チクロ
甘い重石
いただきますと手を合わせ、二人はほぼ同時に味噌汁を啜った。 その後にため息が続き、温まると呟くのも、同じタイミングだった。 「真似すんなよ鷹久」 「そういう君こそ」 ぱちりと目が合う。お互いもう口元はにやけていた。 僚はどうしても緩んでしまう口元を押さえて、精一杯すごんでみせた。 「なあんだよ、やるか?」 しかしそこに全く迫力などない、可愛らしい、無邪気な子供そのもののきらきらした顔に浮かぶ凄みは男を大いに和ませた。 「受けて立つとも」 男も同じように、何とか似せてすごんでみるが、どうにも声が震えて仕方ない。 むむとにらみ合うが、どちらの顔も笑いたいので一杯になっていた。 満ち溢れたおかしさはすぐに溢れ、二人は腹を抱えて笑い合った。 ひとしきり笑い、涙を拭って、それから思い思いに朝食を味わい始めた。 |
四月に入り大分暖かくなったが、朝はまだ冷え込む。今朝もそうで、二人はすっかり部屋が暖まっても布団にもぐったまま互いに足を絡め腕を回して、もう起きようかあと五分とくすくす笑い合った。 もうあと五分の後、まず男…神取鷹久がベッドを抜け出た。すぐに隣の少年…桜井僚も後に続く。並んで歯を磨き、一緒に着替え、それからどういう訳か先を競うようにキッチンに向かって朝食作りに取り掛かった。 ちょっとした競争になったのは他愛のない戯れだ。 一歩が大きい男に遅れまいと僚が先に出たのをきっかけに、男が追い抜かし、僚が巻き返し、接戦を繰り広げ最後は同着。 しっかり肩を並べてゴールしたが、僚は自分の方が早かったと言い張った。 にやにや笑う彼に、神取も負けじと不敵な笑みで応えた。 調子を合わせてくれる男の心地良さに笑いながら、僚はそういう事にしといてやると結んだ。 |
今日まで僚は休みだが、男は出勤日である。しかし午後からという事で、朝は一緒に取る事にした。 いつもならばたばたと忙しなく用意してあるものをかっ込み済ますところだが、ゆっくり過ごせるなら慌てる事はない。 昨夜の内に考えておいた献立を、二人で手分けして完成させる。 炊き立ての白飯の湯気、即席ながら具沢山の味噌汁の湯気、そして出来立てのオムレツの湯気。 そこに適当に葉物野菜を添え、何より欠かせない僚の好物、オレンジを乗せれば出来上がりだ。 オレンジをカットしながら僚は、男にいくつ食べるか尋ねた。 訊かれて神取はふた切れと応え、何気なく皿を見やった。思った通り残りは全て彼の皿に乗っており、それでもちょっと足りないかと語る横顔につい笑いが込み上げた。 「遠慮せず、もう一つ切るといい」 「いや、食べたいんだけどさ、……そこまでいっぺんに入らない」 さすがの彼も、いくら好物とはいえ底なしではないのだ。非常に残念だと僚は肩を落とした。 「これもこれも良いのだから、鷹久後で食べて」 両目から名残惜しさを溢れさせながら、僚はかごにある残りのオレンジを一つ二つと指差した。 彼の言う良いものとは、特別甘くて良いものの意味だ。彼には、それらを見分ける特別な能力がある。 なるほどと神取は頷き、三つほどをかごから取り出し、お土産だと小さな紙袋に収めた。 「いいよ、鷹久食べろって」 僚は突き返してくるが、目は嘘をつけない。極上の甘さが詰まった好物を食べられる喜びに満ち、輝いていた。 嗚呼、彼の表情は本当に素晴らしい。 この世にこれ以上の甘いものがあるだろうか。 「特に甘いのはどれかね」 「なら、これだな」 「ではそれを頂こう。残りは君が持って帰るといい」 「……うん、ありがと」 今度は素直に紙袋を受け取って、僚はむずむずするような笑顔で頷いた。持って帰るのを忘れないよう、すぐさま自分の荷物の所へ運ぶ。 神取は見送って、彼の背中一杯に滲む嬉しさに頬を緩めた。 |
ごちそうさまでした。 僚は控えめな声で手を合わせ、充分膨れた腹にほっと息をついた。 お粗末さまでしたと神取は返し、食べきった満足感と、食べてしまった悲壮感とに彩られた少年の顔をじっくりと眺める。 今しがた味わった、彼の特選オレンジとどちらが甘いかと思い悩むような、そんな顔をしていた。 ちらりと壁の時計を見やる。いつもに比べればゆっくりだが、そこまで遅いという事もない。出勤時間までまだ余裕がある、二人で過ごす時間はたっぷりある。 自然と頬がにやけてきた。 となれば、さっさと片付けを済ませてしまおう。 僚の方も同じように考えており、特に口に出さずとも行動の息が合う事に嬉しがりながら二人は席を立った。 神取は、思えばこの順番は彼から伝播したものだったなとぼんやり頭に過ぎらせた。自分はそれまでどちらかといえば家では鈍間な方で、こういった事はぐずぐずと後回しに面倒がっていたものた。 面倒な事はさっさと済ませてしまうに限る、そう行動するようになったのは彼の影響だ。彼がいる時限りで合わせるのはなく、普段でもそのように動くようになった。 始めは正直忙しなく感じたが、そうした分長く過ごせる良さを実感してからはそうせずにはいられなくなった。一秒でも長く一緒に過ごしたい、過ごせる喜びに突き動かされ、以前では考えられない素早さでてきぱきと後片付けを済ませる。 そのように自然と身体が動くようになったのは彼のお陰である。 食後のコーヒーを共に啜りながら、何の変哲もない食後を満喫する。 昨日の出来事、今日の天気、朝食について、話題はあっちこっちに行きつ戻りつ、お喋りは尽きない。 二人とも、少し身体を前に倒して相手に近付け、ひと言の聞き漏らしが無いよう、表情の見逃しが無いよう互いに集中する。 そうする事でお互い二人で身も心も一杯になり、次から次へ溢れるお喋りに全てが満たされていった。 何の変哲もない、とてもとても贅沢な時間。 男の携帯電話が鳴ったのは、そんな時だった。 |
男が通話を切ると同時に、僚はそれまでテーブルにぶつけていた視線を遠慮がちに向けた。 男の方も、彼が通話の中で気になる単語をいくつも耳にした事からそうなる事を予測していたので、安心させる為に通話の相手と内容をかいつまんで説明した。 半年ごとに受けている定期検査があり、今回もこれまで同様結果は良好だったので、こちらの健康状態をやたらに気にかけている悪友の須賀に連絡したのだ…聞きながら、僚は合間合間にゆっくり頷いた。 「今、連絡を寄越したのは兄の方でね」 そういえば、口調がいつもより丁寧で柔らかだったな。一番付き合いのある弟とはえらい違いで、もしも彼が聞いていたら、恐らくこんな顔で文句を言うのではないかと、僚はぼんやり想像などしてみた。 定期検査か。 やはり支社長ともなると、その辺厳しいのだろうな。 僚の独り言めいた質問に、神取は緩く笑った。 「ああいや、主に須賀一族に厳しく監視されているんだ」 男の表情に合わせて淡く笑った僚の頬が、監視の言葉にぎょっと凍り付く。 神取は一度軽く目を伏せ、もったいぶった口調で続けた。 「須賀の父母、兄、そして雅巳の四人から、常に監視されているんだ……冗談だ」 してやったりと口端を持ち上げる男に、僚は大きく飲み込んだ息を呆れた音と共に吐き出した。 まったく、なんだよもう…変なテレビの見過ぎだ。 僚はもう一度、首を左右しながらため息を吐いた。 彼が悪態をつくのももっともだと神取は詫びて、済まんと片手を上げた。 「監視というのは大げさだが、しかしそれに近いものがあるのは本当だ」 なぜそんなに心配されるのか、いずれ近い内に病気にかかる可能性があるというのだろうか。 僚は考えを巡らせ、しかしこれも男のひっかけではないかと半信半疑で目線を向けた。 「母親がね、少々厄介な病気で亡くなっていてね。遺伝するものではないのだが、全くのゼロという事はないだろうし、あるいは別の病気にかかる可能性だってある、という事で彼らは心配しているんだ」 病死したという男の母親に心を向け、僚は目を伏せがちに重々しく頷いた。 「何より、一番気にかけているのは自分自身だ。まだまだやりたい事成したい事は無数にあるし、何より、君と同じ時を一秒でも長く繋ぎたい」 一秒でもを特に強調する男に、僚はゆっくりと目を上げ、まっすぐ向かってくる強い瞳にそっと微笑んだ。 「そんな私だが、実はね、ずっと昔…数えるともう二十年以上も前になるのか。悩んだ事があったんだ」 「何をだ?」 「死のうかどうしようか」 |
目を見開いて絶句する僚に神取も一旦口を閉じ、ひと呼吸おいてから説明を始めた。 「母は、私が小学校に上がる前に亡くなった」母がこの世からいなくなった事実に、ひどく打ちのめされた「それから一年近く、思い悩んだ」 「死のうかどうしようかって……?」 空気が漏れるような密やかな呟きに、神取はそうだと頷いた。 僚は、どうしても震えてしまう唇をぐっと結んだ。 そんな頃に考えるにはあまりに大きく重い問題。 生きようか、それとも死のうかどうしようか。 いるはずのものが、いて当たり前のものが消えるというのは、そこまでの衝撃をもたらすのだ。 片方は、選べばすぐにそこで何もかも終わる。 楽なものだ。 もう一方は、選べば確実に苦しい道のり。 いつまでという期限もあやふや。 「九割九分、すぐ終わる方に心は傾いていた」 毎晩ベッドの中で、もういい明日こそ終わりにしよう、そう思いながら眠りについた。 僚は、どうしてか乾いてしまう目を瞬きで励まし、男の顔を見続けた。 「でも、生き延びる方を選んだ」 「ああ、生きながらえた。間際まで悩みに悩んだよ。どうせ生きるなら、自分がどこまで出来るか試そうと思っていたから。そういう性分だから」 ただ意味もなくだらだら生きる事は出来ない。どうせ生きるなら、とことん上を目指したい。中途半端はしたくないし出来ない。 「……そういう性分だから」 「そうだ」 ふっと息を抜いて笑う。 |
「なんで、その……すぐ終わる方を選ばなかったの?」 僚は幾分顔を斜めにして、陰から覗き見るように男を伺った。 「さっきも言ったように、須賀一族に監視されていたからさ。まあ半分は冗談だが……たった一つとはいえ、思いとどまる未練があったからだ」 彼らの存在は重石であり、拠り所でもあった。 とても暖かい彼らの存在は非常に憎たらしくて、同時に手放しがたかった。 単純に羨ましかった。 彼ら普通の家族が。 厳密に言えば普通とはちょっと違うが、充分普通の家族だ。 その普通の家庭に、家族に、端の方でも構わないから、関わっていたかった。 当時から今まで、変わらず交流にがある。よく物のやり取りをするし、何かの折にはどうしているかと連絡も来る。 高校を卒業してから渡英して長らく留学していた間も、色々と気にかけてくれた。 「九分九厘死に傾いていた心を、彼らは連れ戻してくれた。まあ、予想通り、生きる方は色々苦しくて歯を食いしばる事が多くて、ご覧の通りあちこち歪んだがね」 「でも、ずっと変わらないでいるって無理だし、皆どっかちょっとずつ変わったりしながら、生きてくんだよ」 言いたい気持ちが先走り、僚は駆け寄るように言葉を紡いだ。そして言ってからはっとなり、慌てて口を噤む。 「ごめん……余計な口出し」 血の気が上り、急激に下がる。どっと噴き出す嫌な汗に胸が苦しい。 自分よりずっと多くの事を経験している人間相手に、今更の言葉を口にした事が恥ずかしくて、泣きたくなる。 「いいや、余計だなんて思わない。こちらこそ、余計な気遣いさせて済まない。でも、嬉しいよ」 ありがとうとそっと手向ける。 そんな言葉を貰う資格はないと、僚は震えるように首を振った。 静寂が沈黙に変わる寸前、僚はおずおずと口を開いた。 「あのさ……俺も?」 「なんだい」 「俺の存在も、鷹久の重石になってる?」 男はゆっくり微笑むと、何度も何度も頷いた。 「ああそれはもう充分に。もし君という重石がなかったら、私という人間はあっという間に吹き飛ばされているだろうね」 簡単に風に飛ばされて、死の世界に行っていただろう。 だから、それだからないと困る。なくなったら困る。 「君は私の生きる意味だ」 ずっと端の方だった自分が中心になれた。 「君だって、私を重石にしているだろう? ふわふわとおぼつかなかった心がやっと落ち着いた。違うかね」 「違わない」 今度は自信を持って口を開く。 違わない。無いと困る。無くなったら嫌だ。 「同じだ。よかった」 にっこり微笑む男につられ、僚も頬を緩めた。 |
「君に幻滅されるのが怖くて、中々言い出せなかった」 「幻滅なんかするかよ」 見くびってもらっては困ると、僚は語気も荒く言い返した。 「それにそんな事言ったら、俺の方こそ…軽蔑される」 男ほどの理由もなく、家族や周りに甘えて反発して、下らないきっかけで堕落し挙句死にたくなった。男はそんな自分をそのままありのまま受け止め、理解し、導いてくれる。 「いや、私こそ、君を軽蔑なんてしない」 「ほんとか?」 「おや、疑うのかね」 「そんな…う、疑ってるのは鷹久だろ」どうせ子供だと思って…そりゃ、実際ガキで幼稚だけど、こういう事で誠実さを欠くような真似は絶対しない「嘘なんか言わない」 俺は幻滅なんかしない。 鋭く尖った眼差しはまっすぐ男を捉えて、今にも貫かんばかりだ。 男はぎゅっと唇を引き結んだ。 悪かった。 済まなかった。 「……知らない。許さない」 いつものおどけた口調とは明らかに違う響きを耳にし、神取は息を飲んだ。 何より眼差しの強さがまるで違う。 本気で怒っているのだと肌で心で感じ取り、即座に詫びる。 「どうか許してほしい」 僚は開きかけた唇を噤み、男からよそへ目をさまよわせた。 知るもんか。 このまま気まずい思いで会社に行けばいい。 「それは、……辛いな」 ぽつりと漏れたひと言が僚の胸に突き刺さる。言い過ぎた、強情だったと後悔がどっと押し寄せる。しかし、このこじれた糸をどうほぐして手繰ればいいのか、言葉を出しあぐねる。わかった、いいよ、なんて言葉では他でもない自分が納得いかないのだ。 こういうところがガキじゃないか。 なんで自分はこんなに幼稚なんだ。 昨日の祈りは嘘じゃないのに、何のバランスもとれてないじゃないか。 自分の情けなさに泣きたくなる。 考えて探して、そうする間にも時間は過ぎてゆく。 テーブルに置かれたコーヒーはすっかり冷め、それ以上に空気は冷え切っていた。部屋は充分に暖まっているが、どこから来るのかわからないしんしんとした冷たさが肌に沁み込んでくる。 無言のまま、出社時間が近付く。 こんなのは嫌だと、僚は心の中でぐるぐるとこねまわしていた。自分だって、こんな状態でアパートに帰りたくない。それはわかっているのだが、焦れば焦るほど頭は真っ白になっていく。 普段はほとんど聞き取れない時計の針の音が、今はやけに耳に響く。 やけに耳障りで、頭が割れそうだった。 |
いよいよマンションを出る時間が迫ってきた。 男は着替える為に寝室に向かい、一人残された僚はのろのろと帰り支度を始めた。今も変わらず光り輝くオレンジがやけに目に染みる。 無言のまま、二人で玄関に向かう。 その間も僚は、口を開くきっかけはないものかとあちこち探した。しかし何も見つけられず、男のきちんと磨かれた靴と、自分の履きなれた少しくたびれたスニーカーが目前に迫る。 男が靴を履くのを、僚は黙って見守った。 と、男が振り返る。 ぎくりと強張るが、頬に触れてきた唇はとても柔らかく、凍ったように硬くなっていた気持ちがいっぺんで溶けたように思えた。 一秒ほどのキスをじっと受け入れた僚は、唇が離れると同時にもう片方を向けた。 「……こっちは?」 片方だけじゃ寂しいだろ。 伏し目がちに言って、恐る恐る動かし男を見やる。 どこか面白がるような微笑に、無性にほっとする。 では、と男はそちらにもキスをした。 「こちらもいいかね?」 唇を指差す男に、そこは駄目だと首を振る。表情こそ変わらないものの、瞳に落胆が浮かんでいるのは明らかだった。笑いたくなるのを堪え、僚は言った。 「そこは、俺からするから駄目なんだ」 同じ事ではと目を見張る男に、違うと言い張り、僚は抱き付いて口付けた。 たっぷり一秒使って触れ合い、静かに離れる。 「では、次は私から」 「……うん」 提案を受け入れてくれた僚に嬉しげに微笑み、神取はしっかり抱き寄せた。 ごめん。 触れる寸前、ため息にも届かないほどささやかな音が零れた。 私こそ。 私の方こそ。 心からの謝罪を乗せて、彼に触れる。 重なった唇から溶けてしまいそうだ。 嗚呼この世にこれ以上甘いものがあるだろうか。 神取は、これから遭遇するだろう未知の甘味に脳をとろけさせながら、柔らかく触れるだけのキスに浸った。 |