チクロ

永遠はいらない

 

 

 

 

 

 すうすうとよく眠る少年…桜井僚の顔を、神取鷹久は近く見つめながら座っていた。
 膝には、読みかけのレシピ本があった。
 僚がわざわざ自分の為に買ってくれた特別な一冊で、彼の看病の傍ら目を通していたのだ。
 男はそれを静かに床に置き、少し伸び上がって少年の顔に近付いた。口元に耳を近付ける。呼吸に苦しそうなところはなく、ひゅうひゅうといった雑音も聞かれない。頬はまだほんのり赤く火照って熱がある事を示しているが、それも先ほどよりは大分引いていた。
 ひとまず安心してもいいくらいいは、彼の容体は落ち着いたようだ。
 神取は細く長く息を吐いた。
 朝、彼から連絡を受けた時は、文字通り心臓が口から飛び出すかと思った。石のように凍えぎゅっと縮まった心臓が喉元まで込み上げた。
 これから何日かは、あの声を思い出して身が竦む事だろう。
 その時は、この寝顔を思い出し和らげるようにしよう。
 神取はそう思いながら、静かに寝入る彼の顔を穏やかに見つめた。
 来てすぐの時は苦しそうな呼吸に喘いでいた彼だが、栄養を取り身体を休めた事で、随分収まったようだ。
 自分の顔を見て安心したのもあるだろう。そうだといい。
 神取はしばし見つめ、また本に戻ろうとしたが、ふと思い立ちその場に立ち上がった。
 すぐに戻るよと心の中で声をかけ、ぐるりと部屋を見回し、キッチンの棚を横目に見ながら洗面所に向かう。
 そこから浴室を覗いたりとあちこち見て回るが、物色というわけではない。
 胸にとあることが引っかかり、確認せずにいられないのだ。
 男が探しているのは、先日彼が語った死のうと思った残り香だった。
 しかし洗面所も風呂場も、どこを見ても生き生きと人生を謳歌する人間の匂いしかしない。
 収納場所が足りないせいもあっていささか雑然とした印象を受けるが、散らかっている訳ではなく、ほこりをかぶっている場所もない。きちんと整列した洗剤のボトル、手に取りやすいだろう位置に並べられた調味料、器具類、どこもしっかりと片付けられている。
 ゴミだらけだったなんて、想像もつかない。どこにもその名残は見受けられない。
 部屋に戻り、神取は再びぐるり見渡した。
 日々、忙しくも楽しく生活している高校生の部屋がそこにあった。
 適度に散らかり、整頓されて、その暮らしぶりが彼の人となりがうかがえる。
 良かったと、僚の寝顔を見ながら神取は胸を撫でおろした。

 

 とっぷりと日が暮れ、通りのあちこちの窓に一つまた一つと明かりが灯る。
 緩やかな坂道の途中にある二階建てのアパートの、一階の一番奥まった部屋からも、カーテン越しの白い光が零れた。

 

 外は冷たい風が途切れず吹いていた。しかし室内はしっかり温かく、テーブルの上には白い湯気が立ち上る一杯の丼があった。
 彼のリクエストによるもので、病人の弱った胃腸に合わせて男が作った、柔らかめのうどんだ。
 キッチンと部屋とを隔てる扉の隙間をすり抜けて、だしのいい匂いが届き始めた頃から、僚の腹はぐうぐうと騒がしい事この上なかった。
 ずっと寝ていただけなのによくも腹が減るものだと己に呆れながらも、僚はいつ出来上がるかと心待ちにしていた。
 ついに届けられた時、予想をはるかに超える美味そうな出来栄えに僚は瞬きも忘れ見入った。目から鼻から入り込んでくる卵の優しい色と匂いが身体中を包み込む。どんぶりからもくもくと上がる湯気で、まず腹一杯になる気分だった。
 実際口に含み、噛みしめて胃に収めれば、男の思いやりも相まって二重三重に満たされた。
 まだ、少しかったるさが残っていたので、全部食べきれるか心配であったが、この味ならばいくらでも食べられる気がした。この味は好きだ。
 いつまでも、ずっとずっと食べていたかった。そしてそれが出来そうに思えたが、気付けばどんぶりの中身はもうあと少しとなっていた。
 名残惜しさから口に運ぶ手も鈍り、男を心配させる。

「うん……もう、これだけだ」

 僚は残念さを唇に乗せてぼやいた。食べている時間がずっと続けばいいのに。ずっと幸せなのに。

「次の幸せを、待っていなさい」

 そう言って軽く笑う男に、僚は唇を尖らせた。

 

 食事をして、歯磨きを終え、用足しも済ませたら、速やかに寝る事。
 その言い付けを守り、僚は洗い物をする男の後ろを通ってトイレに向かい、また男の後ろを通ってベッドに戻った。後片付けから何から全て任せてしまう心苦しさから、渋い顔で寝床に入る。
 そこへ、男が戻る。

「出来るだけ出したところへしまったつもりだが、違っていたら申し訳ない」

 そんなのは気にしなくていいと、僚は首を振った。

「ありがと、今日はほんとに」
「いや、礼はまだだ。明日必ずつれていくという約束を、果たせてからにしてくれ」
「……うん」
「おや、行きたくなくなった?」
「違うよ」

 わかっていてとぼける男に僚は顔をしかめた。対して男は笑う。

「大分本来の君が戻ってきたね、嬉しい限りだ。これなら明日は大丈夫だな」
「……本当に?」
「それは君次第だ。私は絶対に連れて行くつもりだが、果たして君はどうかな」
「俺だって行くよ、行ける。絶対に」

 男は嬉しげに笑い頷いた。
 頬に触れてきた手のぬくもりに小さくため息をついて、僚はまっすぐ見つめた。安心感をもたらしてくれる男の微笑にしばし見入る。包み込むような温かさが本当に心地良い。
 また、ずっと続いてほしいと望む。
 しかしやがて手は離れ、今日の別れの時間が近付く。
 男はキスの代わりに頭を撫で、お休みと告げて、帰っていった。
 玄関まで見送りたかったが、男が絶対連れて行くと言った言葉に報いる為に、ぐっと堪えてベッドの中で手を振る。
 せめて、ドアを閉める間際にまた目線を寄越してほしかったのに、男はあっさり行ってしまった。
 仕方なく僚は、昼間の欠片を集めて目を瞑った。

 

 翌朝目覚めて一番に、僚は体温を測った。
 体温計の表示は、平熱を差していた。
 消す前にもう一度見て、僚は首の後ろを軽くさすった。
 昨日の今頃あった、腫れたようなかったるさがすっかり剥がれ落ちている。咳も出ないしもう喉も痛まない。
 しっかり食べてよく寝たお陰。何より効いたのは、男のあの特製蜂蜜生姜だ。
 男が来たらいの一番に報告しようと、僚は訪れを心待ちにした。
 やがてやってきた男は、自分の事のように喜んだ。そして安心した。
 これで約束が果たせると、大げさなくらい胸を撫でおろすのを見て、僚は発熱とは違う胸の痛みに見舞われた。
 朝は用意してもらったものを食べた僚だが、昼は病人食ではなくしっかり腹に溜まるものが食べたいとリクエストした。

「ふむ、そうだな。胃腸を悪くしたわけではないのだし、そう障る事もないだろう」
「いいかな」
「ああ。好きにするといい」

 男は微笑む。
 言葉はどちらかといえば突き放すものだが、言い方は限りなく優しかった。回復を喜び、安堵する声。僚もにっこりと頬を緩めた。
 しばし二人の瞳がまっすぐ向き合う。

 

「――以上で、買うものはいいかな」

 僚が口にする買い出しの品を書き付け、神取は最後に読み上げて確認した。

「うん、悪いけど、お願い」
「お安い御用だ。鍵は持って出るので、君はゆっくりしているといい」

 メモの紙片を折りたたんでポケットにしまい、神取はコートを腕にかけた。
 まだこの空間にとどまっていたかったが、彼の食べたいものを一刻も早く揃えて戻りたい方が勝り、アパートを出る。
 指定されたスーパーに向かい、大急ぎで買い物を終えた神取はアパートに戻った。
 ドアの前でふと考える。
 チャイムを押し、出てきてもらうのもいいかと思ったが、病み上がりにそれを望むのは酷だ。
 出迎えてもらいたいなんてまったく…自分ともあろうものが下らない妄想をするものだ。
 そう自重しながら鍵を開け、静かに中に入る。
 居室の引き戸を開けると、鍵の音で気付いていた僚がまっすぐこちらを見ておかえりと出迎えた。
 ただいまと返す口元が、緩んでしようがなかった。
 なんだ、こちらもまったく悪くないじゃないか。
 いいものじゃないか。

 

 嗚呼これで何度目だろうかと、神取はふと息を詰めた。
 これで何度、この瞬間が永遠に続けばいいと思った事だろう。
 小さなテーブルで肩を寄せ合い、同じどんぶり飯をかっ込む何でもない昼の時間が、このままずっと続けばいいのに。
 このままずっと、永遠に。
 そんな思いを、昨日からもう何度も思ってしまっている。
 それくらい貴重な、大切な瞬間。
 でも、そうしたら次の瞬間は永遠にやってこない事になる。
 これまでに何度も永遠を願った、彼の魅力的ではっとさせる表情に、二度と逢えなくなる。
 今ここで時を止めてしまったら、コンサートへの期待で輝く貌も、感動に潤む瞳も、知る事無く終わる事になる。
 無事約束を果たして、彼のまだ見ぬ瞬間を見る為には、永遠など望んでいる暇はない。
 要らないのだ。
 やはり永遠はいらない。
 二度とない瞬間を二人で折り重ねていく方がずっといい。
 今、待ち遠しいのは、後片付けをして綺麗になったこのテーブルにチケットの入った封筒を置いた時と、彼がチケットを確認する時の瞬間だ。
 早く逢いたいと願いながら神取は、ゆっくり刻まれる時を静かに噛みしめた。

 

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