プリンと探偵と探偵助手

 

 

 

 

 

 充分に火の回った中華鍋でひき肉を炒める音を壁越しに聞きながら、コナンは明日の準備をしていた。

 明日の時間割の通り教科書を揃え、ノートを揃え、筆記用具を揃える。

 と、ランドセルの奥に配られたプリントの類が随分溜まっているのに気付き、一つため息の後今日こそはと整理に取り掛かる。

 掴んで引っ張り出すと、結構な量の束がごっそりと出てきた。端の方はノートや教科書に潰されたのかくしゃくしゃと折れ曲がっているのまである。

 一体いつから「今度やればいい」と先延ばしにしていたのやら…コナンは思わず苦笑いを浮かべた。

 

 こういうとこ結構ずぼらなんだよな

 

 急ぎでない物、重要性のない物はついつい後回しにして、忘れかけてしまう性質。

 後からまとめて整理に追われる自分を見て、誰かさんはいつもからかっていたっけ。

 そんな事をぼんやり思い出しながら、折りたたまれたプリントを一枚ずつ開き確認しつつ要る物と要らない物とに分けてゆく。

 するとそこへ、まるでぼやきが聞こえたとばかりにタイミングよく、蘭が声をかけてきた。

 

「コナくーん、さっき言ってた味見、お願い出来る?」

「うん、いいよ」

 

 コナンは返事と共にドアを開け、いつものように小皿を手に待っている戸口の蘭を見上げた。

 

「ありがとう。じゃあ、はい」

 

 差し出される小皿を受け取り、軽くすする。

 彼女の作る物は何だって美味い。彼女が作ったというだけで、それだけでもう美味いのだ。何杯でもおかわりして、腹がぱんぱんに膨れるまで食べたくなる。それでも、強い刺激のある物例えばカレーや今夜の麻婆豆腐といったものは、その辛さゆえ残念ながら食べられない時もある。

 彼女はそんな時必ずもう一つ同じ物で別の味を用意した。カレーは子供用を揃えた。麻婆豆腐は、徹底して香辛料を抜いた物に替えた。

 コナンにとってそれは大いに屈辱だった。しかしコナンが不満を言うわけにもいかなかった。実際舌べろが受け入れられるのはそういった弱めの味でしかなく、不満を言うわけにもいかず、仕方のない事と受け入れるしかなかった。

 それが『あの夜』を境に一変した。お互い今までの『コナン君』と『蘭姉ちゃん』でありながら、様々な事が変わった。

 食事の内容もその一つだ。

 刺激が弱いのは相変わらずだが、徹底的に排除される事はなくなった。子供用のカレーを買い求める事もなくなった。

 小学生の江戸川コナンでも食べられる物、そして大人の小五郎から不満の声が上がらない物の模索が始まったのだ。

 こうして味見が必須になったのは申し訳なく思うが、蘭は楽しいと張り切り、先回りして憂鬱さを取り払ってくれた。

 そうなると味見の時間はコナンにとっても楽しい物になり、幸いと共に飲み込むものは天にも昇る気分にさせてくれた。

 

「今日のも美味しいよ」

 

 コナンは満面の笑顔で見上げ、二度三度頷いた。

 

「よかった。じゃあこれで、しばらく煮込んだら出来上がりね」

 

 蘭も同じくにっこりして、小皿を受け取った。

 

「あら、コナン君、大分散らかしてるわね」

「ち、違うよ、片付けてるところ」

 

 慌てて言い繕ってみたものの、振り返った室内は自分の目から見てもただ散らかしているようにしか映らなかった。思わず口をへの字に曲げる。

 

「分かってるわよ。片付け方が誰かさんそっくりだもの」

 山ほど溜めてから取り掛かるところとか、そっくり

 

 そう言って蘭はくすくすと肩を揺すった。

 遠回しのからかい文句は先刻予想した通りのもので、コナンはよそを向きこっそり肩を落とした。

 

「あら、ねえそれ」

 

 と、蘭は何か良い物を見付けたとばかりに声を上げた。小皿を置きに足早にキッチンに引っ込み、すぐに取って返す。

 再びやってきた蘭の目線を追って、コナンは床に目を落とした。彼女が何に声を上げたのか、すぐに分かった。

 蘭は静かにドアを閉めると、輝く眼差しである物を指差した。

 

「それ、献立表ね」

「うん、そうだよ。見る?」

「わあ、見せて」

 

 蘭はいそいそとプリントの山の傍に座り込むと、渡された献立表をニコニコしながら眺めた。

 縦長のプリントを端から端までじっくり目を通し、時折何事か呟いては頷く素振りを見せる蘭をコナンは微笑ましく見守っていた。呟いている内容は恐らく、当時を思い出しあんなのもあった、こんなのもあったと確認してのものだろう。あちこち指でなぞっては、目をきらきら輝かせているのがしようもなく可愛い。無邪気に喜ぶ彼女は本当に可愛い。

 隅から隅まで眺め、懐かしさに浸っていて、有る時蘭ははたと我に返った。なんて事をしてしまったのだろうと、たちまち背筋がひんやりと冷たくなる。

 傍に座り同じようにプリントを覗き込んでいるコナンの方を見たかったが、どうしても首が動かせなかった。

 蘭はプリントを持ったまま、身を強張らせた。

 彼は見た目通りの小学生ではない。

 自分と同じように懐かしんでこのプリントを見ているわけではない。

 もっと別の、もっと色んな感情が絡んでいる事だろう。うんざりしているかもしれない、ほとほと嫌だと腹を立てているかもしれない。嘆きや憤りも感じているかもしれない。

 なのに、自分は何をのんきにへらへらと、はしゃいでいるのだ。

 そこへ、コナンののんびりした声が聞こえてきた。

 

「蘭姉ちゃん、デザートのとこ見てたでしょ」

「えっ!?」

 

 反射的にコナンを見やる。口から発した声は思いがけずきついものになってしまい、それにも蘭はうろたえるが、コナンは構わずからかう口調で続けた。

 

「だって蘭姉ちゃん、ここから全然目が動いてなかったもん」

 

 コナンはプリントを受け取ると、彼女に見えるよう向けてデザートの欄を上から下へすいっとなぞった。

 

「そういえば新一兄ちゃん言ってたよ。給食でプリンやゼリーが出ると、必ず蘭にぶんどられるんだ…って」

 

 その言葉に蘭はまず怒ったように顔を赤くし、それから青ざめた。最後には力なく肩を落とし、しょんぼりと俯く。

 

「わ…わたし……」

 

 途切れた蘭の呟きにふと笑んで、コナンは口を開いた。

 

「別に、食いしん坊だなんて思ってないから安心してね、蘭姉ちゃん」

「そ――それもあるけ、ど……」

 

 それだけではないのだとまた言い淀む。

 もちろんもう一方もコナンは見付けていた。

 今目にした彼女の表情と同じく、始めは情けなくも懐かしく思った。そしてじきに屈託する。いつまで繰り返せば終わるのかと、それすらも考えずに過ごそうかと倦んだ気持ちさえ抱いた日もあった。

 そこへ今日が来た。

 ほとほと嫌気がさしていた毎日を、蘭が変えた今日のこの時。

 一枚のプリントから、忘れかけていた気持ちを彼女は思い出させてくれた。

 どこか誇らしげな微笑を浮かべ、少年は穏やかに言った。

 

「ホント、蘭姉ちゃんてば分かりやすいね」

「ごめん、ね……」

 

 心底情けなく思うと、蘭は一人の奥の一人に向けて詫びた。謝るひと言以外にもきちんと弁明したいのだが、上手く言葉が浮かんでこない、ここで『コナン君』に何と言ってよいやら分からない。

 

「もー、そんな顔しないで、蘭姉ちゃん。そうだ! 今度デザートが出たら、食べないで持って帰るよ。それ食べたら、きっと元気出るよ」

「そ、そういうことじゃないの! そうじゃなくて、あの……わたしね……」

 

 蘭が必死に気持ちを伝えようとするのと同じように、コナンも必死になって気持ちを伝えた。

 小刻みに揺れる女の瞳、何か言いたそうに動く唇からまでも言葉を読み取ろうと、コナンは瞬きもせず見守る。

 

「蘭姉ちゃんは、それでいいよ。蘭姉ちゃんなんだから」

 

 分かりやすくて、最大の難問。そんな彼女の沈んだ顔をどうにか元に戻そうと、いつもの朗らかな笑顔に戻ってもらおうと、コナンは懸命に言葉を重ねた。

 

「給食のゼリーもプリンも、美味しいよ。絶対蘭姉ちゃん気に入るから」

 

 給食のプリンを、彼女は事の他気に入っていた…いつもにこにこと嬉しそうに幸せそうに口に運んでいた。その笑顔がたまらなく好きで、食いしん坊だの太るぞだのからかいながら、デザートがつく日は必ず自分の分を渡していた。からかい文句に怒ってつっ返してくる時もあったが、彼女はいつも最後には、とびきりの笑顔で礼を言って食べていた。

 コナン…新一にはかけがえのない思い出だった。

 だからというには余りに単純だと情けなさに頭を抱えたくなるが、とにかく一秒でも早く彼女に笑顔が戻ってほしい、その一心で眼差しを注ぐ。

 何せ自分が今こうして人生を投げ出す事なくまっすぐ立っていられるのも、迷わず前に進めるのも、全て彼女が力をくれるおかげなのだから。

 

「うん……うん、ありがとうコナン君」

 

 蘭は力強く頷いた。時々上手く噛み合わなくて、二人…三人がつらいと感じてしまう事もあっても、こうしてまっすぐ自分を見てくれる彼を自分もまっすぐ見るのだと、改めて心に刻む。

 

「じゃあ――次は金曜日ね、プリンだって。楽しみに待ってるね」

「うん、絶対持って帰るから」

 

 大きく頷くコナンに、蘭は笑い返した。まだ少し顔が強張っている気がしたが、笑う事は出来た。

 彼女にそんな顔をさせてしまう自分を恥じつつ、コナンもまた精一杯の笑みを浮かべた。

 

「そろそろ出来るから、ご飯にしようかコナン君」

「うん!」

「ちゃんと、全部片付けてからね」

「はぁい」

 

 立ち上がる蘭を見上げ、コナンは渋い顔で笑った。散らかしたのとさして変わりないプリントの山を端から大急ぎでまとめてゆく。

 

「それとコナン君、さっきのは一つ間違ってるわよ」

 

 がさがさと紙の束を集めていたコナンは、すぐさま蘭に顔を向けると、一体何が間違っていたのかと耳を澄ませた。

 

「新一からぶんどった事なんて、わたし一度だってないんだから」

「……ああ、そうなんだ」

 

 ぱちぱちと目を瞬かせ、コナンはぎこちなく頷いた。確かに、有無を言わさず奪い取られた事は一度もなかったと記憶している…しかしそこまでこだわる事かと少し呆れもしたが、彼女にとっては重要なのだろう。

 

「私が食べるとこ、いっつもニヤニヤしながら見てて…そういえば前にアイス当てた時も!」

 

 一つ思い出すと次々浮かんでくるとばかりに、蘭は声の調子を強めて矢継ぎ早に喋り出した。

 これはたまらんとコナンは残りのプリントをひとまとめに引っ掴むと、またしても『今度やればいい』と本棚の隙間に押し込み、蘭を見上げた。

 

「お片付け終わったよ蘭姉ちゃん」

 

 殊更大きな声を張り上げ、彼女の思考を邪魔する。

 虚を衝かれ蘭は一瞬声を途切れさせたが、コナンの思惑はすぐに理解する。

 

「もう、コナン君はすぐそうやって――」

「も、もう美味しく煮えた頃だと思うから、早くご飯にしようよ。ボクお腹空いちゃったよ」

 

 案の定ごまかしは失敗したが、コナンは強引に突破してしまえとばかりにドアを開け促した。いつもの元気が戻って嬉しいのは嬉しいが…複雑だ。やけっぱちの泣き笑いで気持ちを切り替える。

 

「もう、ちょっとコナンく……あ、お父さん、何またビール飲んでるの! これからご飯よ!」

「そんなかたい事言うなよ、一本くらいいいじゃねえか」

「何が一本くらいよ、それで三本目じゃないの!」

 

 上手い事意識が小五郎に逸れたのを内心ほっとし、片隅で謝り、コナンは部屋を出た。

 

「もう、ちょっと目を離すとすぐこれなんだから」

「う、うるせーな……」

「今日はそれでもうビールおしまいですからね」

「えっ…そりゃねえよ……」

「しりませーん。さあ、ご飯ご飯」

 

 きびきび忙しなく動き出した蘭の後に続いて、コナンもキッチンに向かう。

 やっぱり、彼女はこれくらいがちょうどいい。

 金曜日に『ぶんどられて』しまう給食のプリンを持ち帰ったら、きっともっと、ちょうどいい。

 戦々恐々としている自分をどこかで楽しみながら、新たに手にするかけがえのない思い出に心弾ませながら、コナンは手伝いを申し出た。

 

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