チクロ

雲とミカンとホット缶

 

 

 

 

 

 つい先日、先週までは、太陽はギラギラと輝きむっとこもる空気と相まって、まだまだ夏が続くのだとげんなりさせたが、いつの間にやら暑さの質が変わっていた。
 日差しは夏から引き続き強いままだが、日陰に入った時やすうっと吹き抜ける風のひんやり具合は、もうすっかり秋である。
 当然か、もう十月も半ばになるんだものな。
 窓からの日の入り方が違うと、桜井僚は朝の歯磨きをしながら思った。
 九月の末頃まではむしむしと夏が延長していたが、それも随分遠ざかった。
 いつの間にやらという気持ちが強いのは、中間考査だ修学旅行だと慌ただしく予定が立て込んでいたからである。
 何より、これまでにない出会いの衝撃が大きく、心が浮ついているからだ。
 毎日はちゃんと数えて過ごしているが、時折正気に戻るような感じでずっとふわふわ宙に浮いた心持ちが続いていた。
 脳裏に、男の顔が鮮明に蘇る。
 知らず知らず顔がにやけ、口の端から泡が垂れそうになった。僚は慌てて片手で押さえ、天気の具合を見る為に部屋に来ていた足を洗面所へ向けた。
 鏡に自分の顔が映るが、見なくてもどれくらい情けないか予測はつく。出来るだけよそ見をして顔を洗い、身だしなみを整え、合間に弁当を用意し登校の準備を済ませる。

 

「すっかり秋だよねえ」

 先ほどコンビニエンスストアで買ったホットココアの缶を両手で転がし暖を取りながら、空を見上げて上杉は言った。
 ふと見上げた空はすっきりと高く、すっかり秋色で、なんだかちょっとおセンチな気分になるという。

「あー……そうかあ?」

 稲葉はちらりと空を見て、興味なさげに鼻を鳴らした。大きな紙パックのジュースを、学校に着くまでに飲み干す勢いでずんずん啜る。それより自分は、今日の小テストの方が気がかりだ、オマエも気にしろと、常にどんぐりの背比べになる上杉を心配する。

「あーあマークはこれだから……桜さんなら、わかってくれるよねえ」

 わかるはわかるが、空よりも小テストよりも、今夜の献立が目下の気がかりだった。僚は右のポケットに入れた小サイズのホット缶を軽く握り、現在の冷凍庫の品揃えを思い出す。
 テストについてはあまり余裕はないが、さりとて全く自信がない訳でもない。だからそれほど心配はなく、心置きなく献立に気を取られる。

「さすが桜さん余裕だねえ、オレ様のライバルなだけの事はあるね」
「ばーか、オマエはオレ側だろうが。桜井はどっちかといや南条側だよ」

 調子づく上杉を肘で小突き、稲葉は半眼で睨んだ。自分も上杉も底辺とまではいかないが、オツムの出来は余りよろしくはない。
 ずばりと突いてくる稲葉にぐともぬとも判別しがたい音を漏らし、上杉は慌てて声の調子を上げた。

「んな事ないですー、ねー桜さん」
「うん、同じ同じ」
「いいっていいって、上杉ごときに気を遣う事ねーから」
「あーもーマークはうるさいうるさい。んで桜さん、今夜は何を作る予定で?」

 片側の稲葉にしかめっ面をした後、ぱっと切り替えて上杉は尋ねた。

「今日は――」

 今日は豚の生姜焼きもどきと、あとなにか果物。オレンジ色の丸いものがあれば完璧だ。
 確か冷凍庫の一番手前にあるのは豚肉だったはずだ。枚数までは覚えていないが、今夜には充分間に合う。調味料も問題なし、帰りにスーパーに寄って付け合わせを見繕いその時にミカンを見つければいい。今日はどれを買って帰ろうか。
 ぷはっ。
 英単語を暗記する時よりも真剣な横顔だと、思わず上杉は口を押さえた。
 思案にもぐっていた僚は、隣の吹き出し笑いに照れ、顔をしかめた。

「桜井らしくていいや」
「桜さん、マジで好きだよね」

 言わなくてもいいのに加えるほどの柑橘好きに、二人は微笑ましくなる。
 まあねと僚は開き直り、いっそ思い切り笑ってみせた。
 と、上杉は缶を持った手で東の空を指した。

「なーなー、あっちの雲、あれミカンが一杯転がってるみたいに見えなくない?」
「えー…見えねえなあ。タヌキうどんの天かすかあ?」
「あーあーもう……情緒の無いマークは黙っててよ」
「情緒ってオマエ……」
「ねえ桜さんは見えるよね」

 

 問いかける上杉の声は届かない。僚は今、上杉の言った転がるミカンに心奪われていたからだ。
 目に映るのはミカンのプールだ。
 青い空に浮かぶ白い雲は様々なオレンジ色に染まり、僚の目に映った。
 世界中の、ありとあらゆる種類の柑橘を集めた大きな大きなプールに、自分は今浮いている。
 水にミカンを浮かべたのではなく、文字通りミカンで出来たプール。
 どこを見ても底まで橙色のミカン色で、小ぶりで可愛らしいものから、自分の頭より大きいもの、バナナの房のようなもの、様々だ。
 そしてあっちからこっちから、甘くふくよかな良い匂いが自分を包み込んでくれるミカンのプール。
 その中をすいすいぐんぐん泳ぐ自分を夢想する。
 大好きなミカンに助けられ、きっとものすごく速く泳ぐ事が出来るだろう。
 プールサイドには、しゃれたチェアを二つ置こう。
 そこに男と二人で並んで寝そべり、日がな一日ミカンのプールを泳ぎミカンを食べて、寝て起きて泳いで寝て、気ままに過ごすのだ。
 ああ、なんて素晴らしいプールだろうか。
 きっと男も気に入るに違いない。
 朝から晩まで泳ぎ回って、泳ぎ疲れて喉が渇いたら手近なミカンを食べて、腹が減ったらまたミカンを食べて、男と二人で一日ずっと楽しんでいたい。
 そんな、都合の良い子供じみた妄想に耽る。
 それを稲葉はこう見る。

「おら見ろ上杉よ、桜井呆れてるじゃんよ」

 上杉は負けじと言い返す。

「そんな事ないですー、ねー桜さん」
「………」

 ようやく妄想の海から戻った僚は、恥ずかしさをごまかす為に曖昧な笑みで上杉に応え、唸るような声音で肩を竦めた。

「いい、いい、ほっとけ桜井。おら上杉、頭あったかい事言ってっと置いてくぞ」
「ちぇーふーんだマークなんかふんふーんだ。あれ桜さん、顔赤いね。オレ様とお揃いだ。寒くなったよねえ、まったくさあ」

 イイ男が台無しだよと言いながら、上杉は鼻を啜った。
 そうだねと調子を合わせ、僚はすぐそこに迫った正門へ少し足早に向かった。
 片手に握ったホット缶が火傷しそうに熱い。頬っぺたと同じくらい発火している。が、ポケットから手を出すとその拍子に口から要らぬ言葉が飛び出してしまいそうで、ぐっと堪える。
 ごまかしにお喋りになる自分を自覚している、そうなったら後でまたもっと恥ずかしくなるのを知っている。そうならないよう下手な事を口走らぬよう、僚は握り潰す勢いで手に力を込めた。
 いよいよ燃えそうに手のひらは熱く、ほてった頬からも火を噴きそうであったが、吹き抜けるひんやりした風に救われる。
 顔の熱も大分冷めた頃、ほんの少し、ミカンのプールもいいじゃないかと僚は思った。
 握った手のひらは熱く、それ以上に胸は高鳴っている。
 空はすっきりと青く、ミカンを転がしたような雲を浮かべて広がっていた。
 気持ち良く広がる空を背に、僚は校舎に入っていった。

 

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