青い短冊をつり下げて。

 しずしずと歩み寄り、ゆっくり手を伸ばす。

「あら……」

 と、それより先に、ペン立ての下に挟まれたメモに目がいった。

 そこには、たどたどしい字でこう記されていた。

『新一兄ちゃんから預かったので、入れておきます。勝手に部屋に入ってごめんなさい』

 それがコナンの書いたものだと理解するより先に、蘭はその内容に大きく目を見開いた。

 すぐさま短冊を手にする。

「!…」

 短冊に書かれた文字…左下の工藤新一の名前を見た途端、蘭は息を飲んだ。短冊を手に入口を振り返り、はたと足を止める。

 そしてもう一度じっくりと、書かれた文字を目で追った。

 読み返すごとに、胸が熱くなっていく。

 その頃リビングでは、雑誌を読む姿勢のままぴくりとも動けなくなったコナンが、扉の向こうの蘭を追ってぐるぐると思考を巡らせていた。目の奥がどうしようもなく熱い。

 嗚呼、やっぱり書くんじゃなかった……

 後悔先に立たずという一文が、今ほど心に圧し掛かった事はない。

 らしいといえばらしい自分の行動に、コナンは思い切り頭をかきむしった。

 今にも逃げ出したい気持ちで一杯になる。

 その時、部屋の扉が開いて、蘭が顔を覗かせた。

「ね、ねえコナン君……」

 迷いながら呼びかける蘭に即座に顔を上げ、コナンは強張った笑みを浮かべた。

「な、に……蘭姉ちゃん」

 ひどくうろたえた様子で応えるコナンに、一拍置いて蘭はくすりと笑うと、何でもないと言い残して部屋に引っ込んだ。

 閉めた扉に身体を預け、蘭は小さく息を吐いた。手の中に包み込んだ短冊を胸に押し当て、目を閉じる。

 しばらくそうした後、ゆっくり目を開けて、机に歩み寄る。

 新一の寄越した短冊の横に自分の短冊を並べ、願い事を書くと、小さく笑みを浮かべた。

 桜色の紙片の向こうに、誰かの顔を思い浮かべて。

 今は、声を聞く事も顔を見る事も叶わない。

 けれど、間違いなく傍にいるのだと、ただそれだけの真実で、こんなにも穏やかでいられる。

 時に落ち着きをなくしたりわけもなく泣きたくなったりするけれど、以前のような不安はもう感じない。

 一緒にいるというただそれだけの真実で。

 この時が一生続くよう、短冊に刻む。

 蘭は二枚の短冊をひと枝の笹に結びつけると、ペン立てごと窓辺に置いた。ふと見上げる空は、切れ切れの雲が月を横切って流れ、合間に星が瞬いて見えた。

 二人の願いが叶う日の来る事を祈って、静かに目を閉じる。

 

 三者三様に、夜は更けていった。

 

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