チクロ

プレゼント

 

 

 

 

 

 クリスマスの夜に、イベントにちなんだ曲を男にプレゼントしようと思い付いたのは、男の誕生日の記念に曲をリクエストされた時だった。演奏を聞かせる事もいいプレゼントになるのだとその時知った。
 こういう方法もあったのか。
 僚は早速、駅前にある大きなCDショップに駆け込んだ。
 目指すは楽譜のコーナー。
 高い天井まで届く本棚の前に立ち、ジャズアレンジのクリスマスソングを探す。
 アレンジ、それもジャズのアレンジを選ぶのは、クラシックの次にジャズを好む男に喜んでもらいたいからだ。
 僚は適当に一冊引っ張り出すと、頭からじっくりとページをめくる。
 ページをめくる手は早かった。
 何故なら、弾けない曲ばかりだからだ。
 これがアレンジでなければ、大した技量のない自分でもそれなりに弾きこなせるだろうが、目的のものはジャズのアレンジなのだ。五線譜の上で踊るおたまじゃくしをほんの少し目で追っては、心の中で首を振り、次のページに移る。
 とてもじゃないが、自分の手には負えない。
 僚は肩を落とした。
 幼い頃に離婚し、家を出て行った父を心密かに恨む。
 時間があのままで流れていてくれたなら、自分も音楽への興味を失わずにいただろうし、何かが欠けてしまった心を慰める為に自暴自棄になったりはしなかっただろう。
 とはいえ、完全に憎むなんて出来ない。
 楽しい思い出がたくさん残っているからだ。
 音楽への興味を失った後も、完全に断ち切る事は出来ず、機会があれば身近にあるピアノを弾いていたのも、父との思い出を消したくなかったからだ。
 人より早く楽器に慣れ親しんできたお陰で、さしたる苦労もなくピアノを弾く事は出来たが、興味が薄いせいかただ弾けるというだけのものだった。
 その上、ピアノに触れていたのは中学の時までで、高校に入ってからはぱったりとやめてしまった。
 男のお陰で、すぐに再開する事になるのだが。
 僚は一旦本から目を離し、大きく息を吸った。

 自分で自分を傷付けるのが怖いから、人にやってもらう。

 自暴自棄になって、そんな事ばかり繰り返していた。
 SMクラブのアルバイトを始めたのも、それが理由だ。
 そこならば、いちいち頼まなくても希望をかなえてくれる。
 それを、男は悲しい事だと言った。
 そういった理由で自分の身体を苛めるのは、悲しい事だと言った。
 そして、本当はコミュニケーションの為にあるものなのだと、教えてくれた。
 決して、自分の身体をいたずらに傷付ける為のものではないと。
 男は言った。
 今なら、よくわかる。
 まだわからない事も多いけれど、男の言った事はよくわかった。

 男から教わる事は多い。
 教えようとはしていない。
 けれど、男から教わる事は多い。

 父が去った事で、意識して遠ざけたチェロを弾けるようになったのも、男のお陰だ。

 僚は再び目を戻した。
 なんとしてでも、見つけ出さなくては。
 大切な事を教えてくれる人の為に。

 愛する人の為に。


 ようやく目当ての曲にたどりつき、僚がCDショップを出た時には、すでに日はとっぷりと暮れていた。
 風が冷たい。
 だが、気分が高揚しているせいか、寒さなどまったく感じなかった。
 足取りも軽やかに、家路をたどる。

 

 

 

 翌日から早速練習にとりかかる。
 一度こうと決めた人間の情熱は、ある種凄まじいものがあった。
 音楽の教師に無理を言ってピアノを弾いてもらって、録音したMDを繰り返し聞く。そしてそれを手本に、時間が許す限り学校に残りピアノを弾き続けた。
 自己流のせいか、三日もすると手首が痛み出した。
 構わずに練習を重ねる。
 半ば取り付かれていたといってもいい。
 それだけ、男に喜んでもらいたいという思いが強かった。
 ミスタッチの度に手を止めてしまう自分の癖に、苛立ちが募る。どうしても治らない。男にチェロを教わった時も、この癖のせいで気まずい雰囲気を何度も味わった。
 鍵盤から手を離し、深呼吸する。
 思いがけないプレゼントに驚き喜ぶ男の顔を思い浮かべては気持ちを宥め、練習を再開する。

 

 

 

 お粗末ながらも大分まとまり、気持ちに少し余裕が出てきた。そこでふと、どうやってこれを渡すか…いつ、どのタイミングで贈るか、という問題が浮上した。
 当日の予定は現在のところ、夕刻に迎えに来てもらい、二人のお気に入りのレストランで食事をし、男のマンションで互いの贈り物を交換するという流れで決定している。交換会の贈り物は、それぞれもう決定していた。前もってお互い欲しいものをいくつか挙げ、その中から選ぶ、という、半分サプライズの方法を取った。
 さて、曲はいつ披露しようか。
 食事の後男のマンションに戻ったところで渡すのがいいと一旦は決まるが、順を追って想像すると、自分の性分からしてきっと食事の間中気もそぞろでとても楽しむどころじゃない、男の気分も損ねてしまう結果に容易に行き着き、それでは駄目だと首を振る。
 頭を抱える。

 

 

 

 今到着したので、マンションの一階にある音楽室に来てほしい…僚からの連絡に了解したと応え、神取鷹久は部屋を出た。
 昨晩、今日の予定の確認の為に電話をした際、明日の予定を少し変えたいと僚は言った。

――ちょっと、付き合ってもらいた事があるんだ

 だから、自分がそちらへ行く、時間は何時、良いだろうかと聞いてきた。
 指定された時間には何も予定はないので、大丈夫だと答える。
 じゃあ明日と、何かに追われるように僚は通話を切った。
 何を慌てているのだろうと気にはなったが、翌日になれば答えが分かるだろう。
 少し楽しみに、不安に思いつつ日を越えて、件の時間を迎えた。
 エレベーターに乗り込み、一階を目指す。
 音楽室の扉の前に、僚の姿を見つける。
 軽く手を上げ、どうしたのか問うが、僚は別にとだけ答え首を振った。一体何が原因なのか、彼の顔はひどく強張り、まるで怒っているようにも見えた。
 どうしたのかと問う暇も与えず、僚は部屋の中へと促した。
 訝りながらも、神取はピアノ室に足を踏み入れた。

「………」

 部屋の中央に置かれたピアノを目にした途端、僚は軽い目眩さえ感じた。唾を飲み込み、壁に寄せられた椅子の一つをピアノの傍に運ぶと、奏者の斜め後ろに逆向きで置き、ここに座るよう男を促す。
 そこでようやく神取は僚の言う『付き合ってもらいたい事』の正体を理解した。顔が強張っていたのも口数が少ないのも、全ては、緊張から来るものだったのだ。
 楽しみな気持ちが湧いてくる。同時に、彼の抱える緊張が己の物であるかのように、心が張り詰める。
 僚はやや俯き加減になり、強張った面持ちで鍵盤を凝視していた。そんな彼へちらりと目をやり、神取は椅子に腰掛けた。
 それを見届けてから、僚はピアノに向き直った。

「あの……」

 背後の男に向かって声をかける。

「これでも一生懸命練習したんで、ヘタでも、その…勘弁てことで」

 掠れた声で僚は弁解した。

「わかった」
「そんで、これは、その……」

 極度の緊張に喉がからからに渇いて上手く喋れない。僚は一呼吸置いてから口を開いた。

「いつも、色々な事を教えてくれる鷹久に、お礼の意味を込めて、プレゼント……する…曲」

 緊張もそうだが、上手く喋れないのは、あらためて言葉で伝えようとする気恥ずかしさのせいでもあった。
 僚はなんとか最後まで伝い切り、大きく息を吐いた。

「そちらを向いては、いけないかな」
「いや、うん。あの……駄目…って、ことも、ない」

 この際、どちらでももう構わなかった。とにかく、早く済ませたい。
 僚は曖昧に返事をした。

「君の視界に入らなければ、構わない?」
「うん。いい」

 手のひらの汗をジーンズで拭い、僚は小刻みに頷いた。
 神取は椅子から立ち上がると、なるべく音を立てないよう向きを変え、静かに座った。

「もっかい言うけど、ホント…ヘタくそなんで、それ、覚悟して聞いて」

 決して卑屈になっているわけではない。今日までに、納得のいく仕上がりにならなかった自分を悔いての事だ。
 神取はただ短く応えた。こういう時は、何も言わない方がいいのだ。
 確かに僚の演奏は、それまで自己流で弾いてきたせいもあって独特の硬さをもっているが、決して下手ではない。技巧は拙いながらも、その分気持ちがこもっている。
 自分が思うに、演奏というのはつまるところ、いかに楽しんで弾いているかが重要なのだ。
 その点でいえば、僚は文句なしに巧い。
 いつの時も、実に楽しそうに弾いている。ミスタッチに気を取られしょげる事はあっても、最後はいつも楽しんで弾いている。
 だが、今それを伝えてもきっと耳には入らないだろう。
 ならば今は黙って、僚の音を楽しもう。

「……いい?」
「ああ」

 男の返事に、僚は目を閉じた。
 何度も深呼吸を繰り返し、意を決して目を開く。
 最初の音の上に指を沿え、僚はぐっと息を詰めた。
 神取は固唾を飲んで見守った。
 しばらくの静止の後、僚は静かにピアノを弾き始めた。

 もう駄目だ――!

 頭の中が真っ白になる。

 少し気だるげな、特徴のある出だしを耳にして、神取はすぐにそれがジャズのアレンジである事に気付いた。
 自分に聞かせる為にこのアレンジを選んだ僚の心遣いがたまらなく嬉しかった。
 感動のあまり震えが走る。
 イントロに継いで現れたのは、『聖しこの夜』のテーマ。
 クリスマスソングの、ジャズアレンジ。
 思わず目を見開く。
 うきうきとした、弾むような旋律が優雅に聖しこの夜をうたいあげる。
 繰り返しに移る旋律の後、わずかに音を溜め、そこからは一転して華やかなメロディ。
 疾走感に満ちたリズムが、高らかに聖しこの夜を奏でる。
 自然と笑みが浮かんでくる、楽しげなリズム。
 神取は瞬きも忘れ、僚の演奏に深く酔いしれた。
 締めくくりに向けて音は一際盛り上がり、長い余韻を引いて二分少々の演奏が終了する。

 余韻を濁さないよう慎重に、静かに鍵盤から指を退ける。完全に音が消え去ったのを確認してから、僚は深く息を吸い込んで吐いた。
 緊張の名残か、まだ鼓動は激しかったが、気持ちは大分落ち着きつつあった。
 結局、完璧に弾く事は出来なかったが、見苦しく演奏を中断する事は免れた。ほっと肩を落とし、手のひらをまたジーンズで拭う。
 それからゆっくり、男を振り返る。
 まっすぐ見つめてくる視線から慌てて目を逸らし、ぶっきらぼうに言い放つ。

「……プレゼント、した」

 立ち上がり、ちらりと男を見やる。
 次いで立ち上がり、何かを伝いかける男を遮り、僚は矢継ぎ早に言った。

「いいよ、なんも言わなくていいから。どこがどうとかそういうのもなしで。わかってるから」
「僚、僚――」

 目を合わせようとしない僚に呼びかけ、神取は歩み寄った。

「いや、いい。恥ずかしいから何も言わなくていい。駄目。言うな」

 嗚呼、この子は――もっと自信を持ってもいいのに。
 つい零れてしまう笑みを噛み殺し、神取は僚の肩に手を置いた。

「わかった。なら、一言だけ」
「ホントに一言だけだぞ。はいかいいえで済ませ――」
「僚。わかったから」

 顎に指をかけて上向かせると、恥ずかしさをごまかす為に口早にまくし立てる僚の唇をやや強引に塞ぐ。
 僚は一瞬抵抗したが、すぐに、力を抜いて任せてきた。
 大人しくなったのに気付くと、神取は顔を離した。

「ありがとう」

 唇の上で囁く男を、僚はぎこちなく見上げた。

「世界で一番、素晴らしいプレゼントだ。ありがとう」

 鼓膜をくすぐる低音に、僚は本当の意味で安堵した。
 喜んでもらえてよかったと笑った途端に、何故だか涙が滲んだ。

 

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