コーヒーと目玉焼き

 

 

 

 

 

 

 間もなく日付が変わる頃。

 ほんのり甘い薄めのコーヒーと気晴らしのお喋りの後、蘭は隣にコナンを従えお休みなさいと眠りについた。

 寝付きの良い女は、隣に愛しい男のいるお陰ですぐに寝入る事が出来た。

 一方男は、自分がいるからと安心しきって眠る女を愛しく思うと同時に憎らしく思い、眠れぬ夜にこっそりため息をついて目を閉じた。

 それから数時間。

 蘭の私室はおだやかな静寂が続いた。

 時折、二人のどちらかが寝返りを打つ。

 がさごそと物音が続き、そしてまた静寂。

 今夜は隣室にいびきは立たず、窓の外からの車の音もほとんどなかった。

 朝と呼ぶにはまだ少し早い頃、蘭は唐突に目を覚ました。

 ぱっと見開いた目で忙しなく左右を見回す。

 夢と現実の切り替わる瞬間に頭がついていかない、ここはどこだろうか。自分は何をしていたのか。

 ふと見ると、隣でコナンが寝ている。

 それにも驚く。

 数秒が過ぎてようやく、今しがた見ていたのは夢だったと理解し、隣でコナンが寝ている訳を理解する。

 強張っていた身体から力を抜き、蘭は安堵のため息と共にゆっくり目を閉じた。

 目を覚ましたのがきっかけか、見ていた夢の内容はすっかり消え去っていたが、それがひどく恐ろしいものだった事は覚えている。大分心臓の鼓動も収まったものの、見ている最中は今にも破裂しそうなほどの恐怖を味わった。

 蘭はもう一度目を開けた。

 すぐ傍に、少し間抜けで愛しい寝顔がある。仰向けでぽかっと口を開け、右手も左手も毛布から出して眠りこけている。渋々ながら付き合ってくれている優しい人の横顔が、すぐ傍にある。

 気持ちが緩むと同時にほとほと自分が嫌になると、蘭は口をへの字に曲げた。

 せっかく美味しいコーヒーまで入れて面倒見てくれたのに、結局怖い夢を見てしまった。

 心底情けない。

 自分にがっかりする。

 どこかで甘えていたのだろうか。

 枕を並べて一緒に寝るから、たとえ怖い夢を見ても大丈夫、その時は…甘えていたのだろうか。

 甘えていいと言われたけれど、それでも自分にがっかりしてしまう。

 

「………」

 

 蘭は喉の奥でほんの小さくうなった。

 

 でも…いいか

 

 あっさり気落ちを切り替える。

 共有する一枚の毛布の中、コナンの体温がぬくぬくと伝わってくる。

 蘭はだらしなく頬を緩めた。

 時刻はまだ五時。

 明るくなるまでもうひと眠りしよう、そう思うのだが、無防備で間抜けな寝顔をもう少し見ていたい欲求もあった。

 せっかくだから、もう少し甘えてしまおうかと、蘭はぐるぐる考える。

 もうちょっと傍に寄るとか。

 ほっぺたを撫でてみるとか。

 いっそ抱きしめてしまおうか。

 

「っ……!」

 

 声を殺して一人はしゃぐ。

 しかしそれで起こしてしまっては申し訳ない。せっかく、こんなに気持ちよさそうに眠っているのに。

 でもちょっとだけなら…いや駄目だ、でも。

 少々情けない葛藤を巡らせていると、コナンに異変が走った。

 力の抜けていた頬に強張りが広がり、何か言いたげに口が動き始めた。

 どこか苦しいのだろうか。起こすべきか見守っていると、かすれた声が蘭と綴った。

 

「!…」

 

 たまらずに蘭は小さな身体をぎゅっと抱きしめた。

 何度も背中をさすってやりながら、繰り返し囁く。

 

「夢よ。ただの夢よ。私はここよ」

 

 力の抜けていた身体が不意にびくんと弾み、目を覚ましたのだと気付いた蘭はよりしっかりと抱き寄せてやった。

 

「あ…オレ……あ――」

 

 少し寝ぼけた声でコナンが呟く。

 しきりに頭を動かしているのは、自分と同じく切り替えが追い付いていないせいだろう…蘭はほんの少し腕の力を緩めた。

 

「あの、蘭…ねえちゃ……」

 

 コナンはもごもごと口を動かした。動かせるのは今はそこだけだ。気付いたらすっぽりと抱きすくめられ、手も足も満足に動かせない。頭がついていかない。下手に動こうものなら、彼女に触れている事を更に認識する事態になり、そうなったらただでさえ悪夢に痛め付けられた心臓がもたないだろう。

 穏便に彼女から離れるにはどうすればいいか寝ぼけた頭で必死に考える。

 

「落ち着いた?」

「あ、うん、もうだいじょうぶだよ…あの、夜中に起こしてゴメン…なさい」

 

 本当はまだ呼吸もままならないが、早く離れたい一心で口を開く。首さえもかちこちにしたまま、コナンは途切れ途切れに言った。

 蘭の手がゆっくり背中を撫でる…嗚呼情けない。

 

「実はわたしもね、怖い夢見て、起きちゃったの。せっかくコナン君が美味しいコーヒー入れてくれたのに…だからおあいこ」

「……おあいこ?」

 

 コナンは反射的に言葉を繰り返した。この頃になるといくらか頭も目覚めて、蘭と枕を並べて寝ていた理由を思い出す事が出来た。

 

「そう、おあいこ」

 

 蘭はふと小さく笑った。

 

「それで、どんな夢だったの?」

 

 半ば予測していた質問の到来にコナンは息を詰めた。また心臓が跳ね上がる。

 何とか飲み込み、出来るだけ平静を装って告げる。

 

「……覚えてない」

「あー、ウソばっかり。もう、今度怖い夢見たら言うねって、この前もその前も言ったのに」

 

 言葉の強い調子に合わせ、蘭はぎゅうっと腕で締め上げた。

 

「あ、ちょっ……!」

 

 もはや、身体が密着して悩ましい、恥ずかしいなどとのんきな事を言っている場合ではなかった。

 二本の腕が胴をしっかり締め上げる。

 苦しい、息が出来ない。

 コナンは無我夢中で右手を動かし、この際どこでもいいと触れた彼女の身体を二度叩いた。

 ギブアップの合図を受け取り、蘭はさっと力を緩めた。まだ抱擁はとかない。

 仕方なくコナンは、最小限の動きで深呼吸を繰り返した。寝起きでまだ上手く頭が働かない内にこの仕打ちはあんまりだと、眦に涙をためる。

 

「もう、コナン君のケチ」

 

 蘭は大げさに唇を尖らせると、またさっきのようにコナンの背中をさすってやった。ふんと一つ鼻を鳴らし、口を開く。

 

「いいわよ、今日の朝ごはんは、作ってあげない」

 

 いきなりの放棄宣言にコナンはかすれた声をもらした。

 

「えー……」

 

 そうなの…寂しそうに響く声音に、蘭はすぐさま言い繕う言葉を探した。いつもの軽口のつもり、きっとコナンからも即座に何か返ってくるだろうと気楽に発したものだったが、そんな寂しげな声を出されるとたちまち罪悪感で一杯になる。

 すぐに謝って、それから…口を開きかけたところで、コナンに先を越される。

 

「……じゃあ今日は、ボクが作る」

 

 めまぐるしい展開に頭がついていかないが、思うより先にコナンは言葉を繰り出した。

 彼女の力になる事、彼女に何か贈り物をする、それがいつも一番、心にあるからだ。

 意外な返答に蘭は小さく目を見開いた。声の調子が沈んだものでないのを聞き取り、ほっとして言葉を継ぐ。

 

「ホント、じゃあわたしは、美味しいコーヒーを入れるわ」

 

「えー、蘭姉ちゃんの入れたの?」

 すっごく甘そう

 

「ちゃんと好みは知ってますー。コナン君こそ、私の目玉焼き綺麗にひっくり返せる?」

 綺麗にひっくり返して、両面焼くの結構難しいのよ

 

「ボク、出来るもん」

「わたしだって、出来るわよ」

 

 二人は得意げに言うと、お互いの肩の辺りで笑い合い、じゃあお願いしますと言葉を続けた。

 

「まだ早いから、もうひと眠りしよう、コナン君」

「うん……だから」

「なに?」

「だから…あの」

 

 もう離してくれていい…コナンは、どうにかしてこの悩ましい状況から脱出しようと遠慮がちに身動ぎで伝えた。

 

「えー、このままでもいいじゃない」

 

 蘭はころころと楽しげに笑った。

 コナンはこっそり舌打ちし勘弁してくれと心の中でぼやいた。

 

「……よくない」

「いいの…怖かったんだから、いいの」

 

 不意に真剣な声で蘭は言った。

 コナンは口を噤むと、大人しく女の腕に収まった。いささか窮屈だが、寝心地は悪くない。ひと肌のぬくもりは思いのほか気持ちいい。彼女が昨日欲した物はなるほどこんな風に安心出来るものかと納得する。

 蘭が、悪夢を拭おうと必死なのは容易に分かった。自分の物だけでなく、こちらの分まで取り去ろうとしている。

 方法はあまり好ましくないものだが、熱い心は感謝してもしてもし切れない。

 コナンはちらりと腕時計を見やった。

 もうひと眠りして、起きたら、彼女の為にとびきり美味しい目玉焼きを作ろう。端の方は少しかりかりで、程よい焼き色を白身につけて香ばしく。その間にパンを焼いて、コーヒーを入れてもらって。

 

 なんだ、悪夢なんて

 

 取りとめなく考えていてふと、思い出す。思い出して、笑いそうになる。夢の中ではあんなに脅かされたのに、今は微塵も感じない。

 おせっかいで忙しない女が隣にいて、彼女に急かされるまま寝ぼけた頭で朝の事を考えて、それだけで充分満ち足りて、入る隙間もない。

 夢など所詮はその程度なのだ。

 二人…三人のいる真実の心強さを今更に思い知り、コナンは安堵して目を閉じた

 

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