チクロ

マフラー

 

 

 

 

 

 午後には雪が降り始める――朝の天気予報でそう言っていたのを、桜井僚は空を見上げそうだろうなと大いに納得した。
 見るからに寒々しい色の雲に覆われた空からは、今にも雪が落ちてきそうだ。
 足早に、男のマンションへと向かう。
 昨日はとても暖かかったのに。
 凍えそうなほど冷たい空気に肩を竦め、しっかりと巻いたマフラーに鼻から下を埋める。手袋はしているが、それでも寒くて、僚はポケットに突っ込んだ。
 ポケットに手を入れて歩くと危険だと、以前男に注意された事を思い出すが、今日ばかりは勘弁してくれと、背中を丸めたまま歩く。
 地下鉄を降りて五分。大通りを背にして進んだ住宅街の中に、男のマンションはあった。
 地上五階の五階部分が、男の居室だ。
 目指すマンションが見えたと同時に、目の前で白いものがちらりと舞った。まさかと頭上を振り仰ぐと、綿のような雪がうわっと落ちてきた。
 ついに降ってきた。
 僚は鍵を取り出すと、駆け込むようにしてエントランスに入った。エレベーターに乗り、五階を押す。扉が閉まり、ようやく外気を遮断出来たと、僚は大袈裟にため息をついた。それから慌てて、肩に積もった雪をぱたぱたとはたく。
 特にマフラーは念入りに拭った。
 チャコールグレーのマフラーは、初めて男に買ってもらった大切なものだ。

 

 

 

 初めて男のマンションに泊まった翌日、買い物に付き合ってほしいと誘われ、向かった先のショーウインドウで見かけた。少し斜め上を向いて立つマネキンの首にふわりと緩く巻かれたマフラー。
 今すぐ欲しい、これでなくては、というほど強い願望ではなかったが、ありふれた無地のマフラーに、強烈に引き寄せられた。生地が良さそうに見えたのか。暖かそうに感じたか。何がそんなに気になるのだろうかと眺めつつ考え込んでいると、男が声をかけてきた。
 これが、気に入ったのかい。
 気楽に、そうだと答えた。色はこれが好きかと会話が続き、こういう色が一番合わせやすいから…そんな、ありふれた答えを口にした。そして全くの冗談で、買ってくれ、とねだった。
 男は承知したと頷いてすぐに店員を呼び、プレゼント用に包装してほしいと頼んだ。
 僚は驚き、謝りながら慌てて否定したが、この色、よく似合うよと嬉しそうに言う男に、何も言えなくなる。
 悪いと思う気持ちと、純粋な喜びが、交互に襲ってくる。
 帰りの車の中、僚は繰り返し謝った。
 昨日の詫び賃の代わり、と男は笑った。昨夜、無理な飲酒で散々な目にあわせてしまったお詫びだそうだ。
 それを言うなら、自分の方こそ騒がせてしまった詫びをしなくてはならない。付き合うと申し出たのは自分の方だし、許容量を把握していなかった自分が悪く、男に一切非はないのだ。だのに手間を取らせ、心配をかけて、振り回してしまった。
 綺麗な小箱に収まり、きちっとリボンのかけられたマフラーを膝に置き、僚は困り果てた。
 その後いくらか押し問答の末、どうにか納得してマフラーを受け取った。
 男は、人に何かねだられてこんなに嬉しかったのは初めてだと、笑った。
 あんまり嬉しそうに笑うので、僚もつられて笑顔になった。
 気持ちが、いっぺんに軽くなった。
 こういうのも、たまにはいいかなと思った。

 

 

 

 もうどこも濡れていないかと念入りに確かめ、僚はマフラーをたたんだ。
 エレベーターを降り、チャイムに手を伸ばす。が、寸前で手を止め、たまにはこっそり入ってびっくりさせてやろうと、いたずら心を膨らませる。
 にやにやしながら、僚は扉の前で靴を脱いだ。鍵を取り出し、そっと開く。
 音を立てないよう慎重に閉め、靴を置いて廊下を進む。
 リビングに通じるガラス戸の前で足を止め、僚は息を潜めて中の様子を窺った。
 テレビの傍の揺り椅子に、男が座っている。どうやら、眠っているようだ。
 思わず息が止まる。
 男のジーンズ姿に目が釘付けになる。
 ほぼ黒に近いグレーのジーンズに、首周りのゆったりとした淡い色のセーターを合わせている。襟元にちらりと、墨色のシャツが見える。
 ただそれだけの、無造作でよくある組み合わせに、目が引き寄せられる。
 静かに扉を開閉し、傍まで行って眺める。
 当り前だが、そこにいるのは間違いなく神取鷹久だった。
 何を確認しているのかと、自分自身に小さく笑う。
 僚はもう一度、頭のてっぺんからつま先まで、男を眺めた。
 過日、男のとあるいたずらで少々服が汚れた事があった。
 洗えばどうという事はない汚れだが、それでは気が済まないからと男は弁償を申し出た。
 安物…といっても、高校生である僚にはそれなりの値段だが、男がそこまで気に病む必要はない。
 辞退するが、男も譲らない。
 お互い頑固なのだ。
 ならば半分出してくれればいいと、僚は言った。
 いたずらをしかけたのは男だが、それに乗った自分にも責任があるのだから、半分負担してくれればいい。
 まだ男は渋った。本当に融通がきかない。
 そこで僚は閃き、提案した。

――じゃあお揃いのジーンズ買おう、それでチャラって事で

 言って馬鹿馬鹿しさに笑うが、最高のアイデアとも思った。
 気分が乗っている内にと、戸惑う男を連れて買い物に出かける。
 いつも行く店と、知ってはいるが少々値が張るので入った事しかないショップを数軒巡り、お互い納得のいく一着を買った。
 結局お揃いにはならなかったが、自分に合う物を見つけられたので気分は良かった。
 それから今日まで、数回、ジーンズ姿の男を目にしてきた。いつの時も自分は、今日のようにやたらに胸がどきどきした。
 中々鎮まらない。
 目に焼き付くほど眺めて、僚は瞬きした。
 膝の上には、書斎から持ってきたらしいハードカバーの本が乗っていた。
 待つ間に本でも読んでいようとして、眠ってしまったのだろう。傍のテーブルには、以前香港土産として贈った銀球の箱があった。蓋は開いていて、今までそれで遊んでいた様子が見て取れた。
 本を膝に乗せて読み、ページをめくる傍ら、こつんこつんと回して遊んでいたのだ。頭に思い浮かぶ光景に自然と頬が緩んだ。気に入って、遊んでくれているのがたまらなく嬉しい。
 僚はじっくりと男の顔を眺めた。
 揺り椅子にもたれ、静かな寝息を立て気持ち良さそうに眠る様に、胸が高鳴る。
 と同時に、雪が降る寒い中やってきたというのに、暖かいところで気持ち良さそうに眠りやがって、何かびっくりするような事を仕掛けてやらねば気が済まないと僚はわけもなく腹を立てた。
 そして、この、まるで映画の一場面のように、ただ眠っている姿も様になる男に対して、少なからず嫉妬もする。
 これから十年頑張っても、こういう風にはなれないだろう。
 憧れと、嫉妬と、誇らしい気持ちが入り混じる。
 さてまずは何をしてやろうかと、僚は、無防備な寝顔を見せる男に口端を持ち上げた。
 冷たい手で触ってやろうか。
 いやらしく触ってやろうか。
 どちらもきっと、さぞびっくりするだろう。
 しかし、あんまり気持ちよさそうに眠っているので、いやらしく触るのも意地悪するのもやめて、手に持っていたマフラーで男の首を覆ってやる。
 いくら室内とはいえ、少し寒そうに見えたのだ。
 そう考えると、膝も寒そうだ。
 僚はコートを脱ぐと、起こさないよう気を付けて膝にかける。
 これでいいと満足し、椅子のすぐ脇に座り込む。起こしてしまわぬようそっと静かにバッグを引き寄せ、持ってきた本を開く。
 区切りの良いところまで読み進め、ふと窓を見やると、外はいつの間にか吹雪になっていた。ほぼ真横に流れていく雪にしばし唖然となる。
 すると背後から頭を撫でられ、僚は飛び上がらんばかりに驚いて振り返った。

「済まない。気付かなくて」

 少し眠そうに目を瞬かせる男に、僚は笑って首を振った。

「少し目を閉じていただけのつもりだったんだが」
 眠ってしまったようだ
「いいよ。いつも忙しいんだ、休みの日くらい、だらだらしなよ」
「ありがとう」

 椅子から立ち上がろうとしたところで、首にマフラー、膝にコートが掛けられているのに男は気付いた。

「これは、私が買ってあげたものだね」

 手にしたマフラーに嬉しそうに目を細め、僚を見やる。

「そうだよ」

 僚は受け取り、ソファーの背にかけた。

「俺の一番のお気に入りだよ」
「本当かい、嬉しいね」
「ほんとだよ、これさ、俺の持ってるコートのどれとも合わせやすいんだ。それに軽いしあったかいし、柔らかくて、手触りもいい」

 高価なものに触れる手付きで、僚はマフラーをひと撫でした。

「それは良かった」
「俺も良かった。思い出すと、ちょっと恥ずかしいけど」

 僚は苦笑いで肩を竦めた。

「何を、思い出すと?」
「買ってもらった時の事だよ。あれはさすがに図々しかったなって」
「私は、嬉しかったよ」

 男は柔らかく微笑み、今温かいものを入れるから、ソファーで待っておいで、と立ち上がった。
 僚は腰かけ、キッチンへと向かう男の後ろ姿をまじまじと眺めた。
 窓の外の雪は、相変わらずの勢いだ。
 しばらくして、甘いココアの香りと共に男が戻ってきた。手にしたマグカップの片方を渡される。

「そういえば、この雪の中、大丈夫だったかい」
「うん、俺が来た時はまだ。ちょうど降り始めだったから」
「それは、危ないところだったね」
「うん、ほんと」
「さ、召し上がれ」
「ありがとう」

 僚は甘い匂いに誘われるまま頬を緩めた。
 そしてまた、男の姿をじっくり眺める。
 ソファーに腰掛けようとして、男は気付く。

「どうかしたかい」

 尋ねる声に僚は首を振って応えた。

「いや、別に。ただ」
 ただ、尻がやらしいなと思って

 男は神妙な顔になって、肩越しに目を落とした。

「おかしいかい?」
「別に。全然おかしくないよ」
 ただ、尻がやらしいなって

 僚は思い切り首を振った後、隣に座った男も見ずに繰り返した。
 男はますます困った顔になり、肩をそびやかした。
 そこでようやく顔を向け、僚は言った。

「鷹久の身体、すっごく綺麗で好きだ」

 やらしいけど。
 付け加えるのを忘れない僚に軽く笑い、男は礼を言った。
 いつものスーツ姿とは違う身体の見え方。輪郭。
 強調される足の長さに少々の嫉妬を交え、僚はもう一度称賛の言葉を口にした。

「身体付きとかすごく男らしくてさ……見てるとムカムカする」

 最後はわざと意地悪そうな響きに変え、笑う。
 男も合わせて笑う。

「私は、単に見栄っ張りなだけさ」
「それでこんなに綺麗でいられんだから、すごいと思う」

 僚は伸ばした手でぺたぺたと腹部に触れた。厚手のセーターの上からでも、鍛えられた筋肉が確認出来た。
 カッコいいと唸り、ひと口ココアを啜る。甘さが心地良く広がってゆく。
 いやいや、と男は首を振った。

「仕事中、こっそり抜け出してトレーニングしてるんだよ。悪い奴だろう」
「また、ウソばっかり」

 とぼける男の肩を叩き、僚は笑った。
 もう半分ほど、ココアを味わう。
 ちょうど良い甘さだが、少し苦くもあった。
 僚はへの字口になって肩を上下させた。

「俺は……貧弱。それに汚い。……傷とか」
「おや、まだ気にしているのかい」

 男は小首を傾げてみせた。
 どうしても…僚は苦笑いして小さく首を竦めた。

「でも鷹久、これでも好きだって言ってくれるから、もう、そんなには」

 いつも励ましてくれるし、随分薄れた。頭を過ぎっても、前のようにひどく胸が痛くなる事もない。
 男は少年の手からそっとカップを取りテーブルに置くと、勢いを変えてソファーに押し倒し、驚く間に裾をまくって肌を露わにする。

「………」

 抵抗して伸びた手を掴み、男はふうむと唸ってみせた。

「相変わらず綺麗な身体だよ、私好みの」

 そしてにやりと笑い、先ほど僚がしたのを真似て、見てるとムカムカする、と付け足す。
 戸惑う僚の頬をひと撫でし、診察終わりと、男はまくった裾を元に戻した。

「……ありがと」

 僚は起き上がり、困惑気味に笑った。

「君は、全体のバランスが美しいよ。まっすぐ立ってごらん」

 僚は言われるままソファーの傍に立った。
 じっくり眺めて、手足の長さに惚れぼれすると言われ、どう答えて良いやらわからなくなる。

「……それ、言い過ぎ」
「とんでもない。君の身体は充分綺麗だよ。服を着るとね、より際立つんだ」

 そして服の下には、とても美しいものが隠れている。
 僚はむず痒さに顔をしかめた。
 それを愛おしそうに見上げ、男は微笑んだ。

「たまらなく好きだよ」
「……どのへんが?」
「私を全て受け止めてくれるところ」
「しょっちゅうへばってるけどな」
「それだけ、一生懸命だという事だ。嬉しいよ」

 男は手を引いて隣に座らせた。カップを手渡す。
 僚はまたひと口啜った。寒い日のあたたかい飲み物は本当に美味い。

「鷹久ってさあ、人を褒めるの、ホント上手いよな」
「そんな事はないさ」
「あるよ。ワザとらしくないし、さりげないし。聞いた時はさ、まーた上手い事言っちゃってとか思うんだけど、後から、じっくり良い気分になるんだよ。ホント、気分が良い」

 それだけ、やっぱり、人を見てるって事なんだろうな。
 何を言えば、どう言えば、相手を程良く満足させる事が出来るか、観察眼に優れている。

「そんであと、一歩引いた感じ」
「不満かい?」
「ううん、いつも、ありがとう」

 自分たちがしている事がことだけに、万一に備えて、男は冷静な部分を残しているのだ。
 僚は、自分だけが溺れてしまう甘えと、男の気遣いに、心から感謝した。
 男はそれを笑顔で受け止めた。

「とはいえね、君があまりに全力でくるから、頭で思うほど冷静ではいられないのだけどね」

 少し顔を曇らせた僚に首を振る。
「でもこれは君が悪いのではないよ。私がまだまだ、半人前という事さ」
「鷹久が、半人前?」

 納得いかぬと、僚は唸るように言った。
 すると男は芝居がかった声で喋り始めた。

「そうとも。私は、君が欲しくてほしくてたまらない、憐れな――」
「もう、何言ってんだよ」

 最後まで聞いていられず、僚は腹を抱えて笑い出した。勘弁してくれと、肩を叩く。
 男も合わせて笑う。
 穏やかに笑う男を見ていて、衝動が込み上げる。突き動かされるまま、僚は男に顔を寄せた。
 お互いの唇に残るココアを交換し、ゆっくり離れる。

「……僚」
「うん」
「もう二度と、他の誰にも見せないでくれ」

 真剣な男の声に息を飲む。
 声が出ない。出せない。約束出来ないからではない。こんなにも真剣に想ってくれる男に、心までも震えて、声にならないのだ。
 あの頃の自分は本当に最低の、底辺の人間だったと、僚は遠く思い返す。
 それがこうして、何でもない風に当り前のように隣に座って過ごせるのは、全て男のお陰だ。
 大げさでなく、男は命の恩人だ。
 手が無意識の内に左耳のピアスを掴んだ。
 僚は何度か息を飲み込み、声を絞り出す。
 わかった、絶対に、と誓う。

「俺はあんたのものだから」

 男の頬に手を添え、証として口付ける。
 重なる寸前、男から愛の言葉が贈られる。
 身体の奥深くまで沁み込むひと言にうっとりと目を閉じ、僚は心から浸った。
 しばし抱き合う形で過ごしていて、僚はふとまた衝動に見舞われた。

「なあ鷹久、ちょっとこっち、立って」

 少しせっかちに手を引く僚に、何事かと神取は傍に立った。

「これ、着てみてよ」

 コートを渡してくる僚に思わず息が詰まる。
 十代の子が選んだものはさすがに似合わないだろうと辞退するも、僚の強引さには勝てず、男は渋々と袖を通した。

「俺とじゃ体型も違うからちょっとあれだけど、いい感じだよ」

 更にはマフラーも巻かれる。僚は無邪気に、似合う似合うとはしゃいでいる。己の姿を想像すると冷や汗が滲む。鏡を見なくても結果はわかるが、男は引かれるまま鏡の前に立った。
 鏡に映る自分の姿に、神取は絶句した。ある程度は覚悟していたものの、ここまで似合わないとは。
 しかし僚はそうは思っていなかった。
 見慣れないせいで違和感はあるものの、男の新たな魅力を発見出来た事を嬉しがっていた。
 彼には申し訳ないが、冷や汗どころか嫌な汗まで噴き出してくる。
 今にも失神寸前なのを悟られぬよう呼吸を整え、男は言った。

「やっぱり、これは君の方が似合うよ」

 神取はコートを脱ぐと、僚の肩に羽織らせた。マフラーを二重に巻き、フロントで軽く結ぶ。

「マフラーもね」
「これは、すごいお気に入り」

 俺のお宝。
 結び目を整える男に、僚はにっと歯を見せて笑った。

「そう言ってもらえて、本当に嬉しいよ」
「それに、これ」

 僚はマフラーをほどくと、両端を持ってくるくると手首に巻き付けていった。

「こんな事も出来るし」

 自ら両手を拘束し、試すように男を見る。
 神取は心持ち首を傾け、僚を見つめ返した。

「それは、誘っているのかな」
「さあ。どっちだ」

 神取はゆっくり手を伸ばすと、僚からマフラーの両端を受け取り、じっと目を覗き込んだ。そのまま、静かに顔を近付ける。
 始めは大人しいキスが、あっという間に欲求を剥き出しにした荒々しいものに変わる。神取はマフラーをきつく結ぶと、背中から僚を抱きしめた。

「……さっき、君に身体を触られてから、疼いてしようがないんだ。鎮めてくれるかい?」
「!…」

 背部に何か硬いものが押し付けられる。その正体にすぐさま気付き、僚は小さくしゃくり上げた。
 小刻みに頷く。
 ジーンズのホックにかかる男の指に、僚は身体を熱くさせた。すぐにやってくるであろう快感がみっともなく飛び出てしまわないよう、手首に巻いたマフラーで口元を覆い隠す。
 それから、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

「ドライブにでも、行かないかい?」
「えぇっ?」

 後片付けを済ませ、キッチンから戻ってきた男の誘いに、 僚は素っ頓狂な声を上げた。この男はこうして時々、突拍子もない事を口にする。随分慣れたつもりだが、いつにもまして飛びぬけた提案に、まじまじと顔を見つめる。

「外、すごい雪だよ?」

 僚は窓の傍まで行って、この雪が見えないのかと何度も指差した。

「だから行くのさ。雪の中のドライブも、楽しそうだろう?」

 うきうきと楽しそうに言う男に、ついつられて同じ気持ちになる。慌てて振り払い、僚は小さくため息をついた。

「もちろんタイヤはつけかえる。安全運転を心掛けて。あまり遠くへは行かない…海を見に行くのもいいかな」

 もう、ほぼ気持ちは決まっているのか、降りしきる雪と海を遠くに見ながら、男は言った。
 やれやれと首を振り、僚はソファーから立ちあがった。これだから…好きなのだ。楽しそうだからと無邪気にはしゃぐ姿を、惜しげもなく見せてくれるところが、好きでたまらない。いつもはかたく引き締めて、一部の隙もない大人然とした振る舞いを崩さないが、ひとたび降りると、こうしてありのままを見せてくれる。
 自分だけに許された特権。
 だからどこまでも惹かれる。

「行くかい?」
「行くよ、どこでも」

 口端を持ち上げ、僚は答えた。
 行為の途中で、汚してはまずいとほどいたマフラーを首に巻き、出発の準備を整える。

「良かった」

 神取は持ってきたコートを片腕に引っ掛け、車の鍵を持って僚の横に並んだ。

「鷹久、マフラーは?」
「ああ、このセーターだから、いらないだろう」

 そう答える男に、僚はまじまじと格好を見直した。
 マフラーなしではさすがに寒いだろう。と、そこで僚はある事を思い付いた。

「そうだ、じゃあさ、そのセーターに似合うマフラー、途中で買おうよ」

 俺が出すから。
 そうしようと目を輝かせる僚に、神取は目を丸くした。 十一歳も年が下の子に何かを買わせるなど、とんでもない。
 嫌味にならぬよう言葉を選び、辞退する。
 しかし僚は食い下がる。

「俺さ、正直言うとずっと引っかかってたんだよ。このマフラー、納得したけど、やっぱり納得しきれなくて、いつかお返ししたいってずっと思ってたんだ。同じマフラーなら丁度釣り合いも取れるしさ、いいだろ」

 いや、しかし、と言葉が喉元まで込み上げる。
 一方の僚はすっかり気持ちが固まっているようで、色やデザインの好みについて尋ねてきた。
 これまで見てきた物と似たような物を挙げつつ、たまにはちょっと冒険してみるのもいいのではないかとの提案に、男は押され気味に応える。

「イメージしてるのは、渋めのオレンジか赤なんだ。ワインレッド…ボルドーとかその辺り」

 男はふむふむと頷いた。

「それで、ストライプいいかなって。どう?」

 子供っぽいのはダメだぞ、落ち着いた大人の男だからな、ちゃんと選ばないとな…ぶつぶつと呟きながら、僚はあらためて男の全身を見直した。
 真剣になってあれこれ考え込む姿に、神取はふっと笑みを零した。いつの時も全力で向かってくる彼が愛おしくてたまらない。

「君が選んでくれるものなら、何でも嬉しいよ」
「そうかあ?」

 心配そうに唸って、僚は腕を組んだ。

「ああ、もちろん」

 肩を抱き寄せ頬に軽く口付ける。

「うん、実際見てみないとわかんないしな」

 僚は玄関のドアを開け、一歩踏み出した。

 

 

 

 あちこち見て周り、昼下がりになる頃、二人はようやく海の見える場所に到着した。
 海に行こうと言われた時は驚いた僚も、実際についた途端、男よりもはしゃいで車から飛び出した。
 雪は、買い物の間に吹雪から静かにしんしんと落ち行くものにかわっていた。風もほとんど止んでいた。
 出発の時は車の中から眺めるだけかと少しがっかりしていた僚は、嬉しさを抑えておけず男を待ち切れずに車から飛び出した。
 その後から、少し照れくさそうにして男も車を降りた。あっという間に砂浜に向かった僚の呼び声に、手を上げて応える。
 襟元には、僚が選んだマフラー。
 深い赤とオレンジが絶妙に配されたボーダーのマフラーに決めた時、男は、この上なくあたたかい気持ちに包まれた。
 ねだられるよりもっと嬉しいものを知った。
 そっと手をあて、歩き出す。
 雪舞う浜辺は凍えそうに寒かったが、顔には笑みが浮かんでいた。

 

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