お休みの前に

 

 

 

 

 

 リビングを満たす賑やかなテレビの音声に、時折小五郎のやや控えめないびきが混じる。

 蘭は元よりコナンも今やすっかり慣れたもので、扉越しに聞こえてくる断続的な騒音をものともせず、楽しげに会話を交わしながら旅行の後片付けをしていた。

 景色が最高だった、ボート楽しかった、露天風呂良かったね…片方が言えばもう一方も大きく頷き、言葉は後から湧いて尽きない。

 片や小五郎は、夕飯の頃から非常にくたびれた顔を見せ、入浴を済ませる頃にはよたよたと足取りもおぼつかない程に疲れ切っていた。山登りが相当堪えたようで、旅行の始末もそこそこにベッドに倒れ込んだ。

 部屋に引っ込む際、疲れ知らずのコナンと蘭にいくらかの嫌味を零したが、返って自分が情けなくなったのか、力なく肩を落とし扉の向こうに消えた。

 それから五分もしない内、いびきが聞こえてきた。

 壁越しにそれを聞きながら、蘭は整理し終えた旅行鞄をたたみにかかった。いつも通り真っ平らにしてベッドの下に入れようとした時、手のひらに何やら小さなかたい物が触れた。

 少し探って、すぐにそれがトランプである事に気付く。

 随分前から旅行鞄の内ポケットが定位置になっているそれは、園子らと出かけた時や空手部の合宿の際、丁度いい暇つぶしとして活躍していた。

 今回の旅行でも、行きの列車の中や旅館で出す場面はいくらかあった。

 しかしどうしてもためらわれ、結局一度も出さずじまいとなった。

 というのもコナンの手…怪我をした左手がまだ自由に動かせない事もあって、取り出せずにいたのだ。

 トランプがあると言えば、彼は喜んでやろうと言い出しただろう。それでどうなるか。何でもない風を装いその実、不自由そうにカードを扱うだろう事は容易に想像出来た。

 まだまだ日常でも、何かと不便を強いられているのを散々見ている。何でもない風を装ってその実、もどかしそうに悔しそうにしているのを何度も。

 だからせめて旅行の時くらいは、思い出は楽しいものだけを残したかったのだ。

 左手は少しずつ元に戻りつつある。

 治りきったら、トランプを楽しめばいい。

 心の中で頷いて、蘭はベッドの下に旅行鞄を押し込んだ。しかしすぐに思い直し、また引き出す。

 トランプで思い出した事があるのだ。

 ケースから取り出して自分のポケットに移し、蘭はリビングに向かった。

 座卓のいつもの場所では、コナンがくつろいでいた。コップに注いだ冷たいジュースを片手に、テレビを眺めている。好みの番組ではないのか、やや退屈そうだ。

 

「お片付け終わった、蘭姉ちゃん」

 

 コナンは近付いてくる物音に気付いて顔を上げた。

 

「うん、洗濯は明日するから、全部出しておいてね」

「はあい。冷蔵庫にジュース冷えてるけど、蘭姉ちゃんも飲む?」

「ありがと、もらうね」

 

 ひんやり冷たいグレープジュースをコップに満たして、蘭はいつもの場所ではなく、コナンの向かいに座った。

 

「ね、コナン君」

 

 呼びかけられ目を向けたコナンは、即座に蘭の意図をくみ取り笑顔でコップを手に取った。

 

「かんぱーい」

 

 なんとも嬉しそうな声の女にくすくす笑いながら、カチンと合わせる。

 こんな事でも楽しげに笑うから、ついつられて同じだけ笑顔になる。コナンは些細な幸いを大切に飲み込んだ。

 ああ、冷たくて美味しい…ため息交じりの女の声に心の中で頷き、コナンはもうひと口飲み込んだ。

 何気なく時計を見ると、間もなく九時になるところだった。

 この後も特に見たいテレビもなし、早めに部屋に引っ込んで、眠くなるまで先日買った本でも読もうか。

 そうぼんやり考えていると、声がした。

 

「今日は夜更かししないで、早く寝るのよ」

 旅行で疲れたんだから

 

 コナンはぎくりとなって即座に頷いた。完全に見透かされてしまった。顔に出てしまっていただろうか。

 

「えへへ…ちゃんと寝るよ」

「日付が変わったら?」

「ううん、今日中にだよ」

「あら、そう」

 

 くすくすとからかい交じりの眼差しにコナンはしどろもどろで首を振った。

 まったく、この女にはかなわない。

 参ったと笑い、コップに手を伸ばす。

 

「じゃあコナン君、寝る前にいいもの見せてあげる」

 

 蘭は満面の笑みでポケットからトランプを取り出し、正面に置いた。

 トランプで思い出した事。以前、新一に見せてもらったちょっとした手品。それを『コナン君』に披露しようと思い立ったのだ。

 

「え、なになに」

 

 コナンは張り切って身を乗り出した。トランプを見た瞬間ピンと思い浮かぶものがあった。

 

「ここに、何の変哲もないトランプがひと組あります」

 ありますね

 

 ややぎこちない手つきで、蘭は左から右へとカードを広げた。

 

「うん」

 

 にこにこと頷くコナン。首をひねらずとも、彼女の考えは手に取るように分かる。

 以前自分がやってみせたマジックをやろうというのだ。

 やり方はとても単純だが、びっくりして楽しいミニマジック。

 果たして上手くいくのかと、少しのはらはらを胸にコナンは成り行きを見守った。

 

「えっと…このトランプ、この通り種も仕掛けも、ありません」

 

 蘭は広げたカードを一つの山に戻すと、いささかつかえながら口上を述べつつ、カードを一枚引き出してくるりひらりとコナンに見せ確認した。

 

「うん、ないね」

 

 蘭の表情につられたのか、コナンはいささか強張った笑顔で頷いた。

 

「さてこのトランプ、一見すると普通のトランプに見えますが、実は……」

 

 少し調子が出てきたのか、蘭はなめらかに言葉を繰り出しながら、カードを四つの山に分けていった。

 コナンは固唾を飲んで見守っていた。今のところ、手順に問題はない。

 

「さて、四つの山に分かれました。ではめくってみますね」

 

 四つの山の一つ、一枚目をさっとめくる蘭。

 その顔が直前まで強張っていた事、めくった瞬間、無事マジックが完成していた事に安堵して緩んだのを、コナンは見逃さなかった。

 

「ご覧の通り、四つの山の一番目にはキングのカードが!」

 

 けれどそれは漏らさず、得意満面で見つめてくる蘭を凄い凄いと絶賛した。

 拍手を受け、蘭は心の中でほっと胸を撫で下ろした。

 結構覚えているもの…蘭は、自分の記憶力と、教えてくれた誰かに感謝した。

 

「すごいでしょう。これね、前に新一に教えてもらったものなの。コナン君にも教えてあげるね。種明かし」

「……ホント、ありがとう」

「まず最初にね、カードを準備するの」

 

 蘭の説明にコナンはうんうんと頷いた。

 時を経て再現されるやり取りは、少しむず痒い気持ちにさせた。

 その中には、ちくっと胸を刺すほんの僅かな痛みが混じっていた。

 それも、またいい。

 コナンはそっと唇を引き結んだ。

 その形は少し笑みに似ていた。

 

「教えてくれてありがとう、蘭姉ちゃん……ボクも、前に新一兄ちゃんに教わったマジック知ってるんだ」

「……え」

 

 蘭の笑顔が一瞬強張る。

 そんな蘭にじっと視線を注ぎ、コナンは言葉を続けた。

 

「使うカードはジョーカーも含めて全部」

 

 テーブルに広げられたカードを片手で手早くひとまとめにすると、コナンは蘭の前に差し出した。

 

「それを、蘭姉ちゃん、普通に混ぜて」

 

 片手にカードを持ち、もう一方の手でカードを混ぜる基本の動作をしながら、コナンは言った。

 

「うん」

 

 頷き、蘭は言われた通りカードをシャッフルした。

 

「これくらいでいい?」

「うん。そうしたらテーブルに置いて、一枚目をめくって、横に置いて」

 

 出てきたのはハートの9だった。

 

「覚えたら元通り山に戻して、またさっきみたいに混ぜて」

「うん」

 

 神妙な顔で蘭はシャッフルを始めた。そんな彼女につい笑ってしまいそうになる。

 

「出来たら、テーブルに置く。そして一枚目をめくる」

 

 指示に従い蘭は一枚目をゆっくり横に置いた。

 出てきたのは、ハートの9だった。

 

「あ、え!」

 

 まじまじとトランプを見つめた後、蘭は向かいに座ったコナンへと目を上げた。

 

「さっきと同じ。でしょ」

 

 にこやかなコナンの笑顔が信じられず、蘭は再びトランプに目を戻した。

 

「え、なんで?」

「もう一回やってみる?」

「……うん!」

 

 次のカードはダイヤの3だった。

 それを山に戻し、無造作に混ぜ、テーブルに置き、一枚目をめくる。

 ダイヤの3が出てきた。

 全て自分の動作によるもので、細工の類は一切ない…出来ないはずなのに、どうして同じカードが出てくるのか。

 自分の手が信じられないとばかりに蘭は両手を不思議そうに見つめた。

 

「これって、どうなってるの?」

「面白いでしょ」

 

 そう言ってコナンはふと笑った。

 

「うん……」

 

 蘭は憮然とした面持ちで頷いた。

 コナンの得意げな顔…きらりと輝く眼差しは記憶にある誰かの物と全く同じで、少し癪に障った。

 癪に障るのに大好きな笑顔。

 まったく、腹立たしい。

 

「ねえ、種明かししてよ」

「タネはね、……新一兄ちゃんが帰ってきたら、聞いて」

「!…」

 

 蘭は目を見開いた。正面にある顔は柔和に微笑み、ただ眼差しだけが驚くほど強かった。

 まっすぐひたむきに見つめてくるコナンを黙って見つめ返し、蘭はしばしそうしていた。

 それからぎこちなく口を開く。

 しかし返事をしようにも、声が出なかった。

 分かったと、そうすると応えたいのに声が出ない。

 コナンには重い沈黙だった。堪え切れず絞り出す。

 

「絶対帰ってくるから、さ……」

 

 それを聞き、蘭は反射的にコナンの手を掴んだ。

 

「!…」

 

 驚くほど熱い手にコナンはびくっと肩を弾ませた。すぐに握り返す。

 すると声がした。

 

「当り前よ」

 

 当り前の事はしかし、今の二人にはとても遠いものだった。果たし難く、はるか遠く、掴み難いもの。

 それでもコナンは頷いた。

 蘭も頷いた。

 そして二人は同時に笑った。

 始めは互いを伺うように、それから二人で確かめるように。

 

「でもあいつ、ちゃんとすんなり教えてくれるかなあ」

 いっつも何かと意地悪するし

 

「え、そ、ちゃんと教えるよ!」

「どーだか。怪しいものね」

 

 蘭はふふんと鼻先で笑い、コナンは憮然と唇を尖らせた。

 それからコナンはふっと息を吐いた。

 いつもこうして、してやられる。

 なのにむず痒くて嬉しくなってくるのは何故だ。

 

「すんなり教えなかったら、無理にでも締め上げて聞き出してやるんだから」

「……そうだね。ぎゅうぎゅうに絞っちゃえば」

「え、やだ、冗談だからね」

 

 少しふてくされた物言いのコナンに、蘭は慌てて手を振った。

 

「どーかな、怪しいもんだよね」

「もう、そんな事しないってば」

 

 そっぽを向いたコナンをなだめすかす。

 すぐにコナンは横目で見やり、にっと歯を見せた。

 何故なんて、考えるまでもない。

 彼女がここにいるからだ。

 自分と彼女とここに二人…三人でいるからだ。

 

「ホントかなあ」

「ホントよお」

 

 くすくすと笑い合いながら、二人は心の中でもう一度言葉を交わした。

 帰ってくるという約束を、確かに。

 間もなく、お休みを言う時間になる。

 

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