お昼寝枕

 

 

 

 

 

 カラになった二つのプラスチック容器を白い手提げ袋に入れ、コナンは顔を上げた。

 そこには、少し早いおやつに大満足で余韻に浸る愛しい人の顔があった。

「本当に美味しかった、ありがとうねコナン君。ごちそうさま」

 とろけるような笑顔にコナンはこちらこそと首を振った。良かった、本当に。買ってきた甲斐があった。

「今のおやつですっごく元気出てきたわ。もう、すぐに治っちゃうから」

「そうだね」

 コナンは静かに微笑んだ。

 声ははつらつと弾み、眼差しもしっかりこちらを捉えているが、まだいささか苦しいのだろう、喋る合間に肩で息をする様が見て取れた。

 もう少しお喋りをして過ごしたいが、彼女は病人。一日も早く治りたい事だろう、ならば、充分な休養を取るのが一番だ。

「じゃあ蘭姉ちゃん、晩ご飯までもうひと眠りするといいよ」

「えー……うん」

 予想した通りの不満げな声にいくらかのおかしさが込み上げる。そこに、自分も同じ気持ちだという思いが絡み付く。

 それを振りほどき、コナンは言った。

「えー、じゃないの。早く治りたいでしょ」

「……」

 分かっているけれど…蘭はしょんぼりと目を落とし、バツが悪そうに手を組み合わせた。やや置いて一つ頷き、それからもぞもぞともぐり込んでいった。

「……明日には治るから」

「そうだね。蘭姉ちゃん、明日にはいつも通り元気になってるよ」

「そしたら、あの…ちょっとお願い言ってもいい?」

「いいよ、何? 何でもするから言って」

 どんな願い事だって叶えてみせるとコナンは張り切って答えた。

 するとしょげ返っていた瞳はたちまち輝きを取り戻し、無邪気な笑みに変わった。

「じゃあ、治ったら言うね」

 蘭は秘密の話をする時のようにそっと囁き、じっとコナンを見つめた。

 その、少し恥ずかしそうな、何か企みを含んだ眼差しに、コナンは魅了される。

 どんな時でも、嗚呼、この女は可愛い。

「今言わないの?」

「うん。治ったら言う」

「そう、じゃあ…何でも言ってね」

 そしてどんな時でも彼女らしく頑固だと、コナンは聞き出すのを諦めた。

 仕方ない、病人に無理をさせてはいけない。お願い事の中身は気になるが、今は休養が第一だ。

 彼女が良くなるまで一日、二日。

 待つしかない。

 コナンは足元の小さな白い袋を手にすると、お休みと声をかけ部屋を後にした。静かに扉を閉めてから、名残惜しさをぐっと飲み込む。

 

 それから二十四時間。

 月曜日。

 

 大事を取って学校を休んだ蘭だが、午後にはすっかり元に戻り、暇を持て余していた。

 ベッドから抜け出し、窓を開け、横になりっぱなしでこちこちになった手足を振り回し、大きく息をつく。

 今日は少し風が強いようだ。吹き込む風の冷たさに肩がぶるりと震えるが、それもまた気持ちいい。蘭は窓を一杯に開いて、部屋の中にたまった病人の名残を追い払った。

 カーテンがなびいて、部屋の隅々まで冷たい空気で満たされる。

 けれど頬だけはいつまでも火照ったままだった。風邪のせいではない。風邪はもう治った、熱はすっかり引いた。けれど頬だけがいつまでも熱いのは、昨日彼に…コナンに言った、言ってしまったある事が原因だった。

 どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。

 ああと、蘭は力なくため息を吐いた。

 熱が一番高い時に、一番しんどい時に、自分は一生このままかもしれないと悲嘆に暮れたのも今思えばそんな訳もないと馬鹿馬鹿しかったが、同じくらいそれ以上に、思い付いた『甘え』は馬鹿らしくて自分らしくなかった。

 熱が出て、弱気な思いにかられて、それであんな『甘え』を思い付いてしまったのだ。

「……もー、バカ」

 思い切り頭を振ると、まだ少し目がくらくらした。振り払う為に蘭は鏡に向かいいささか乱暴に髪をとかした。

 

 

 

 それから一週間。

 また週末が巡ってくるまで、蘭はあの手この手の言い訳を駆使して、時に夕食の支度に追われるふりをし、時に予習に打ち込む様を見せ、コナンの追求を逃れた。

 しかし、小さな探偵は諦めるという事をしなかった。

 些細な言い回しから真実を掴み取ろうと目を凝らし耳を澄ませ、一挙手一投足を見守った。

 熱心に意識を傾けてくる様にぐらつく心は、一週間目にしてついに白旗を掴んだ。

 本当はそのずっと前から、言ってしまおうと思っていた。

 蘭は高く掲げた白旗をばさばさと振った。

「……でもどうせ、もう分かってるんでしょ」

 先週と同じくよく晴れた週末の昼下がり、溜まっていた洗濯物を一気に干して、取り込み、山となったそれらを自室でたたんでいるところにまたしても情報収集にやってきた小さな探偵に向かって、蘭はぼそりと呟いた。

 タオルや靴下類をたたむのを手伝っていたコナンは、手は止めず軽く頷いた。

「後は、蘭姉ちゃんが言うだけだよ」

 コナンは出来るだけいつもの、子供らしいコドモの声で言ってみせたが、実のところ心中は少し、いや大分荒れていた。

 何せ苦行が待っているのだから当然だ。

 タオルの最後の一枚をたたんでいると、向かいに座った蘭がすっくと立ち上がった。手には、洗いたての白いシーツ。

 部屋のドアの横には、干してふかふかになった枕と毛布が二枚、順に積んである

「じゃあ、手伝って」

 ぶっきらぼうな物言いがおかしくて、実に彼女らしくて、いっそ清々しい気持ちになる。

 不満などない。

 もっともっと色々な事を沢山甘えてくれていい。苦行といったのは冗談だ。

 不満などありはしない。

「コナン君足の方ね」

 言って蘭はばさっとシーツを広げた。

 ああ憎たらしい。

 もう答えを手にしている彼が憎たらしい。

 言い出すのを待っているのが憎たらしい。

 落ち着きはらった顔も何もかもが憎たらしい、腹が立つ…訳がない。

 内心もやもやそわそわしているのは、彼が気に食わないからではない。

 自分がこれから言うべき事が恥ずかしくて、でも言いたくてうずうずして、心がどうしようもなく浮き立っているからだ。

 コナンの心中も似たようなものだった。今来るかもう来るかと気持ちが跳ねて落ち着かない。言い出すなら早くしてくれと必死に念じながら、シーツを整える。

 ふかふかの枕を置き、毛布を二枚。

 さあ、早くしないともう作業が終わってしまう。

 そんな気持ちを読み取ったのか、ついに蘭が口を開いた。

「ねえ、先週行けなかったケーキ屋さん、来週行かない?」

「あ……うん、行こう! 来週も晴れるといいね」

「そうね。じゃあいつものてるてる坊主にお願いしておこう。ね、今日の晩ご飯は何にしようか」

「え、ええと……ううん」

「昨日はあっさりだったから、今日は重めにする?」

「うん、ええと……」

「じゃあさ……一緒にお昼寝して、起きたら一緒に買い物行って、それで決めようか」

 ようやく言えたと、蘭は晴れ晴れとした顔でにっこり笑った。言ってしまうと、恥ずかしさを上回る嬉しさが込み上げ、どんな無茶な甘えもしっかり受け止め包み込んでくれる彼にますます愛しさが募った。

「……うん」

 見事に会話を誘導してくれたと、コナンは眦を下げた。まったく、どんな時でもしたたかで可愛い女。

 だから、どんな苦行でも甘んじて受け入れられる。

「じゃあコナン君壁側ね」

 嬉しさに弾む声で言って、蘭は後からベッドにもぐり込んだ。

 そんなに浮かれて昼寝が出来るのかと、コナンはやれやれと笑った。

「お休み蘭姉ちゃん」

 どうせ自分は眠れないだろうが…目を閉じる。

「あとでね、コナン君」

 そうして仲良く並んで天井を見上げたのも束の間、ひと呼吸する間もなく隣の女に腕を回され、抱き寄せられ、ついにやってきた苦行の時間にコナンは嗚呼と眉間にしわを寄せた。不満などありはしないが泣いてもいいか、もう泣きそうだ。

 この状況を一片の曇りもなく幸せだと言えるが、それだけでは済まないものもある。

「ありがとね、コナン君」

「……いいよ」

 いや、よくない。いややっぱりいい。いいんだ。

 頭の中でぐるぐると二つが繰り返される。

 大体今まで何度も怖いだ何だと強引に引っ張り込んできた癖に今更急に恥ずかしそうに遠慮するからこっちまで意識して何が何だか分からなくなってしまったじゃないか甘えていいと言ったんだから素直に甘えてくれていいんだいつものようになのにどうして今回に限ってまったく嗚呼どうしてくれよう…情けなく沈み込んでゆく気持ちを、蘭はあっさり引っ張り上げた。

「コナン君の匂い好き…昔から大好き」

「!…」

 ほんの短い女の言葉が、二人しかいない部屋をいともたやすく三人にする。

 コナンははっと目を見開いた。

「とても落ち着くの」

 穏やかな声音に包まれ、沁み込んでくる幸いに自然と笑みが浮かんでくる。にやにやと締まりのない顔になってしまう自分を恥じながら、満更でもないと、またコナンはにやついた。

 言うだけ言って満足したのか、蘭はこてんと眠りについた。

 途端に腕が無遠慮に重くなる。

 

 寝付きの良いやつ

 

 コナンは心の中で小さく笑った。

 寝息が近いのが嬉しい。

 体温を直に感じられるのが嬉しい。

 首を曲げ、もうすぐ傍にある少し間の抜けた寝顔をしみじみと眺め、コナンは甘い気持ちに浸った。

 嗚呼、まったく憎らしい女だ。

 したたかで欲張りで、どこまでも無邪気で、だから守りたい最愛の存在。

 二人…三人でいる事に安心してあっという間に眠ってしまうなんて、どこまでも肝が据わっている。

 だから自分は…腐すふりして称賛し、コナンは干したてふかふかの枕に頭を預けた。

 

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