チクロ

お休みの前に

 

 

 

 

 

 風呂場に向かう時はいくらかふらついていたが、湯船に浸かってのんびり身体を温め、疲れを全部洗い流したお陰で、出る時はすっかり回復していた。
 すっかり身体も軽くなり、心地良い眠気がふわふわまとわりつくのを嬉しく迎えて、桜井僚は男に促されるままリビングのソファーに身を沈めた。
 寝る前の温かい一杯を作るからと、男はキッチンに向かう。その背中にありがとうと投げかけ、僚は手荷物の斜め掛けを膝に乗せた。
 キッチンから届くかちゃかちゃと食器の触れ合う音を聞きながら、中身の整頓を始める。
 明日の朝、男の出勤に合わせて帰るのに、準備の為だ。帰り間際になってあれがないこれがないとばたばたしたくない。忘れ物はないか各ポケットを見て回り確認する。
 そういえば、桜の花びらをしまう時も気になったが、内ポケットのこの膨らみって何だったか…僚は心の中で軽く首をひねった。
 不要な紙を丸めてひとまず押し込んだのとは違う、細長い何か。
 はて、何を入れたのだったか記憶をたどりながら見ると小さな紙筒があり、カラフルなそれを目にしてああそうだと思い出す。つい先日、駄菓子屋のゲームで当てた景品だ。

 

 いつもの面々と学校帰りに寄った際、まず上杉がゲームに挑戦し、稲葉が助っ人に入り、苦戦しつつもあと一歩まできたところで、最後の一手を任された。
 ハズレでも恨みっこなしだと念を押し、軽い気持ちでレバーを弾くと、十円玉は綺麗に『アタリ』の枠に吸い込まれていった。それまでも騒がしく盛り上がっていた二人の声は更に大きくなり、右から左からねぎらいの肩たたきを受けた。
 景品口から出てきた当たり札は一番金額の大きい大当たりで、同じ金額の菓子どれでも好きなものと交換出来るとの事だった。
 お前の功績だからと菓子選びを任され、それならみんなで分けられるものをと選んだのがこれだ。
 小さな紙筒一杯にチョコレートが詰まっているそれを、その場でみんなで分け、残りをもらった。
 あと十もないくらいだったと記憶している。
 果たして中身はその通りで、僚は、男ともささやかながら当たりを分け合おうと、残りいくつか数え始めた。

 

 そこへ男が戻ってくる。ふんわりと爽やかな香りのする紅茶が振る舞われ、僚はありがとうと顔を向けた。

「鷹久も食べるだろ。あげるよ」
「ほう、チョコレートか」
「うんそう、好きか?」
「チョコはなんでも好きだよ。もらっても?」
「もちろん、半分こな」

 よかった、食べかけの残りで気を悪くするかと思ったが、杞憂だった。僚は手のひらに一つ転がし、ふたを開けた紙筒を男に寄せた。男は隣に座り、向けられた紙筒をじっと見つめた。

「これ、たまに食べたくなるんだよな」

 温かみのあるオレンジ色の丸く平たい粒に目を落とし、僚は小さく笑う。
 最初からボリボリ噛みしめて食べる事もあれば、じっくり舐め溶かす事もある。

「美味しいよ」

 そう言って口に放り込もうとしてやめる。男がじっと紙筒を見ているのに気付いたからだ。見たきり、男は動かない。
 食べると言ったが、やはりこういうのは好かないだろうか。でも、目も口元もとても嬉しそうだ。
 チョコレート菓子は男も好物で、このメーカーの物は嫌いでないはずだが。
 どうしたものかと僚は手のひらの粒を口に入れ、思案する。
 と、それを待っていたかのように男が動いた。手は紙筒ではなく僚の頬に向かい、両手でしっかり包み込むように固定すると、顔を寄せた。
 ぼりっと豪快に噛みしめようとしていた顎はぴたりと止まり、僚は目に小さな驚きを湛えて、近付いてくる男をじっと見つめた。
 男は唇を塞ぐと、舌で僚の口内を探り丸く平たい粒をさらっていった。表面が少し溶けてざらつくそれを、舌の上でじっくり味わう。
 とられた事に気付いた僚は、口付けたまま口の端で笑い、男の肩を両手で掴むと取り返しにいった。
 糖衣で包まれたチョコは、すぐには溶けない。
 何度も二人の間で送って送られてする内に、とろとろと甘く苦い粒が溶けていく。
 僚はいまやしがみつくようにして男に抱き付き、男も同じように年若い身体をかき抱いて、夢中でチョコを味わっていた。
 舐め溶かす舌に、息遣いに、頬に触れる手の熱に、そしてチョコレートの甘さに、二人は酔っていた。
 吐息は馨しく、舐める音は卑猥で、熱さと甘さに身も心も骨までとろけてしまいそうだった。
 しばらくそうしてやりとりしながら、溶けていくチョコを二人で味わう。
 口の中で溶けているのは、まるで自分たちのように思えた。
 互いの灼熱に溶けて一つに混ざり合っていくような錯覚に、身震いはいつまでも止まらなかった。
 溶けてなくなったチョコの残る舌をお互いいつまでも舐り、その果てに満足して、口を離す。

 

 僚はぼんやりと潤んだ目で、静かに離れていく男を見送る。唇は濡れて光り、艶めかしく、小さく開かれたそこから吐き出される息遣いに頭の芯が熱く眩んだ。

「……もう一つ食べるか?」
「いただこうか」

 応じる声に僚は薄く笑い、紙筒に手を伸ばした。手のひらに転がした一粒を指に摘まみ、男の口に持っていく。残りはあと五つ。五つ分の時間に足元からとろけていくようで、自然と呼吸が上がる。

 

 二人で分け合って空にしたチョコレートの紙筒を屑籠に入れて、冷めてから一気飲みした紅茶の器を洗って、リビングの電気を消して寝室の洗面所に向かい、仲良く並んで歯を磨き、二人は一緒に寝床に入った。
 静かに落とされた灯りの後にお休みなさいと交わし、眠りにつく。

 

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