チクロ

覚悟しとけよ

 

 

 

 

 

 起きたばかりの時は、雨はパラパラと舞い散るくらいの弱さだった。
 間もなく降り止むように見える空模様に、桜井僚は軽く唇を曲げ、朝食の支度に取り掛かった。
 その合間に男へおはようのメールを送り、今日の予定を組み立てつつ朝食を済ませる。
 食べ終わる頃ふと気付くと、雨は本降りに変わっていた。
 しっかり窓を閉め、テレビもついているのに、結構な雨音が時折部屋の中に響いてきた。
 小さくため息をついて立ち上がり、開けた窓から空を見る。
 風がないのが幸いだが、どことなく肌寒い。昨晩予定していた上着はやめ、もう一段厚めの物を用意する。
 今日は男と一緒に買い物に行く予定で、大半は車の中で外を歩く事はそうないが、油断は禁物だ。
 せっかくの楽しい時間、寒さを我慢することにばかり気を取られたくない。
 まあでも…寒いからと男にくっついてべたべたと過ごすのも、そう悪くないかな――なんて、恥ずかしい妄想を過ぎらせる。
 後片付けに続いて、部屋の掃除やら整頓やらに取り掛かる。
 雑誌類が大分積み重なってきたので、次の収集日に出そうか。
 冷凍庫の中身は今のところ問題ない、明日の朝はあれとこれを組み合わせて、弁当にはこちらを詰めよう。
 そうこうしている内に男が迎えに来る時間が迫ってきた。
 今の内にやれる事、やっておくべき事はひと通り済んた。あとは、時間になるまでそわそわ過ごすだけだ。
 毎度の通り、僚は準備の出来た身で椅子に座ったり時計を見たりと、落ち着きなく過ごした。
 この、もうあと少しという時間の、なんと気持ちの踊る事か。
 一緒に過ごしている時とはまた違った浮き立ちぶりが、鬱陶しくも好きだった。
 僚は時計を見やり、ゆっくり動く秒針をじっくり目で追った。
 テレビは消してあり、ただ雨の音だけが遠くの方で聞こえる部屋の中はしんと静まり返り、少しじりじりとした時の中、僚は携帯電話が鳴るのを待った。

 

 

 

 大半は車の中だとしても、全く外を歩かない訳ではなく、雨に濡れた時の為にと小さなタオルも用意して万全の準備を整えたが、それの出番は無かった。
 男は、人の…特別な人の世話を焼くのがとりわけ好きだ。
 本来なら傘を差しかけられる立場でありながら、従者のごとく傘を差し向け、細やかに気遣い心を配る。
 そうされる方はたまったものではないと、僚は、いくらか慣れたとはいえやはりかしこまってしまう場面場面に苦笑いを零した。

「ありがとう」

 礼を言う口が少し強張る。無理もない、助手席にでんと座って、置いた足の裾を、丁寧に拭ってもらっているのだ。アパートからいつもの待ち合わせの場所までほんのわずかな距離で、雨の降りもそう大した事は無いからほとんど濡れてはいないが、風邪を引いてはいけないと、男は気を配る。
 それくらいなら自分で出来るし、こんな扱いを受けるほどの大した身分でもないのに、むしろ逆だろうに、男はそれはそれは嬉しそうに顔をほころばせるものだから、僚はますます肩に力が入った。
 これでいいと手が引っ込んで、ようやくほっとする。
 恥ずかしいし、参ってしまうし、やはり慣れない。いつまで経っても慣れ切ってしまう事はない。けれど、身の置き所のないこのむず痒いひと時は、嫌いではない。

「ありがと」

 もう一度礼を言う。さっきよりは自然に口から出せた。
 さあ、では行こうかと男は笑顔を見せる。僚も笑みを返し、より気楽に助手席に収まって、発進に備えた。
 降りしきる雨の中、車は目的地に向かって走り出した。
 雨足は更に強まり、拭い去るワイパーも大忙しだ。
 ひっきりなしに動く様をぼんやり眺めた後、僚は運転席の男を横目で見やった。
 悪天候という事で、いつも以上に神経をとがらせているようだ。
 ただでさえ怖い顔が、更に引き締まって実におっかない。
 気難しい、気分屋のような貌だ。
 でも実際は違うのだ。
 それを自分は知っている。
 よく知っている。
 僚は正面に目を戻した。
 運転中の男って、何とも言えずカッコいいよな――と思ったからだ。
 いつ見てもカッコいい。いつ見ても見惚れる。
 でもあんまりあからさまに見るのは駄目、見てるの見られるのが気に食わない。
 そうだ、別に、見惚れてなんかいない。
 ワイパーがぬぐい取る雨の向こうの景色を睨み、僚は心の中で違う、違うと繰り返した。
 誰にあてたものだろう、実に馬鹿な言い訳だ。
 それにも違うとぶつけ、じっと正面を見て固まる。
 いつも以上に慎重な運転は充分に車間距離を取り、ゆっくり進んだ。
 やがて踏切が見え、丁度電車が通過という事で車は静かに止まった。
 日常であまり踏切に遭遇する事がないせいか、僚は物珍しさから警報機の音に耳を傾け遮断機に注目した。
 電車が来る方に顔を向ける。
 ちょうど、運転席側だ。
 男に顔を向ける形になったが、全く意識はなかった。
 土砂降りの雨をものともせず、電車は雨を風を切り轟音と共に走り抜けていく。
 中々の迫力だと見入っていると、ふと顔に影がかかった。

「!…」

 接吻はほんの一瞬の事で、触れたと思ったらもう離れて、男は運転席に戻っていた。
 電車はまだ彼らの前を通過していた。

「お……い! 昼の街中でなにしてんだ」

 僚は慌てふためき、窓の外をあちこち見回した。大雨で出歩く人の影は少ないが、全くない訳ではない。あちらに一つ、こちらに一つ二つ、黒やえんじの傘の彩りが見える。

「いや、して欲しそうな眼をしていたから。違ったかな」
「いあ、え……違うけど!」
「そうだったか」
「そうだよ、まったく、油断も隙もないな」

 睨み付けるが、男はにこにこと笑うばかりで効き目がない。恥ずかしさや怒りやらにおろおろするばかりの自分が腹立たしいと、僚はぎりぎりと歯を食いしばった。
 隣の男は、いたずらが成功したと実に嬉しそうな顔をしている。憎たらしいけど、そんな姿さえカッコいい。さっきまでの仏頂面が嘘のようだ。まるで別人だ。
 それがまた腹が立つ。
 反対側からも電車がやってきて、二人の前を通過する。

「誰かに見られたらどうすんだ」

 刺々しい声をぶつけるが、男はさして表情も変えず言った。

「大丈夫、みんな雨に気を取られて見てないさ」雨に体温を奪われやしないか、ひやひやしてるからね「私も、少々寒く感じて、人肌が恋しくなってしまったんだ」
「……ほんと、油断も隙もない」

 寂しがり屋はこれだから。
 呆れるしかない。
 僚は大きく息を吐いた。
 警報音が途絶え、遮断機が上がる。
 男は慎重に車を発進させた。
 僚は密かに横目で伺った。またあの、気難しい顔に戻っている。しかしどことなく楽しげで、収まりかけていた怒りがぶり返しそうだった。
 怒っても仕方ない。男はタイミングを見極めるのがとにかく上手で、絶対にヘマなんてしない。今のだって、絶対の自信があるからいたずらを仕掛けたのだ。
 見事に成功、誰もこちらに気付いてはいないし、自分だけがあたふたと赤くなって青くなって、充分に楽しめた事だろう。
 嗚呼なんて忌々しい――いい男だろう。
 悔しいが男のそういうところも自分は好きなのだ。
 まったく、隣で一人赤い顔して、馬鹿みたいだ。

「そろそろ着くよ」
「うん」

 男からの声掛けに、僚は窓の外に顔を向けたまま低く唸った。男の方を見ないが、男がこちらを見る気配が感じられた。そして、男が次に何を言うか、予感があった。

「もし、帰りも踏切でつかまったら、もう一度キスしてもいいかね」
「駄目」

 予測通りの男の発言を、僚は即座に断ち切った。
 予感があったのだ。男の性格ならそう言うだろうと、まだまだ楽しむだろうと。だから準備していたお断りの言葉を口にする。
 男は運転席で軽く肩を竦めた。

「おや、機嫌を損ねてしまったか。ちょっと悪戯が過ぎたようだ」

 確かに機嫌を損ねるほど過ぎた悪戯だったけど、断ったのはそのせいじゃない。

「その時は、俺からするからダメ」でも踏切とは限らない「鷹久は、いつどこで奪われるか、びくびくしながら待ってろ」

 ついにやけてしまう口元を引き締めながら突き付けると、代わりというように男は口端を緩めた。

「……承知した」

 そんなちょっとした表情にさえ目を奪われてしまう自分が情けないと、僚は小さくため息をもらした。
 まあいいさ。
 一回だけとは限らないからな、覚悟しとけよ。
 こっちだって、そっちに負けないくらい想ってるんだ。
 全部ぶつけてやる、全部、全力で。
 嫌というほど思い知らせてやるぞと、僚は密かに野望を滾らせた。

 

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