チクロ
ティータイム
家庭科実習室の黒板にマグネットで貼り付けられた大きな白紙には、今回の実習で作るクッキーとマフィンの詳しい工程が書かれていた。 文字だけでなく、あちこちに図解が散りばめられているのは担当教師の趣味だろう。 きちんと色鉛筆で色付けされ、これからどういったものを作るのか、完成形はどんなものか、非常に分かり易かった。 作るのは、かぼちゃ入りのマフィンと、そのてっぺんに飾るバタークッキーだ。 マフィンの上に生クリームを絞り、模様を描いたクッキーをのせて完成。 授業の始め、それらの説明を受け、数人ずつの各班にわかれた2-4は早速作業を開始した。 |
調理台の上には、牛乳パック、十個入りの卵、小麦粉や砂糖の袋、ステンレスのボウルに計量カップにヘラや泡立て器といったものが、所狭しと置かれていた。 調理台を囲んで、エプロンと三角巾をつけた六人の男女が各々作業にとりかかっている。 牛乳やバターを計量するもの、粉を振るうもの、混ぜ係…それぞれ忙しく立ち働いていた。 僚もその一人として、同じ班になった稲葉らと作業の手順や分担について話し合う。 |
「ふうー、じゃ次アネゴ、よろしくぅ!」 上杉はかき混ぜていた手を止め、黛にバトンタッチした。 上杉の手から泡立て器を受け取りながら、アネゴはやめなといつも言ってるだろう、黛が零す。しかし上杉は懲りずに白い歯を見せにっと笑い、姐さんよろしくぅ、と軽口を続けた。 まったく、と、いつものやりとりなのでそれほど本気ではない黛は泡立て器をしっかり構えると、力強くバターをかき混ぜた。 始めは黄色かったバターは、空気を含んで段々と白っぽくなっていく。 そこに分量の砂糖がざばりと加えられ、黛はより気合を入れてすり混ぜた。 途中で再び戻った上杉は、ぬおお、と雄たけびと共にぐるぐる勢いよく手を動かし、動かし続け、これ以上は無理だというところでふうと一気に脱力した。 そして、隣で卵を攪拌している僚に混ざり具合を確かめた。 「桜さんどお? 表にあるふわふわって、こんな感じ?」 上杉は泡立て器を握り直すと、ボウルの底からすくうように砂糖まじりのバターをならした。 「おお、すごいじゃん上杉」 「おっけ? よし、桜さんのお墨付きもらいました」 調理実習の際はいつもこうして、何かと頼られる事が多かった。 アパートに一人で暮らし、日々の生活で自分の面倒をしっかり見ているからか、尊敬の念を込めて見つめてくる彼らに頼りにされるのは、嬉しさよりもむず痒さや困惑の方が大きかった。 去年は怒りむかつき羨みが大きかった。 実家を出る前にひと通り習ったとはいえ、長年台所を預かってきた人間と自分とでは圧倒的に年数が違う、経験も浅い自分などはこの調理実習の時間で初めて知る事学ぶ事も多く、だのにみんなして「桜井に聞けば完璧、桜井に任せれば安心」などと言ってくるものだから、困ってしまう。 色味の良い弾む声に乗せられ調子づいて、その度にまだまだ勉強不足なんだと自省し、繰り返している。 そうこうする内に卵が程よく混ざり合う。 向かいで蒸したかぼちゃを潰していた綾瀬に顔を向けると、意外と言っては何だが丁寧な作業のお陰で滑らかなペースト状に仕上がっていた。 椅子に座る際足で引き出したり、大きな身振り手振りがたまに人にぶつかったり、言葉遣いや立ち振る舞いは色々とがさつな面があるが、授業はきちんと受け、実践するタイプである。 外見で眉をひそめられる損をしているが、実際に距離を詰め付き合ってみると綾瀬は義理堅く情にあついタイプだ。いい人間だ。 それが、こういった仕事ぶりにもよく表れている。 ちゃらんぽらんに見えて、中身はそうではない。 去年の自分とは、正反対だな。僚はそんな事をぼんやり頭に過ぎらせた。 「桜さん、たまご、いつでもオッケーすよ」 混ぜるのは任せろと、上杉は合図を送った。 僚は目を瞬いて今の時間に立ち返ると、右利きの上杉の邪魔にならぬよう左側に立ち卵を用意した。 |
バターをよく練り混ぜ、砂糖を加えてすり混ぜ、よく溶いた卵と、ペーストにしたかぼちゃと、真っ白な牛乳と真っ白な小麦粉を順番に混ぜ、出来上がった生地をマフィンのカップに流し入れて、オーブンで焼く。 庫内でじっくり熱せられるマフィンの焼き上がりを待つ間に、先に焼いてよく冷ましておいたバタークッキーに、ハロウィンならではの絵を描いていく。 クッキーの形は様々で、定番のかぼちゃ、おばけ、こうもり、そして星形に丸形があった。 |
「じゃあさっき言ったように、枠線はオレが書くから、オマエらは中を埋めてってくれ」 トレードマークであるフロストのニットキャップを黄色い三角巾に変えて、きちんとエプロンも着込んで、やる気十分の眼差しでマークは右手を構えた。 そこには、粉砂糖を水で溶いたものがつまったペーパーが握られていた。 「おし、任せろまーくん。でもはみだしちゃったらごめんちゃい」 応える上杉の手にも、同じように水溶き粉砂糖が握られている。中身はどちらも砂糖のままの優しい白。 クッキーの抜型は数に限りがあるという事で、くじ引きで割り当てが決められた。 彼らの班が引き当てたのは星形と丸形で、星形はまだしも丸形はどのように模様付けしようかと頭を悩ませたが、稲葉はいち早く声を上げ、ひとだまおばけにしないかと案を出した。 ノートに描かれた下書きは中々可愛らしいものだった。ひゅ〜どろどろどろ〜とお馴染みの効果音と共に現れるあのひとだま、単純な姿かたちだがきちんとハロウィンらしくもあるしと、みな一発で賛成した。 早速作業が始められた。 いつもはスプレー缶を握る手に小さな絞り袋を携え、稲葉は眉間にしわを寄せた真剣な顔で小さなクッキーに挑んだ。 普段は大雑把でガサツ極まりないが、意外と手先が器用で細やかな作業が得意な稲葉は、よどみなく一筆でおばけの枠線を描いてみせた。 すごいじゃん、と目を丸くする綾瀬にまんざらでもない様子で眉を上げ、稲葉は次のクッキーに取り掛かった。 稲葉から回ってきたクッキーを、上杉は更に真剣な面持ちで睨み付けた。枠線の中を塗り潰すだけ、というが、対象は小さく、つい手が震えてしまう。もっと気楽にと自分に言い聞かせ、上杉は絞り袋を握る手に力を込めた。 塗り潰しが上手くいったら、最後に目と口を描いて完成だ。 僚はその目と口を担当した。 その隣と向こうで、姫野とゆきのが同じく目と口を入れ、調理台を挟んだ向かいでは、綾瀬が星形のクッキーに色付けをしているのが見えた。 他の班も、クッキーに色付けの作業をしていた。 あっちからこっちから、意外と難しい細かな作業に四苦八苦してきゃあきゃあと歓声が聞こえてくる。 |
それらに惑わされる事なく、稲葉は買った役を淡々とこなしていった。 始めからクッキーの抜き型がおばけやかぼちゃの形になっていたら顔を描くだけで完成だが、残念な事にくじ引きで丸型を引き当ててしまったのだ。 こうもりやかぼちゃといった抜き型は他の班に持っていかれた。 そこで火が付いたのが稲葉だ。 丸いからとかぼちゃにいかず、おばけを描こうと張り切った。 そして実際、その作業は中々に順調な進み具合を見せている。 よその班は形が有利でありながら、それゆえ苦戦しているようだ。 へたくそ、なにそれ、意外と難しいんだよ。 聞こえてくる不満の数々をよそに、稲葉はすいすいとおばけの輪郭を描いていった。 |
僚も、稲葉の下書き通りのにっこり顔を再現しようとするのだが、どうも上手くいかないでいた。 笑う口がにっこりではないように思えて仕方ないのだ。 「そうかな。桜さんのそれ、桜さんらしくていいよ」 上杉は素直な感想を口にした。 自分でも、悪くはないとは思う。 意地悪な顔、嫌な表情ではないので、これはこれで中々だと思っている。 しかし、稲葉の描いたような無邪気で可愛らしい感じが再現できないのが、もどかしかった。 そう、もどかしい。 自分では同じようになぞっているつもりだった。だというのに同じにならない。ほんのちょっと、もうあと少しが、異なるのだ。 悪くはないが、違ってしまうのが悔しい。 目と目の間、目と口の位置、半円の口の形。 これくらい、誰がなぞっても同じように出来る簡単なものなのに、簡単ゆえにほんのわずかなずれで印象は大きく変わってしまう。 目と目の間がほんのひとすじ離れただけで、別物になる。 それとも考えすぎ、こだわりすぎで、別物に見えているだけだろうか。 「桜井のそれ、カッコいいってカンジ」 綾瀬の感想に、見物に来た園村や桐島が同意する。 ますますわからなくなった。 眉毛があれば、可愛いとカッコいいとの違いが出るだろうが、この単純な点と線でそのような違いが出せるだろうか。 これも違う、これでもない、首をひねりつつ一つひとつ描き上げ、何度も首をひねる内に、手分けした作業は終わりを迎えた。 あとは、ホイップクリームをマフィンのてっぺんに絞り、クッキーを貼り付ければおやつの完成だ。 |
調理に使用した器具を洗う者と、試食に向けて紅茶を入れる者にわかれて、調理台を整理する。 作ったおやつは班の中でそれぞれ交換し、自分の作ったもの、みんなの作ったものを紅茶と共に頂く。 各自席に着き、号令と共に試食会が始まった。 僚の前には、自分が描いたおばけがあった。 交換しようとの声はいくつかあったが、自分の失敗作は自分で食べるよと、上手く言いくるめて、誰とも…誰にも、渡さなかった。渡せなかった。 渡したくなかった。 後始末の洗い物の最中に、何の脈絡もなく頭を過ぎり、気付いてしまったからだ。 クラスメイトの下書きを真似ようとしながら、自分が何を誰を思って顔を映していたか、気付いたのだ。 いつもこんな風な眼差しで見つめられている、こんな感じの笑顔を浮かべている、誰か。 実際の顔であり、もっとほしいと欲張る気持ちから生まれた点と線。 理解した瞬間、恥ずかしさを口から解き放ちたい衝動にかられた。 何かしらの音声で喉を震わせ発散したくなった。 かろうじて抑え込み、呑み込み、それからずっと、耳の付け根から首の後ろから熱くて仕方ない。 さっさと食べて飲み込んで、自分の一部にしてしまおう。 ああどうして、何故もっと早く気付かなかったのだろう。 それほどまでに自分の頭の中は、あの男で一杯になっているという事か。 頭の中をぐるぐるごうごう巡っている事さえ気付かないほど、それが当たり前になってしまっている。 常にあの男と共にあって、それが当たり前で、意識すらしないなんて、恥ずかしいにも程がある。 僚はマフィンの上にのったクッキーとちらりちらりと目を見合わせた後、ひと口に放り入れ思い切り噛み砕きごくりと飲み込んだ。 |