プリンと探偵と探偵と探偵助手

 

 

 

 

 

 二階の毛利探偵事務所に上がる階段を、コナンは一段ずつゆっくり上っていた。

 理由は、背負ったランドセルにしまった大事な『デザート』を崩さない為…だけではなかった。

 ほんの数段辿ったところで、コナンは大きく息をついた。まるで、運動不足の中年そのものといったしんどそうなため息だ。

 実際、たった数段がひどくしんどかった。口を大きく開けないとしっかり息が吸えず、吐き出すのにも力がいった。

 

 こりゃ完全にカゼ引いたな……

 

 ぐすぐすと鼻を鳴らし、コナンはまた一段上った。

 昨日は珍しく気温が上がり、昼には汗ばむ程の陽気になったが、今日はまた朝から厳しい寒さに戻った。

 それでも朝の内はいつも通りだったが、寝起きから怪我をした左手が痛みに疼いていたのは寒さのせいではなかったのだ。

 

 嗚呼…まったく、冴えない

 

 心中でぼやいた後、ふとおっかない考えが浮かぶ。

 今日は待ちに待った蘭に『ぶんどられる』日、先日クレヨンを持ち帰った時同様、一日が長く感じられて仕方なかった。いや、今日だけではない。今日までの間も長く感じられた。

 この、刻々と膨れ上がる甘い期待が行き過ぎて、身体が疲れてしまった、結果熱を出してしまったのではないか…考えるのも恐ろしい考えが頭を過ぎる。

 

「はは…だっせー……」

 

 そんな馬鹿な事と声を上げて否定するが、全くあり得ないものではないのだから本当に恐ろしい。

 コナンは小さく身震いを放った。

 

 カッコわりー……

 

 思い切り顔をしかめしょぼくれる。これでは彼女を…蘭を笑えたものではない。

 少女趣味だの何だのと小馬鹿にしていた罰が当たったのだと、コナンは珍しくも自省した。

 恐らく、のど元過ぎれば何とやら、だろうが。

 ようやく扉の前にたどり着く。

 いつも通りの声でただいまと中に入ると、小五郎もいつも通り窓際の席にだらしなく腰掛けており、昼のバラエティ番組をぼんやり眺めながら、形ばかり、おう、と声を上げた。

 視線はテレビ画面に釘付けのままだ。

 丁度良かったと、コナンは冷蔵庫のあるキッチンへと向かった。妙なところで鋭い目を持つ小五郎に勘付かれて、ひと言ふた言の嫌味を言われるのはごめんだ。だからそのまま、いつも通りテレビを見て暇つぶしをしているといい。

 コナンは冷蔵庫の前でそっとランドセルを降ろし、大切に持ち帰った小さなデザート、給食についてきたプリンを取り出すと、まず中身を確かめた。

 大丈夫、傾いても、崩れてもいない。

 ほっとして冷蔵庫に収める。

 ドアを開けてすぐ目に入る高さに。

 次に冷蔵庫を開けるのは彼女だ。

 じきにただいまと帰ってくる彼女をいつも通り迎えて、例の物は冷蔵庫にあると伝える、それから…どこまでも広がっていきそうな、やや情けない妄想を、コナンは慌てて振り払った。

 寒気がしたのは風邪のせいかそれとも――。

 小さく肩を竦め、コナンはキッチンを出た。

 ソファに腰掛け、それから形ばかりマンガを膝に乗せ目を閉じる。身体がかったるい。頭がぐらぐら落ち着かず、喉の奥から嫌な味が込み上げてくる。

 こうして安静にしていれば悪化する事はないだろうが、嗚呼…面倒だ。

 急に熱を出したりする子供の身体に悪態をつく。

 腹立ち紛れにページを乱暴にめくる。

 その一方で、帰ってきた蘭が冷蔵庫のプリンを見て何を言うか、自分に都合の良い妄想を繰り広げる。途中でやはり寒気に見舞われ中断するが、気付くとまたも甘い時間を思い浮かべていた。

 そんなに楽しみだったのか。

 ああそんなに楽しみだったよ。

 しまいには自分とケンカまがいの事まで始める始末。

 馬鹿馬鹿しい事この上ないが、彼女を喜ばせたくてむずむずしているのだ、仕方のないこと。

 コナンはそう自身を納得させた。

 と、テレビからひっきりなしに流れていた通販番組の口上、賑やかさを通り越してやや騒々しいお喋りが、不意にぶつんと途切れた。

 小五郎がテレビを消したのだ。

 おや、と思ってコナンが何気なく見やると、丁度椅子から立ち上がるところだった。

 どこかへ出かける予定でもあるのだろうか。それならこちらも都合がいい、三階に行って少し眠ってしまおうと、コナンもマンガを閉じた。

 しかし思惑は外れる。

 

「おい、行くぞ」

「……え?」

 

 コナンは目をぱちぱちと瞬いた。今日、この時間から一緒に出かける約束はしていないはずだと、傍に立った小五郎を訝しげに見上げる。

 すると無遠慮に手が伸びてきた。

 コナンは咄嗟に目を閉じた。

 自分が何か忘れているせいで、ゲンコツを食らうのかと身構える。

 しかし手は、額に当てられた。

 

「えっ……」

 

 大きく、少しがさついた父親の手が額を覆う。コナンはそろそろと目を開けた。

 

「やっぱ熱いな」

 

 その言葉にひやっと肝が冷える。いつから見透かされていたのだろうか。

 

「ほら、早く支度しろ。医者行くぞ」

 

 面倒だと言わんばかりのしかめっ面で、小五郎は傍のマフラーを引っ掴みコナンの首にぐるぐると巻き付けた。

 

「あ、うん……」

 

 コナンは気まずそうに頷いた。

 隠された物を見付けるのは得意だが、どうやら自分は見付けられないよう隠すのは不得手のようだ。

 それで蘭に知れてしまったわけだし…今も、どこから何を見抜いたか、小五郎に体調不良を見破られてしまった。

 まったく冴えない。

 ため息を一つ、コナンはソファから降りようとした。

 

「……うわ! お、おじさ、おんぶはいいよ! じ、自分で歩けるよ!」

「うるせー、んなフラフラしてんのに、自分で歩けるかっての」

 大体、もたもた歩いてったら時間の無駄だろ

 

 更にぶつぶつ零しながらも、小五郎は風邪っ引きの少年を軽々と背負った。

 

「で、でも、あのボク……」

「うるせえっての。んじゃ行くぞ」

 

 コナンはおろおろと戸惑いの声を上げたが、小五郎は有無を言わさず連れ出した。

 向かった先の新出医院で軽い風邪と診断され、四日分の薬が処方された。

 帰りも背負う気満々の小五郎にコナンはまたも愚図ったが、結局、行きも帰りも負ぶわれて運ばれた。

 子供が父親に背負われている、何のおかしさもない光景だが、コナンの心中は複雑だった。

 しかし発熱のせいだろうか、あれこれ考えるのが途中で億劫になってしまった。もういいや、仕方ないかと放棄して身体を預ける。半ばやけ気味だったが、それは思いのほか心地良かった。

 てくてくと歩調に合わせて揺れる背中で、コナンは段々とうとうとし始めた。街中の雑踏がざわざわと耳をすり抜け、眠りを誘う。

 夢現でまどろんでいると、優しい声が名を呼んできた。

 はたと目を開けるとそこはすでに部屋の中だった。いつ戻ったのかいつ着替えたのか、小五郎の寝部屋におり、パジャマ姿で布団に横になっていた。

 そして目の前には、少し心配そうな蘭の顔があった。

 コナンは半ば混乱気味に笑みを浮かべた。

 カーテンが閉まった窓の向こうは、すでに夕焼けを越えているようだ。

 帰り道、あのまま小五郎の背中で眠ってしまったのだろうか。いや、ぼんやりとだが、手伝われてパジャマに着替えた記憶が残っている。それから、玄関先で降ろされ、靴を脱いだのも覚えている。パジャマに着替えて布団に入る前、確か薬を飲んだ。

 途切れ途切れながら経緯を思い出していると、女の手が額に触れてきた。

 つい身構えると、頭の下で水枕に入った氷がころころと音を立てた。

 

「今日は急に寒くなっちゃったから、それでカゼ引いちゃったのね」

 

 痛ましそうに見つめてくる蘭に気まずそうに笑い、コナンは口を開いた。

 

「心配させてゴメンなさい。でも約束した物は、ちゃんと持って帰ってきたよ」

 

 事務所の方の冷蔵庫に入れてあるから

 そう伝えると、たちまち蘭の顔にぱっと花が咲いた。

 

「ありがとね、コナン君。さっき、三階の冷蔵庫に移したわ」

 

 それは熱でしょぼついていたコナンの目に眩しく…雲一つない青空の太陽となってとても眩しく映った。

 耳から沁み込む声、目に映る晴れやかな笑顔が、何よりの特効薬となってコナンの身体包む。

 自分が伝えるより先に彼女が見付けてしまった、順番が入れ替わってしまったのは少し悔しいが、そんなもの些細な事。

 これこの瞬間を待ちわびて毎日心躍らせていたのだ、何よりほしいと待ち焦がれていたのだ、身も心も軽くなって当然だ。

 コナンも同じだけ笑顔になって、蘭を見上げた。

 

「ご飯の時、一緒に食べようね」

「え、あれは全部蘭姉ちゃんの――」

 

 あれは全部蘭が『ぶんどる』ものだと言いかけた時、キッチンの方から小五郎の声が聞こえてきた。

 

「おーい蘭、ちょっと小腹が空いちまった。これ、食ってもいいか?」

「もう、今ご飯出来るところなのに、なあに?」

 

 蘭はさっと立ち上がると、夕飯前に間食をしようなどという不心得者を叱りにキッチンへ向かった。

 コナンは口をへの字に曲げ、割って入った小五郎を壁越しに睨んだ。

 直後、蘭が短い叫びを上げる。

 

「ああっ! それはダメ!」

 

 何事かと耳を澄ますと、どうやら小五郎が間食しようとしているのは、件のプリンのようだった。全身が一気に熱くなる。

 身体がいつも通り動くならばすぐにでも止めに入りたいが、今は思うように力が入らない。

 

「ダメだったら!」

「いいじゃねえかちょっとくらい。ただでさえ手がかかる居候に更に手間かけさせられたんだ、こんくらいもらったって罰は当たらねーだろ」

 

 ぎりぎりと歯噛みしていたコナンだが、居候を持ち出されては黙るしかない。小五郎の手を煩わせたのは事実なのだから。

 とはいえ、しかし…悶々としていると、小五郎の素っ頓狂な声が聞こえてきた。

 

「うわ、あめぇ! へっ、こりゃ俺の口には合わねえや」

 お子様向きだな

「給食のなんだから、当り前でしょ!」

「返す。やっぱ俺にゃビールとさきいかだな」

「もうっ!」

 

 蘭が不満の声を上げた後は、小五郎の声はしなくなった。どうやら、全部食べられてしまうのだけは免れたようだ。

 閉じた戸口の向こうを伺っていると、しばらくして蘭がやってきた。

 

「起きられる、コナン君」

 

 手には、フタの空いたプリンとスプーンが二本握られていた。

 

「うん、平気だよ」

 

 本当のところ左手やあちこち痛んで思うように動けないのだが、蘭の前では少しでも元気に振る舞いたいと、コナンは身体を起こした。

 

「もうすぐご飯出来るけど、先にこれ頂こうと思って」

 ちょっと…食べられちゃったけど

 

 蘭は小さく唇を尖らせ、コナンの傍に座った。

 差し出されたプリンを覗き込むと、スプーンの先でほんのちょっとすくった後が見て取れた。

 饅頭もケーキもいける口の小五郎だが、いざ食べようと思ったプリンの色に少し怖気付いたのだろう。見るからに甘そうな色をしているし、実際やたらと甘いのだ。警戒は正しい。戸惑った挙句が、この小さな食べ跡というわけだ。

 これだけで済んで良かったと喜ぶべきか、ほんのひと口とはいえ食べ物の恨みと募らせるべきか、悩ましいひと欠け。

 蘭に委ねよう。

 コナンは目を上げた。

 蘭は視線を受けてにっこり笑んだ。

 

「じゃあ、半分こにしよう」

「え、それ全部蘭姉ちゃんのだよ」

 

 慌ててコナンは首を振る。

 先刻一緒に食べようと言ったのも、スプーンが二本あるのも、やはりその為なのか。

 

「栄養のある物食べて、早く風邪治さなきゃ」

「え……でもそれ――」

「いいからいいから。はい、まずはコナン君からひと口」

 

 言葉と共にプリンとスプーンが差し出される。

 

「………」

 

 けれど素直に受け取れず、コナンは伺うように女の顔をのぞき見た。

 

「え、なあに? 食べさせてほしいの?」

 

 いたずらっ子の顔付きになって、蘭は目を輝かせた。

 

「ち、違うよ……」

 

 突拍子もない返答にコナンは大慌てで首を振った。

 嗚呼、ただでさえ熱で頭がくらくらするんだ、からかうのはやめてくれ…もう泣きそうだと顔を歪める。

 

「最初からね、半分こするつもりだったの。だから一緒に食べよう」

 

 しばしためらい、コナンはプリンを受け取った。

 にこにこと見守る蘭に肩を竦め、ほんの小さくひと口をすくう。

 

「美味しい?」

「うん、美味しいよ。だから蘭姉ちゃんも食べてよ」

「うん、いただきます。ありがとう、コナン…君」

 

 コナン…新一に礼を言い、蘭は『ぶんどった』プリンをわくわくと口に運んだ。にじむような思い出と共にゆっくり飲み込む。

 

「おいしい!」

 

 久しぶりのそれは随分甘く舌をとろけさせたが、蘭にはそれも喜びだった。心から、美味しいと告げる。

 

「……良かった」

 

 コナンはしみじみと呟いた。

 困らせたり、幸いをくれたり、忙しない女。

 

 だから自分は…

 

 正面でにこにことプリンを口に運ぶ女に眦を下げ、コナンはゆっくり笑った。

 ひと口で食べてしまえるような小さなプリンを、みんなで味わう。

 甘くて、楽しくて、嬉しさに心がとろける味だった。

 

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