道しるべ

 

 

 

 

 

 朝方しとしとと降り出した雨は昼前に上がったが、下校時刻を迎えても日は射さずどんよりと曇ったままだった。

 校舎から飛び出す子らは皆手に手に傘を持ち、ある者はぐるぐると振り回しながら、ある者は肩に水平にかけ、家路を急いだ。

 コナンと探偵団の面々も同じように傘を持ち、校舎を後にした。

 また雨降りそう、寒いね、手袋してくればよかった…そんな言葉を交わしながら校庭を進む。

 話題は今日の給食に変わり、ひとしきり盛り上がってから、明日の阿笠博士の家でのお泊まり会へと移った。

 新作のゲームが出来上がったと誘われ、元太も光彦も歩美も、明日のお泊まり会を何日も前から指折り数えて楽しみにしていた。

 

「今度はどんなゲームだろうな」

「楽しみですね」

「この前のレーシングゲーム、すっごく面白かったね」

「ええ、疾走感があって楽しかったですよね」

「オレあれちょっと酔っちゃった…でも面白かったな」

 

 その後も三人は口々に予想を出し合い、いよいよ明日に迫ったお泊まり会に目を輝かせた。

 そんな彼らの様子にコナンは半ば呆れた顔をしながらも、はしゃぐ気持ちは分からないでもないと内心笑った。

 やがてそれぞれの分かれ道に差し掛かり、各々手を振り「それじゃあ明日」と帰っていった。コナンも同じように手を上げて、寒々しい曇り空に身を縮めて事務所への帰路をたどった。

 階段をのぼり、いつものようにただいまと事務所に入ると、そこは無人だった。事務所の主小五郎の定位置である窓際のデスクは空っぽで、今かさっきか出かけたのかエアコンだけが静かに稼働していた。

 入り口脇の壁に傘を立てかけたところで、留守番の声がした。

 

「おかえり、コナン君」

 

 蘭だ。

 しかし声はすれども姿は…すぐに察し、コナンはランドセルをおろしながらソファを回り込んだ。

 

「おかえり」

 

 案の定、ソファに横たわる蘭がそこにいた。眠気からか、おかえりと発せられる声はやけに甘く耳に響いた。半ば無意識に頬が緩む。

 

「ただいま」

 

 ランドセルを蘭の学生鞄の横に置き、心配半分、コナンは問いかけた。

 

「どうしたの蘭姉ちゃん、具合でも悪いの?」

 

 閉じかけの瞳はとろんと潤み、口元はほんのり緩み、くすぐったくなるような寝惚け顔にコナンは何度も目を瞬いた。

 

「ううん…ちょっと眠たくなっちゃっただけ」

「ならいいけど…じゃあ、部屋に行って寝た方がいいよ」

 

 そう言ってコナンは促した。こんなところでこんな窮屈な格好で休んでも、あまり休まらないだろう。

 

「十分だけ、ちょこっと寝るだけだから」

 十分したら起こしていいから

 

 蘭は緩慢に首を振り、小さくあくびをした。

 

「寝るのはいいけど、ここじゃダメだってば蘭姉ちゃん、風邪引いちゃうよ」

 ほら、手を引っ張ってあげるから

 

 ぐずる彼女の手を取り、コナンは促した。

 

「ええー…もうちょっとだけいいでしょコナン君……」

「え、いや、うん……うん」

 

 どうにも弱い声、弱い眼差しで駄々をこねる蘭にもごもごと呟き、コナンは引く手を緩めた。心配する気持ちと、甘やかしたい気持ちとがせめぎ合う。期待してじっと見上げてくる女の目にあってはどちらに傾くかは明白だが…さて困ったと往生していると、信じられない言葉が耳に飛び込んできた。

 ふふと笑いながら蘭が言う。

 

「ありがと…寝てる間チューしてもいいよ」

「バ――!」

 

 余りの事にコナンは目を見開いた。息は詰まり、顔は火照る。

 こいつ…わざと寝惚けたふりしてからかってんのか!

 何か言わんとコナンは口をぱくぱくさせるが喉につかえて何も出てこない。

 一人大慌てのコナンの顔が真っ赤になるのを見る前に、蘭はすとんと目を閉じた。

 

「あ……」

 

 どうやらからかったのは間違いないが、寝惚けたふりは間違いのようだ。

 間を置かず、くうくうと静かな寝息が聞こえてきた。

 コナンはふうと息をついた。思いがけない言葉にどっと疲れたと肩を落とす。

 

 まったく、びっくりさせやがって……

 

 落ち着くと同時に怒りが込み上げてきたが、それはすぐに消えた。当然だ、目の前で疲れて寝入った女を見ては、怒りなんてたちまち消え去る。

 彼女がこんな風に寝入ってしまうなんて滅多にない事、よっぽどの事だ。無理もない、日々の家事に学業に空手部主将としての務めにと忙しい毎日を送っているのだ、いくら彼女が元気の塊とはいえ、疲れないはずがない。

 愛くるしいからかいの笑顔がすっかり寝顔に移り変わった今、そこここにうっすらとそれが見て取れた。

 

 ……蘭

 

 そうっと呼びかけ、コナンは優しく頭を撫でてやった。柔らかく艶やかな黒髪が手のひらに気持ちいい。ついもう一度、もう一度と手で撫でる。

 十分経ったら起こしていいと蘭は言ったが、起きるまで起こさずにいよう。

 もっとも、一度眠ったら彼女はちょっとやそっとの事では目を覚まさないが。

 一人苦笑いを浮かべる。

 とにかく、寒くないように。

 コナンはあちこち見やった。まずはエアコン、それから窓、すきま風、彼女に害なすものがないか目を配る。それから奥の部屋に毛布を取りに行き、先にかけたコートの上に少々苦労しながらかけてやる。

 起こさないよう気を配った甲斐あってか、すうすうと気持ちよさそうな寝息が聞こえ、何だかたまらなく嬉しくなった。

 こんな風に無防備に寝入ってもいいほど、甘えてくれているのだと思うとたまらなく嬉しい。

 余計な気苦労を背負わせてしまっている張本人が、図々しいのは百も承知で、コナンはそっと微笑んだ。

 たまらなく愛しい女。

 また優しく頭を撫で、そのまましばし正面からの寝顔を眺める。

 無防備で、少し間抜けな寝顔。

 だからこそこの上なく可愛いもの。

 この世で一番大切な人。

 コナンはしみじみと、誰より好きな女を見つめた。

 楽しくて、照れ臭く、落ち着きがなくなる。

 そこで不意に、先ほど彼女が言った言葉が頭を過ぎった。

 

 寝てる間チューしてもいいよ

 

 耳をくすぐった甘ったるい声の再来に頭の芯が熱く痺れる。

 まさか、まさか本気ではないだろう、あんな…あれはただ自分をびっくりさせようと思って、あるいは寝惚けて言っただけの事だ。

 まったくもって本気ではない。

 調子に乗って本当にしようものなら、目を覚ました彼女はなんて事をするのと烈火のごとく怒るに違いない。

 本当に油断も隙もないと、頬を膨らませ眼光鋭く睨み付けてくる様が容易に浮かぶ。

 でももしかしたらとコナンは考える。もしかしたら本気だったかもしれない。その場合は、なんでしてくれなかったのと…いや、それではあまりに自分に都合がよすぎる、身勝手にも程がある。

 彼女はただ寝惚け半分言っただけだ、本気ではない。

 けれど、いや、もしかしたら。

 コナンは弱り果て、右へ、また左へうろうろと移った。

 

 まったく…ノンキな顔して寝やがって

 

 コナンは恨めしげにぼやき、寝顔に視線を注いだまま居心地悪そうに行きつ戻りつを繰り返した。

 そこではたと思い付く事があった。

 こんなところでぐずぐずしている場合ではなかった。

 コナンは壁の時計を見上げると、また蘭の寝顔に目を戻し、ゆっくりゆっくり、屈み込んだ。

 ほんの少しほどけた柔らかな唇に誘惑を感じない訳ではないが、それよりも思い付いた事を優先する気持ちの方が強かった。

 いささかの未練をぐっと飲み込み、コナンは眠る彼女にそっと、今日はカレーライスにするよと告げた。

 もちろん返事はない。

 何の反応もない。

 静かな寝息がくうくうと途切れなく続くだけ。それが何とも可愛くて、コナンは口端を緩めた。

 音を立てないよう静かにランドセルを背負い、蘭の学生鞄を持ち上げる。

 

 じゃああとでね

 

 今度は心の中で告げて、足音を忍ばせて一歩ずつ進み事務所を出る。

 それから小一時間ほど経った頃、蘭はぱっちりと目を覚ました。

 目覚めてすぐは頭がついていかず、のんびり身体を起こしのんびりあくびなどついたが、ほんの十分のうたた寝のつもりが十分どころでなく眠ってしまった事に気付いた瞬間から、あたふたと辺りを見回し、いけない、しまったと慌て始めた。

 夕飯にはまだ少し時間が早いが、夕飯を作るにはすっかり遅い時間。

 上の階では今頃、腹を空かせた二人がまだかまだかと待っている事だろう。

 まったく、とんだ大失敗だと蘭は立ち上がった。

 その弾みで、かけられていたコートと毛布がばさばさと床に落ちる。

 

「……あちゃ」

 

 彼がかけてくれたのだろうそれらに感謝しながら大慌てで拾っていると、背後で事務所の扉が開く音がした。

 即座に振り返ると、腹を空かせているだろう二人の内の一人、コナンと目が合った。

 

「ゴメンねコナン君!」

 すぐ夕飯にするから

 

 蘭はすぐさま手を合わせ平謝りに謝った。

 半ば予想した通りの蘭の反応にくすりと笑い、コナンは首を振った。

 

「ううん、大丈夫だよ蘭姉ちゃん。今カレーになったところだから、呼びに来たんだ。丁度よかった」

「……え、もしかして、作ってくれたの?」

「うん、おじさんと一緒に買い物行ってね」

 今日はカレーライスだよ

 

 コナンはにこにこと告げた。

 あの後事務所を出ると、丁度帰って来た小五郎と鉢合わせになった。蘭が疲れから眠ってしまった事、だから今日は代わりに自分たちで夕飯の支度をする旨を告げると、小五郎は意外にも快諾し、カレーに張り切って取りかかった。

 買ってきた肉と野菜を前に二人奮闘し、後は煮込むだけになったところで、仕上げを小五郎に任せ蘭を呼びに来た次第だ。

 

「え、お父さんも……」

 

 小五郎も一緒だと聞き、蘭の目が驚きと嬉しさに染まり、更には信じられないと疑い半分の色にまでなった。

 

「今日は蘭姉ちゃん、あとは食べるだけだよ」

「ありがとう。本当にありがとう、助かる、ゴメンね」

「ううん、少しは眠れた?」

「うん、お陰でばっちり」

 

 蘭はソファを回り込み、コナンの前でしゃがみ込んだ。

 

「ありがとう、コナン君」

 

 少し済まなそうな笑顔で蘭が言う。

 コナンは何度も首を振った。

 彼女の寝顔を見て思い付いた事、選んだ道はどうやら正解だったようだ。

 どんな時もどんな事でも、この女が行く先を示してくれる…だから三人で進めるのだ。何にも代えがたい幸いが心の中一杯に広がっていくのを、コナンはしみじみと噛み締めた。

 

「じゃあ行こうか」

「……あ、ちょっと待って、コナン君」

 

 途端に蘭はもじもじと言いにくそうにし始めた。

 

「あれ、寝る前のあれ……」

「あれって……――!」

 

 言った途端にコナンは思い出した、蘭のからかい文句を。

 

 寝てる間チューしてもいいよ

 

 たちまちさっと血の気が下がる。

 さてどう答えれば正解なのか逡巡する前に、蘭がむにゃむにゃと言葉を濁しながら謝りだした。

 

「あれ、私あんな事言っちゃって、あの…ゴメンね」

「ううん、だと思った」

 

 ああやはりとコナンは笑った。寝惚けて気が緩み、少しからかってみたくなっただけのようだ。調子に乗って本気にしなくてよかったと、安堵する。

 こちらも正解だったようだ。

 

「でも、しててもよかったけどね」

 ちょっとだけ、期待してたりなんかして

 

 じっと見つめてそう告げ、蘭はすっくと立ち上がった。

 

「えっ……!」

 

 驚いて見上げるコナンにいたずらっ子の顔で笑い、蘭は行こうと促した。

 コナンはぎこちなく頷き、後に続いた。

 どちらでも、正解だったという事だろうか。
 そもそも彼女が望んだのは、コナンかそれとも新一か…彼女の表情からは全く掴むことが出来ない。

 

「あ、ここまでカレーの良いにおいがする」

 

 嬉しいなと目尻を下げ喜ぶ蘭。その後を、複雑極まりない面持ちのコナンがついてゆく。

 

 嗚呼、二人…三人の道のりは色んな意味で険しいと、泣き笑いの顔でコナンは階段をのぼった。

 

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