チクロ
チョコラータカルダ
二月もそろそろ後半に入る金曜日。 この日、校門の傍にいつも見える車の姿はなかった。しかし桜井僚は驚く事なく校舎を後にし、少し早足で地下鉄の駅へと向かった。 目指すは男のマンション。 昨夜の内に、今週ほぼ一杯使う出張から帰っている男のもとへ急ぐ。 今週の予定については、決定したところですでに聞いていた。出発の際も、簡潔なメールで帰宅日時と今日の予定について説明があった。電話が欲しい、声で聞きたかったと少々の不満があったが、何週間も何ヶ月も会えなくなる訳ではない。ほんの一週間待つだけ…いつも通りで、非常に長い日数を経て、今日を迎えた。 階段を降りたところで丁度やってきた地下鉄にすべり込み、僚はポケットから携帯電話を取り出した。 先日もらった男からのメールを見る為だ。開いて確認をする。今日、これから向かう事は、教室を出る際メールで送った。その時も、声のやり取りをしたいと衝動が込み上げたが、実際に会って、顔を合わせてのやり取りする楽しみの為にぐっと我慢した。 そうやって、胸の内に楽しみを膨らませる。思い切り、全力で、気持ちを伝えたいからだ。 馬鹿みたいだと笑ってしまうが、男は、男も、全力で受け止めてくれる。だから自分も中途半端な事はしたくないと力を溜める。 マンションに行って顔を合わせたら、思い切りぶつかって思い切り抱きしめて、自分がどれだけ想っているか思い知らせてやるのだ。 地下鉄のドアが開く。 |
エレベーターよりも階段の方が早いのではないかと、それすらも迷うほど急いた気持ちで最上階にたどり着き、チャイムを押す。 恥ずかしくなるのを通り越し、どこか病気ではないかと思えるほど高鳴る胸を上から押さえ、しばらく待つが、一向に出てくる気配はない。 もう一度チャイムを押そうとして思いとどまり、エレベーターを見やる。 まだ戻っていないのだろうか。 僚は再び携帯電話を取り出した。メールの文面にざっと目を通し、間違いない事を確認する。 間違いなく、男はもう戻っている時間だ。 何かの都合で遅れているのだろうか。であるならば、男の性格からその旨伝える連絡が来るはずだ。しかしそれらしい着信はない。 どうしたのだろうか。僚は軽く訝りながら鍵を取り出した。が、手応えはない。おや、と首を傾げつつ逆にひねると、鍵がかかる音がした。 僚は一旦鍵を抜き、ドアノブに手をかけた。開かない。当然だが。 小さく混乱しつつ、もう一度鍵を開ける。 今度はドアを引き開ける事が出来た。 「いるのか……」 一人呟き、そろそろと中に入った。 男の靴がある。 不思議に思いながら、僚はリビングへと向かった。 少々落ち着かない気持ちのままガラス戸越しにリビングを覗くと、テーブルの横に置かれた旅行鞄がまず目に入った。同時に、ソファーに横たわる男を発見する。 僚はすぐさまガラス戸を押し開いた。 足早に近付き、顔を覗き込む。 眠っているようだ。 「鷹久……?」 しかしどこか様子がおかしいと、ためらいがちに手を伸ばし揺り起こす。 ややあって、男は眩しそうに目を瞬かせながら、ゆっくりと僚の方へと顔を向けた。 「……寝てた?」 ここで待つ内、うたた寝してしまったのだろうか。 起こして悪かったかと、表情で問い掛けると、唐突に引き寄せられ抱きしめられた。 突然の事に息を飲む。 追い詰められたような、迫ってくる力強さに、しばし言葉が出せない。 やがて男は口を開いた。 「……逢いたかった」 「……俺も」 そう言って腕をほどこうとするが、さらに強く抱きしめられ、僚は軽い混乱に見舞われた。 ようやく異変に気付く。 「……どこか、具合でも悪いのか?」 「いや。少し…疲れただけだ。何ともない」 少し力の緩まった腕を掴んだ時、普段とは異なる熱を帯びたそれに僚ははっとなった。 すぐさま額に手を当てる。 「嘘つけ。顔も手も、熱いじゃないか」 「そうかな」 少し怒った様子の僚に、男が力なく笑う。 強めの口調で言い返す。 「そうだよ。もしかして昨日はここで寝たのか?」 「いや、うん…どうだったかな」 あくまでもごまかそうとする男に、大げさにため息をつく。顔を見れば一目瞭然だ。一緒に朝を迎えた時は除いて、いつの時も男は身綺麗に整えていた。言葉や仕草はよくおどけるが、服の汚れや無精ひげといった類のだらしなさは一度として見た事がない。ちっぽけな嫉妬も包み込む完璧な大人であった。およそ隙がない。だが今は、服こそ汚れていないものの顔に証拠が現れていた。 疲れから、ここで倒れるようにして眠り、ひと晩過ごしてしまった証がほんの僅か伸びていた。 三十年近く付き合ってきた身体だ、男自身も分かっているはずだ。 ごまかしきれない証拠がある。だが、触って指摘するのはあまりに侮辱が過ぎるだろう。 僚は強引に引き起こし、背中を押した。 「もういい。ほら、手を貸してやるからベッドへ行け」 「本当に、何ともないんだよ」 言い訳めいた言葉には一切耳を貸さず、寝室まで連れてゆきベッドに押し込む。 と、またも抱きしめられ、離すまいとする男にうろたえた声を上げる。 「おい、こら」 「君の匂い……落ち着くな」 そう言って深く息を吸い込む男に思わず赤面する。 いつもの強さが影をひそめ、弱々しく笑う男に訳もなく胸が疼いた。 「……なんか欲しいもの…食べたいものとかあるか?」 「では、君を」 「寝言は寝てから言え」 くすりと笑う男に、そう悪態をつく。が、疼きは強まる一方だ。 「そうだな……何か甘い…飲み物があったら、嬉しいんだが」 「わかった」 軽く頷きながら、僚はそっと腕をほどこうとした。 「いかないでくれ……」 と、突然強い力で抱き寄せられ、僚は狼狽した。 ――僚 切なげな声が、耳をかすめる。 ずしんと胸に響いて、息も出来ないほどの痛みをもたらした。 「い――行かないよ。甘い物持ってくるだけだから。すぐに戻るよ」 恐らくは初めて見る男の弱い部分に、僚はうろたえたように男の腕を優しく叩き宥めた。 少し苦しそうにため息を付き、男は頷いて腕をほどいた。 「……済まん」 「だいじょぶだいじょぶ、ほら、布団かけて、これでいい」 「ありがとう……」 「すぐだから。な、すぐ戻るから。五分だけ待ってな」 病人らしく、辛そうに目を潤ませ力なく笑う男に何度もそう言い、僚は踵を返した。 ソファーの前に置いたショルダーバッグを引っ掴み、くぐるようにして背負い駆け足で玄関を飛び出す。 エレベーターは一階で待機していた。迷うことなく階段を選び、一気に駆け下りてマンションを飛び出し、マンションの裏にある公園を突っ切り、駆けて駆けて表通りに出ると、右に折れてすぐのコンビニエンスストアに飛び込んだ。 菓子のコーナーでチョコレートを一つ、ドリンクのコーナーでパックの牛乳を一本、両手に持ってレジに突進する。 息を切らす姿に店員が胡散臭そうに見やるのを、慌てて口元を隠しごまかす。 清算が済むや、袋を手に僚はコンビニを後にした。 公園に差し掛かったところで、添えるクッキーも買えばよかったと一旦足を緩めるが、引き返して買い足すより戻る方を選び、再び走り出す。 走りながら、やはりクッキーもあればと後悔するも、一秒でも早く戻って男を安心させたい気持ちが勝っていた。 頭の片隅に引っかかるのを無理やり振り払ってエレベーターに乗り込み、五階を目指す。 壁に寄りかかり、肩で息を付きながら、僚は袋の中を覗き込んだ。 牛乳と、チョコレート。そしてプレーンクッキー。 「えっ」 思わず声が出る。手に取った覚えがないのだ。慌ててレシートを見る。大丈夫、盗ったものではない。無意識に掴んでいたのだ。ほっとした後、笑いが込み上げてきた。よくやったと興奮する。 それらを何とか抑え、僚は今一度材料を確認する。 牛乳、チョコレート、プレーンクッキー。 作るのはチョコラータ・カルダ 以前、男に連れられて行ったとあるイタリアンレストランでそれを知り、そのあまりの美味しさにすぐさま虜になり男と一緒に何度も作った。 溶かしたチョコレートをカップに入れ、温めた牛乳を注ぎ、ゆっくり混ぜる。 たったこれだけで、飲むと不思議と心が落ち着く甘さが出来上がる。 多分それは、男と一緒だからだろう。 玄関に入ったところで鍵をかけ忘れていた事に気付き、しまったと舌打ちしながらキッチンに滑り込んで、コートも脱がず準備に取り掛かる。眠っているだろう男を起こさぬよう、なるべく大きな音を立てずに。 とっくに五分は経過していたが、それでも心の中で五分、五分と繰り返し、無心で作業を進めた。 まるで自分の手足でないように、無駄のない動きを見せるそれらを自分で感心しながら、僚は溶かしたチョコレートをカップに落とし温めた牛乳を静かに注ぎ入れた。 白に溶けていくチョコレートの螺旋を、真剣な眼差しで見つめる。 ソーサーにクッキーを二枚、そしてチョコラータ・カルダ。 出来たと、僚は一人頷き、カップを手に早足で寝室に向かった。 ドアを開けてそろりと覗くと、汗を拭うように腕を額にあて仰向けに横たわる男の姿が目に入った。 足音を忍ばせて傍に歩み寄る。 「……こら、病人」 囁くように呼びかけると、瞼がゆっくりと開いた。 重たそうに瞬きを繰り返す男に、何故だか笑ってしまう。 そして同時に、胸がきりりと痛んだ。 「起きられるか?」 「……ああ。大丈夫だ」 男はゆっくりと身体を起こした。 嘘つけと、声に出さず見つめていると、気付いたのか、男はふっと口元を緩めて言った。 「本当だよ」 安心させようと笑う顔も疲れ切っていて、とても説得力などなかった。 歯痒さに、僚は唇を引き結んだ。 自分では理解の及ばないもの、強がりを言わせてしまう事、そんな、何もかもが歯痒かった。せめて、自分がもう少しでも男に近ければ、愚痴の一つも零せただろうに。 いつだったか、こちらが熱を出した時、男は言った…お互い様だと、その時は頼むと。だが実際はこんなものだ。 「とても、良い匂いだね」 「……甘い物って言ったから、ホットチョコにした。クッキー付き」 「嬉しいね。ありがとう」 笑顔で受け取る男を見ていて、くよくよとした考えが吹き飛ぶ。時々こうして入り込んでしまうが、基本的に愚図るのは嫌いなのだ。 男が見栄を張って受け取らないなら、強引に押し付けるまでだ。そちらの方がよっぽど自分に合ってる。 僚は心を決めた。 決めた途端、やる事も決まる。 唇を引き結ぶ。 「うん、うまい」 「だろ」 少し得意げな顔で頷く。ほっと小さく息を吐く男は、少しばかり可愛く思えた。 「飲んだら寝ろ。今日は、一日寝てろ」 「いや、そんなには――」 「いいから寝てろ」 ぴしゃりと遮断すると、男はむうと唸って口を噤んだ。 「そんな青い顔して何が大丈夫、だ」 わざと怖い顔を作り、鋭く睨み付ける。 「いいな。大人しく寝てろよ」 「だが、今日は……」 男は左右に瞳を揺らし、口ごもった。 今日は、映画を見に出かける予定だった。その後食事をし、適当に買い物を楽しんで。 その予定が、自分のせいで崩れてしまった事に、深く後悔する。 「映画は今日までだけど、ビデオ借りてくるから、元気になったら一緒に見よう。リビングのテレビ大きいしさ。困った時はお互い様だろ、あの時頼まれたからな。今度は俺が、鷹久のお世話する番だ」 わかったか、と、僚は頬を緩めた。 男は目を瞑って聞いていた。そして、その通りだと大きく頷く。 「じゃあ、済まないが、甘えさせてもらおうかな」 「……済まなくないよ」 決して弱い部分を見せず、隠してばかりの男の口からそんな言葉が飛び出した事に、僚は内心驚いた。同時に、自分がそれを言わせた事に、えもいわれぬ昂揚感を味わう。 人の上に立つという事は、物凄い重圧を背負うものなのだろう。 今の自分には、想像もつかない世界だ。男の為に出来る事も少ない。 けれど、時々で良いから、こうして甘えてもらえればいい。 今はそれで充分だ。でも、少しでも男に近付いた時は、もっと深いところまで見せてもらいたい。そんな人間になりたい。 早く、大人に。 「ごちそうさま。本当に美味しかったよ」 ありがとうと、男はカップを置いた。 「クッキー、二枚じゃ足りなかったか」 「いいや、丁度いいボリュームだった。最高だったよ」 「よし、じゃあ――さっさと、これに着替えて寝ろ」 僚はチェストから男の着替えひと組を取り出すと、ぽいぽいとベッドに投げて渡した。 着替えの途中で、男がふと小さく笑う。 「……なんだよ」 「いや、済まない。気を悪くしないでくれ」 「なんで笑うんだよ」 「嬉しくて」 君に面倒みてもらえるのが嬉しくて、幸せで、つい口から零れてしまったのだ。男は素直に気持ちを述べた。 「君がいてくれて、本当に良かった。助かったよ」 「……うん、そう」 僚は口の中でもごもごと応えた。 男はベッドに座り、見上げた。 「ありがとう」 「……どういたしまして」 胸が一杯に満たされて、他に上手く言葉が出てこない。穏やかに笑いかけてくる男に、戸惑いながら、笑みを返す。 自分の方こそ、これ以上ないくらい幸せだ。 あの時男が、キスしたくなったと言った意味がその心情が、少しわかった気がした。 欲求が喉元まで込み上げる。つま先がむずむずして、今にも踏み込んで唇に触れそうだ。 何とか飲み込み、洗面所に向かう。熱いおしぼりを用意する為だ。 あの時世話してくれた男が、自分にどんな事をしてくれたか、どれだけ助かったか、一つひとつ思い出してはなぞる。 ほっとした顔でため息をつく男を見て、僚もまたほっとする。 「本当に、助かるよ」 「うん、俺もあの時、本当に助けられたから」 「ありがとう、僚」 「……よし、じゃあ、とっとと横になれ。風邪の時は、あったかくして寝るのが一番いいんだから」 いつも以上にぶっきらぼうになってしまう自分にいくらか焦れながら、押し付けるようにしてベッドに寝かせる。 どこか慌てたようなその仕草に男は微笑した。 そんな表情に、また猛烈に欲求が込み上げてくる。僚は何とかその塊を飲み込んだ。無理やり、奥へと押し込んだ。男が元気になったら取り出そう。 カーテンを閉め、灯りを落とし、休息しやすい環境を作る。 それから、カップを手に寝室を後にした。 扉を閉める前に、もう一度念を押す。 「いいな、ちゃんと寝ろよ。後で覗いた時もし起きてたら、ベッドに縛り付けるからな」 「君にお仕置きされるなら、起きていようかな」 「馬鹿言ってないで、ちゃんと寝ろよ。腹が減ったら起きてこい」 少し怒った顔の僚に、男はありがとうと告げた。 「……じゃあな」 一瞬息を飲み、僚は扉を閉めた。 ややあって、ゆっくりと息を吐く。 手にしたカップは、まだほんのりとあたたかかった。 |