電車に乗って

 

 

 

 

 

 芯まで凍えそうに冷たい風が、びょう、と正面から吹き付けた。

 うわあ

 さむーい

 たちまち右から左から、下校途中の児童の上げる声が聞こえてきた。

 そんな中を、コナンはいくらかの早足で進んでいた。

 また強い風が吹き抜け、また児童たちが声を上げるが、首にぐるぐると巻いたマフラーのお陰で全く寒さを感じないと、内心で少しにやつく。

 幾分怨念のこもった、だから暖かいマフラー。

 沢山の房飾りを肩の辺りでぽんぽんと弾ませながら、コナンは家路を急いだ。

 別段急ぐ必要はないのだが、帰り際届いたメールの内容に、自然と身体が前へと進む。

 彼女からもらったメール、当然といえば当然だ。

 小五郎が昼から依頼人のもとへ泊りがけで出かけたので、夜は二人で外に食べに行こう…そんなお誘いのメール。

 コナンにあてたメール、コナンが受け取ったメール。

 だとしても三人を考えると、どうしても頬は緩み足が弾んでしまう。

 悔しいと、歯痒いと思う気持ちも確かにある。嬉しい反面、もどかしさに地団駄の一つも踏みたい気分にかられたのは事実だ。けれどそれが、彼女を見ると呆気なく溶けてしまうのだ。跡形もなく綺麗さっぱりと。江戸川コナンとしてどんなにもやもやと燻っても、彼女の晴れやかな笑顔に会うとすっかりなくなってしまう。

 その度しみじみと思うのだ。この女には敵わない…今日もその思いを噛みしめたくて、コナンは家路を急いでいた。

 

 

 

 ただいまと朗らかな声と共に帰宅した彼女を、コナンも同じく朗々とした声でおかえりと迎えた。

 自分のどこからこんな明るい声が出るのかと少し恥ずかしくなるが、待ちわびた通りの清々しい瞬間に会えた事が嬉しいと、素直に喜ぶ。

 嗚呼、二人で…三人で出かける時間が待ち遠しい。

 

「今日は風が強かったね、コナン君」

 

 吹き乱された髪を直しながら、蘭はソファを回り込んだ。コートを脱ぎ、コナンの向かいに座る。

 

「うん、でもボク、蘭姉ちゃんのマフラーあったから」

 全然寒くなかったよ

 

 応接テーブルに乗せたマフラーを指差し、コナンは誇らしげに見上げた。

 

「そう、良かった」

 

 蘭は口元をにっこりと持ち上げた。丁寧にたたんであるのが嬉しい。大事にしてくれているのがとても嬉しい、そして何だか小憎らしい。でもやっぱり笑みが浮かんでくる。

 

「メールにも書いたけど、今日行くとこクラスの子が教えてくれたところなの。二つ隣の駅だけど、いいよねコナン君」

「うん」

「そこね、新しく出来たばっかりのイタリアンレストランで、その子もつい最近行ったそうなんだけど、とっても美味しかったんだって」

「ふーん……もしかしてケーキ食べ放題がある、とか?」

 

 蘭の瞳の輝きから十中八九の答えを手にしたコナンは、にやにやと斜めに見やった。

 的確に見抜いた探偵の目に、蘭はぎくりと頬を強張らせた。そんなに顔に出してしまっていただろうか。半ば無意識に片手で頬を押さえる。

 

「い、いやなら別のところ探すから」

 

 蘭はあたふたと携帯電話を取り出し、米花駅近辺の検索を始めた。

 コナンはすぐさま手を振った。

 

「いやだなんてそんな事ないよ、そこに行こう」

 

 くすくすと笑い交じりに言う。

 そんなコナンを上目遣いに見つめ、蘭はぼそぼそと呟いた。

 

「でも笑ってるし……」

「だって蘭姉ちゃん、すごく分かりやすかったから」

 

 蘭は小さくうなると、携帯電話をしまった。

 

「どうせすぐ顔に出ますよーだ。推理する手間が省けていいでしょ」

 

 半ばやけっぱちに言い放ち、蘭はつんと鼻を上に向けた。

 そんな女の横顔を、コナンは少し困った笑顔で見つめた。分かりやすいなんてとんでもない、彼女はいつだって難問だ。

 悔しいから口にはしないが。

 蘭は拗ねていた唇をすぐに笑みに戻すと、明るく言った。

 

「ブルームってお店でね、パスタもコーヒーもおすすめなんだって」

「それは楽しみ。駅からすぐなの?」

「うん、南口から出てすぐって言ってたわ。着替えてくるから、そしたら行こう」

「分かった。じゃあボク、戸締り見てくるね」

「お願いね」

 

 二人は顔を見合わせて頷き、それぞれに動き出した。

 

 

 

 米花駅の二つ隣で降り、南口の改札を抜けてまっすぐ進んだ先に、件の店はあった。

 もしかしたら彼女の天才的な方向音痴が発揮されるかもしれないと、いざという時に備えて身構えていたコナンは、レストランの入り口にたどり着いたところで一旦蘭を見上げた。今日は迷わなかったね…ちょっとだけからかってやろうと顔を上げるが、幾分強張った面持ちでいるのを見て、口をつぐむ。

 初めて訪れる店に緊張しているのだろうか。

 心なしか、繋いでいる手にもいつも以上に力がこもっている気がする。コナンは互いの手をそれとなく見やった。

 彼女は余り物怖じしない方だが…ぎこちなく入り口のドアを押し開ける蘭に続いて、コナンは店内に足を踏み入れた。

 すぐにいらっしゃいませと声がかかる。

 蘭はさっとそちらに顔を向けた。

 コナンも同じく向いて、応対の店員を見上げた。そこでまた、蘭にぎゅっと手を握られる。

 

「二名様ですか」

「はい」

 

 隣で蘭が強い声で応えるのを、コナンは不思議がりながら聞いていた。初めて訪れる場所に多少の緊張はつきものだが、つい最近行ったというクラスメイトにどんな雰囲気のレストランか質問はしていただろう。自分が見る限りは、ケーキバイキングがあるという事で客層に多少偏りはあるが店内は明るく居心地がよく、騒々しさもそれほどなく、かといって静か過ぎず、のんびり気楽に過ごせそうな空気が感じられた。

 店員の対応も、落ち着きよりも元気さがあり、零れる笑顔につられそうになる。

 

「ではこちらへどうぞ」

 

 きびきびとした動作で店員は案内を始めた。

 そこでようやく蘭も雰囲気を感じ取ったのか、繋いでいた手からふっと力を抜いた。

 席に着いたら少しからかってやろうと思っていたコナンだが、案内されたテーブルからケーキバイキングのビュフェ台が近く、数人の女子がわいわいと賑やかにケーキを選んでいる熱意と、甘くとろけるような匂いが伝わってくるせいで、蘭に先を越されてしまう。

 

「見て見てコナン君! ほら、すごいよ!」

 

 緊張していたなど嘘のように蘭は目を輝かせた。

 半ば勢いに飲まれ、コナンは喉につかえるように頷いた。

 

「あ、と。まずは食事からよね」

 

 蘭はいそいそとメニューを開いた。

 早く注文を済ませ、早くケーキを取りに行きたいと全身で言っているも同然の女に思わず笑いがこみ上げる。コナンは水のグラスで巧妙に隠し、くくくと喉の奥で笑った。

 

「隠してもムダよコナン君。ちゃあんと見えてるんだから」

 

 メニューに顔を向けたまま蘭は言った。

 

「えー…ゴメンなさい」

 

 コナンは素直に謝り、軽く肩を竦めた。

 

「もう、すぐそうやって笑うんだから。イジワルなところ、誰かさんにそっくり」

 

 誰かさんにそっくり…密やかに囁く女の顔に思わず目が釘付けになる。

 

「……ゴメンなさい」

 

 コナンはもう一度繰り返した。ここにいていない誰かへの遠回しの皮肉だが、そんなもの、熱心に見つめてくる眼差しの前では些細な事。

 他愛ないひと言と真実を含んだ視線はいつもこうして、二人…三人を確かにしてくれる。

 皮肉の一つや二つ、何だというのか。

 むしろもっと言ってくれと、甘えたくなる。

 

「よし、決めた。コナン君は、決まった?」

「あ……うん。ボク、これ」

「セットでいい?」

「うん、サラダとコーヒー付きの」

「決まりね」

 

 蘭はにっこり笑むと、席に案内された際説明を受けたコールボタンを押した。

 すぐにやってきたにこやかな女性店員にメニューを向け、蘭は二人分注文した。もちろん、二人分のケーキバイキングも忘れない。

 注文し終えたタイミングでコナンは口を開いた。

 

「ボ、ボクも行くの?」

「コナン君、ケーキ嫌いじゃないでしょ。ほら、早く行こう!」

 

 蘭は早速席を立つと、はちきれんばかりの笑顔でコナンの手を取った。

 

「うん、まあ……うわ!」

 

 我慢の限界とばかりに遠慮なく引っ張られ、コナンはこけつまろびつ大慌てで蘭の後に続いた。和菓子洋菓子、嫌いではない。今日はとことん付き合うつもりで来たが、彼女のはしゃぎっぷりには圧倒される。

 居並ぶ強豪、テーブルの周りに連なる女性たちに気後れしながらも、コナンはどれにしようかぐるりと見渡した。

 生クリーム、チョコレート、フルーツ、パイ、タルト、スフレ…小さくカットされた色とりどりの焼き菓子やグラスに入った冷たいデザートが、テーブルの端から端まで綺麗に並び、見る者の目を楽しませ喉をうならせる。

 ちらりと隣の蘭を見上げると、幸せいっぱいといった顔でケーキの整列を見渡していた。

 

「どれも美味しそうね」

 

 視線に気付いて蘭が笑いかける。

 この世で一番甘い物…震えるほどの幸いに、コナンは目を瞬いた。

 

「ケーキ一杯…嬉しいねコナン君!」

 

 今にもとろけそうな声、笑顔が、まっすぐ降り注ぐ。確かにこの光景は女性には最上の喜びだろうが、それにしては少し大げさすぎやしないか。

 そんな少々ひねくれた考えが頭を過ぎるが、コナンはすぐに思い直した。女性は甘い物に目がないというし、こうして綺麗に並ぶ綺麗な洋菓子を前にしては、気分も高揚するというものか。

 

「そうだね、蘭姉ちゃん」

「コナン君、食べたいのあったら遠慮なく言ってね。言わなかったら、片っ端から全部のせちゃうから」

「え、え…!」

 

 冗談半分の蘭に目を白黒させ、コナンは慌ててフルーツのタルトを指差した。一つだけでは納得しないだろうからと、無難なチョコレートのケーキも選ぶ。

 

「ま、まずこれで」

「遠慮しなくていいからね」

「うん、まずこれで」

「あら、遠慮しなくていいのよ」

「……蘭姉ちゃん」

 

 まだまだ取る気満々の蘭を斜めに見上げ、意地悪は勘弁してくれとコナンはうなった。

 

「はぁい、ゴメンなさい。じゃあ先に席に戻ってて。気を付けてね」

 

 ちっとも悪びれた様子のない蘭に心持ち唇を尖らせてみるが、ちっとも効果はなかった。コナンは口の中で小さくちぇっと零し、自分の席に戻った。

 すぐに蘭も、皿に隙間なくケーキを乗せ戻ってきた。

 

「わぁ……」

「まず一回目」

 すごいでしょ

 

 にこにこと得意げに胸を張る蘭に何も言えなくなる。甘い物の魔力は本当に恐ろしい。

 コナンが唖然としていると、料理が運ばれてきた。

 テーブルを、二人分のセットとケーキの皿が埋め尽くす。

 ケーキに気を取られていたが、丁度いい時間、空腹を忘れていたとコナンは早速フォークを手に取った。

 

「じゃあ…いただきまーす」

 

 二人は揃って声を上げた。

 

 

 

 夜の七時を少し過ぎた頃、駅前のブルームというイタリアンレストランから、高校生と小学生の姉弟が並んで出てきた。

 二人ともすっかり食べ過ぎたのか、どちらも揃って苦しそうに息をつき、その様子にお互いおかしそうに笑い合って、駅へと向かって歩き出した。

 

「ああもう、苦しいコナン君。助けて」

 

 やや芝居がかった声で片方が言うと、もう一方もそれに合わせ苦しげに応えた。

 

「ボクももうダメ。助けて蘭姉ちゃん」

 

 言い終えると、コナンも蘭もまた声を揃えて笑った。

 二人はあらかじめ買っておいた切符で改札をくぐると、環状線のホーム中ほどにあるベンチにややよろけるようにして腰を下ろした。

 程なく電車がやってきたが、米花駅に帰るには逆回りの線だった。

 が、蘭はすっくと立ち上がると、不思議そうに見上げるコナンの手を取り「乗ろう!」と促した。

 

「え、でもそれって……」

「いいからいいから」

 

 コナンの言葉を遮り、蘭は電車に乗り込んだ。丁度空いていたシートの端にコナンを座らせ、隣に自分も腰を下ろす。

 すぐにドアは閉まり、電車が走り出す。

 

「こっちから帰っても、九時からのテレビには間に合うでしょ」

 

 今朝コナンが見ていたテレビ欄を口にし、蘭は言った。

 

「うん、まあ」

 

 それはそうだが…コナンはもごもごと答えた。やはり彼女は難問だ、時々こうして、理解し難い行動を取る。

 

「ゆっくり帰るのも、たまにはいいじゃない」

 

 半ば押し切られる形でコナンは頷いた。

 今一つ腑に落ちないが、こういう顔をする時、彼女は絶対に理由を言わない。繰り返しねばって聞けば教えてくれるだろうが、それでは探偵の名が廃る。とはいえ、推理する気は起きない。詮索もやめる。

 きっと、分かるようで分からない彼女なりの理由があるのだろう。

 ゆっくり帰るのも、たまにはいい。

 

「お料理もケーキもコーヒーも、全部美味しかったねコナン君」

「うん、お腹一杯になってもまだ食べたくなるくらいだった」

「ホントね、特にスパゲティのあのもちもちっとした歯ごたえ、美味しかったあ。いくらでもいけちゃいそうだったね」

「うん、食べられるなら、おかわりしたくらいだったよ」

 

 ほら、こんな他愛ない話が盛り上がる。

 

「付き合ってくれてありがとね。コナン君とお喋りしながら食べたから、すっごく美味しかったよ」

「ボクも、蘭姉ちゃんとご飯食べるといっつも美味しいんだ」

 

 ほら、こんな言葉も素直に言える。

 

「わあ嬉しい。コナン君との思い出が一杯増えちゃった」

 

 女の形良い唇から甘い声が零れ、胸をむずむずとくすぐる。

 そこでコナンははたと気付いた。

 気付いてさっと青ざめる。

 

 ああ…そうか、そうだ!

 

 今日は、あの日行けなかった代わりだったのだ。

 自分のせいで門前払いを食って、悔しい思いをしたあの日の代わり。

 イタリアンレストラン、ケーキ食べ放題。どちらも同じだ。

 だから彼女は入り口の前で顔を強張らせ、店員に声を詰まらせたのだ。

 握る手が力んでいたのは、初めて訪れる店に緊張していたからではない。

 あの日のようにまた門前払いを食うのではないかと、怯えていたのだ。

 クラスメイトにそれも確認しただろうし、恐らくは店に連絡も入れた事だろう。それでも、実際行ってみるまで安心出来なかった。

 それが杞憂に終わった事で、彼女は全身ではしゃぎ、心から喜んだのだ。

 調子付いて少し困らせたのも、嬉しさゆえだ。

 一旦下がった血の気がかっと頭にのぼる。

 何が難問だ、何が理解し難いだ。もっともらしい言葉を並べて、ただ放棄していただけではないか。これでよくも探偵を名乗れるものだ。今頃気付くとは、とことん自分が情けなくなる。

 

「蘭姉ちゃん、きょうは……!」

 

 思わず声が出る。しかしそれは言うべきではないような気がして、コナンは息を詰めた。

 

「なあに?」

 

 呼ばれた事で蘭が顔を向ける。

 

「今日、楽しかったよ!」

 

 コナンは上手く言葉を繋いだ。

 

「わたしも」

 

 ゆったり微笑む女をしみじみと見つめ、コナンは笑い返した。

 彼女の横顔は、喜びの余韻をじっくり噛みしめているように穏やかだった。

 きっと、だから、ゆっくり帰りたいのだ。

 二人…三人でゆっくり、小一時間ほど電車に乗って。

 彼女の深い愛情に心から感謝し、コナンは深く息をついた。

 

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