チクロ

そんな上手い話が

 

 

 

 

 

 どっこらしょ、と桜井僚はソファーから床に座り直した。
 ソファーを背もたれにして寄り掛かり、膝を抱える姿勢で読書の続きに耽る。
 その様を、神取鷹久はちらりとうかがった。特に何も言わず、彼と同じように読書に戻る。
 が、目の端はどうにも彼が気になると様子を見続けた。彼は膝を伸ばしたり、胡坐をかいたり、また膝を抱えたり、様々な姿勢を取った。そしてついにはごろりと仰向けに寝転がった。それも、自分の足元のすぐ傍で。
 今は、特に何もする事がない時間。今日は午後から映画を見に行く予定で、では時間になるまでドライブでもしようかもしくは買い物をしようかといくつか出し合ったがどれもぴんとこず、ならばいっそ出かける時間になる間でゴロゴロしようという事になった。
 するならば思い切りだらだらのんびりしようと、思い思いに本を手に自然と読書の時間となった。
 この気ままさは実に心地良く、まずまずの天気なのに部屋にこもってもったいない、との気持ちを心の片隅に抱えながらの読書は、大変贅沢で大いに楽しいものであった。
 本を読むもよし、テレビを見るもよし、物思いにふけるのも自由だし、ただぼんやりと目を瞑っているのもまたいい。
 そうして二人は、時折ちらりと時計を見やってはまた紙面に目を戻し、好きな速度で文字を追った。
 始めは二人ともソファーに身を沈めていたが、同じ姿勢に疲れたのか僚はソファーから降り、床に座って、ついには仰向けになった。
 ソファーとテーブルの間、男の足の傍に頭を置き、その姿勢で、本を顔の上に読み続けた。

「そこでは、身体が痛くなるだろう」

 寝室で少し横になってはどうかと、神取は読んでいたハードカバーを開いたまま膝に置き、僚へと目を向けた。
 腕が怠くなったのか、僚は読んでいたペーパーバックをテーブルに置いて男を見上げ、ごろんごろんと首を左右した。

「ううん全然、ここいいよ、ふかふかで快適。寒くもない」

 言いながらベージュのラグマットを撫でる。手触りがよっぽどいいのか、僚は子犬を撫でるかのような手付きで何度も手のひらを滑らせた。何とも可愛らしい仕草につられ男は少し笑った。

「それにさ」

 僚はそこで一旦言葉を切り、じっと男を見つめる。
 いかにも何かを言い含んだ眼差しだが、尋ねても別に、なんでもとはぐらかした。

「ここで静かにしてるから、鷹久は気にせず読書してなよ」
 お構いなく

 撫でていた両手を腹の上に落ち着かせ、僚はまたじっと、しっかと開いた目でまっすぐに男を見つめた。

「面白い子だね」

 神取は肩を竦め、しばし目を見合わせてから、本へと戻した。

「だろ」

 少し震えてしまった息を慌てて飲み込み、僚は静かに静かに呼吸した。喉が震えたのは、言葉こそおかしがるものだが目付きは馬鹿にしたところはなく、いつも通り強くしっかりと自分をとらえていたからだ。
 いつもと変わらない、いつも通り…初めて男と目線を合わせたあの時と同じく、まっすぐ力強く自分を見てくれた。
 だから息が弾んだ。
 だから男から目が離せない。
 ここから見上げる男の顔はとても男前で美しくて、目を離せない。
 ソファーだと遠い、寝室にいってしまったら見られない。
 ここが一番いい位置なのだ。
 男には言わない。
 本当はもっと近くに寄りたいが、ここで充分だ。
 この距離だって充分近い。
 太陽に近付きすぎるのはよくないのだから。

 

 嗚呼…男の真摯さが自分にとってどれほど救いとなったか伝えたい。まっすぐな眼差しにひとめ惚れした事を伝えたい。
 初めて泊まった日に見たあの夢のように、素直に想いを告げたい、告げられたらどんなに――。
 そして、願わくば…同じタイミングで恋に落ちたと都合の良い妄想をする。
 もちろん、そんな上手い話があるはずない。
 ただの妄想にすぎない、
 それでもいいや。
 別に、どの時だっていいんだ。
 確かに男からの愛情を感じるのだから、いつだって構わない。
 自分は、初めて目を合わせた時に恋に落ちた。

 

 お構いなくとの僚の言葉に、それならばと続きの活字を追い始めた神取だが、そこから数行もたどらない内に読書を中断する。
 どうにも気になって内容が頭に入ってこないのだと、やや困り気味に目線を送ってくる男に、僚はうーんと唇を尖らせた。

「なんだよ、集中力がないなあ」
「そうなんだ、だから僚、ここに来てくれないか」

 神取は自分の膝をぽんと叩いた。
 中々にいい音がした。

「な、に甘ったれてんだよ」

 自分の考えを見透かされたかと、僚はひやひやしながらからかった。声の震えを、上手く抑えられただろうか。背中がじわっと冷たくなる。無理やり飲み込んだ分が背中から出ていくようであった。

「いいじゃないか、来てくれたら、安心して本が読める」
「えー……ちゃんと読むか? 約束する?」

 わざわざ約束するほどの事ではないが、なんとなく、そんな言葉が口から飛び出した。

「ああ、もちろん」

 思いがけない単語に神取はひと息目を見張り、小さく笑って頷いた。

「約束しよう」
「ホントだな。嘘ついたらはりせんぼんだぞ。……ったくしょうがねえなあ」

 どぎまぎ、にやにやしつつ、僚は面倒くさそうに起き上がりのそのそとソファーに這い上った。そしていざ男の膝を目の前にした時、まるで夢の再現のように思え、身体が硬直した。
 丁度こんな感じであった。ふわふわとあったかい心地でいた自分は、じりじりと男ににじり寄って抱き付き、我が物顔で膝を占領したのだ。
 それと同じ行動をそのままなぞるのは何とも具合の悪いもので、僚はぎくしゃくと軋む手足でもってなんとか仰向けになり、頭を乗せた。

「ほら、よし、読め」
「ああ、よし、読もう」

 そう言った神取だが、僚を見つめるばかりで一向に読書を再開しようとはしなかった。

「読むんだろ、早く」

 脇に置かれたハードカバーを差し出し、僚は急かした。頭のどこかから、違和感らしきものが襲ってくる。よくわからないその感覚を、捕まえて、分析しようとするのだが、追うとするりと手をすり抜けていくばかりで、どうにも掴む事が出来ない。

「いやいや、まあ待ちなさい」
「なんだよ、早く読みなって」

 するりつるりと巧みに逃げる妙な感覚を追う事は諦め、僚は、ぐいぐいと男に本を押し付ける方に専念する事にした。

「約束って言ったじゃん」
「もう少ししたら読むとも」

 神取は手からひょいと本を取り上げ、脇に置いた。僚は即座にそれを掴み、適当にページを開いて差し出した。

「ほら、早くしないとはりせんぼんだぞ」
「そいつは勘弁願いたい」

 そう言いながらぱたんと閉じ、男はわざと取りやすい場所に本を置く。
 僚はそれを手に取って開き、男に押し付ける。

「もう、鷹久は」
「まあまあ、待ちなさい」

 なんとも下らないやりとり、もしも他人が見たら呆れ果てること請け合いだが、二人は絶妙のタイミングで閉じて置いて取って開いてと繰り返し、お互いくすくす笑いながら攻防を繰り広げた。
 こんな風に息を合わせてくれる男に、僚は笑いながら、無性に泣きたい気分になった。
 この勢いに乗せて男に気持ちを告げようかと喉元まで出かかるが、果たして言葉は出る事は無いのであった。
 やりとりはたまらなく愉快で、だからこそ泣きそうで仕方なかった。

 

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