チクロ

恥ずかしい男

 

 

 

 

 

「あーあ、結局鷹久のせいで、ゆっくり出来なかった」


 後ろからついてくる軽やかに弾む声に、神取鷹久は彼から見えないのを良い事に思う存分頬を緩めた。言葉だけ見れば責めてくるものだが、声の響きは甘える時のそれで、とても愛くるしい声音に顔だけでなく身体じゅうが緩んでしまいそうだった。

「お詫びの印に甘いココアを用意するから、そこに座って待っておいで」

 はあい、何とも気の抜けた低い声で桜井僚は頷き、反省会にと用意した五線譜と筆記用具を手にダイニングのテーブルに落ち着いた。
 神取はその様子を、そうとは気付かれぬようキッチンから注意深く見守り、彼の身体のいずれかに異常がないか目を走らせた。
 僚は、特に気にする事なく着席し、ゆったりと足を床について、背もたれに一旦寄り掛かった後、五線譜を開き何事か確認を始めた。
 見る限りでは、これといって痛みが残っている事はないようだ。神取はほっと肩を落とし、反省会の準備を手早く進めた。
 出来上がったココアにちょっとの茶菓子を添えて、テーブルに置く。どうぞとすすめると、わーい、いただきます、何とも愛くるしい声で僚は手を伸ばした。
 カップからほかほかと立ち上る湯気も一緒に、僚は少しずつココアを啜った。
 小さくもれるため息に、神取は頬を緩めた。
 僚は次いで茶菓子を一つ摘まみ、まず半分齧った。甘いココアに合うシンプルなビスケットで、噛みしめるほどに味わいが広がっていくのが何とも心地良かった。
 楽しんでいると、じっくり視線を注ぐ男に気付いた。残り半分を口に入れるところだったが先送りにして、僚は目線で問いかけた。
 神取は一拍置いて口を開いた。

「いや、ますます頼もしくなったなと思ってね」
「……そうか?」

 鏡を見ていないのでわからないが、恐らくかなりたるんだ顔でココアとビスケットを楽しんでいたはずで、頼もしいにはほど遠い顔だったと自分では思うのだ。過ぎた称賛だと、僚は苦笑いで首を振った。

「そうさ。ますます惚れる」
「んん……」

 嬉しい、嬉しくてたまらない。しかし自分はそういうのを、素直に嬉しがるのがちょっと苦手だ。

「そんなじろじろ見たら、縮むだろ。見んな」

 僚は軽口でごまかし、手にした残り半分を口に放り込んだ。

「そんな冷たい事を言わずに」
「だめだ、見るな」

 男の声がちょっと芝居がかったのに乗っかって、僚もまた声色を変えて厳しめに言った。

「ああ、振られた」

 たちまち男は声を震わせ、片手で額を押さえ首を振った。
 いつもながらの演技派だと、僚は笑い混じりに言う。

「そんな……そこまでは」
「はあ……なんだかココアも、苦く感じる。そうか……これが失恋の味か」
「もう、何言ってんだよ鷹久」

 何その一人芝居、変なの、とからかう口調の僚だが、心底疲れ切った切ない響きで綴られ、ほんの一瞬だが胸が痛んだ。ごまかす為に、わざと大げさに滑稽な顔をしてみせる。

「しょうがないからじゃあ、わからないように見るならいいよ」

 照明の具合でそう見えるだけだろうが、顔にかかる影の濃さやらも手伝い、男は嘆く人になってしまった。すぐさま僚は言葉を重ね、条件を出した。
 すると男は椅子に横向きに座り、ちらちらと横目で見やってきた。わざと大きく目を見開いているので、目玉の動きがよくわかった。
 さすがに笑いが堪えきれず、僚は小さく肩を震わせた。

「それ、全然わからないじゃない、すごくよくわかる」
「駄目かい?」
「だめだめ、そのやり方もバレバレだよ、もう鷹久、どんだけ見たいんだよ」

 笑いで咳込みながら、僚は右へ左へ首を振った。テーブルに肘を乗せ、男へ軽く人差し指を差し向ける。
 神取は身体の向きを戻すと、困ったように微笑んだ。

「そりゃ、ずうっと見ていたいさ。朝も、夜も、寝ている間もずっと」
「!…そういう事言うの……」

 急に喉が詰まったようになり、僚は息を飲み込んだ。まっすぐ向かってくる男の視線は感情がこもり、まるで曇りもなくて、不意に恥ずかしくなった僚は身体を横向きにして男から視線を逸らせた。
 胸が熱い。痛い。
 いちいち、かきむしりやがって。
 本当に憎たらしい男だ。
 そんなような事を、尖らせた唇の先でブツブツと零す。
 聞き取りづらいそれらを男は丁寧に拾い上げ、にっこり笑った。

「明日もあるよ」

 穏やかな男の視線にまたも恥ずかしさが込み上げ、積み重なり、どうしてよいやらわからず僚は忙しなくあちこちを見た。

「明日も一緒に頑張ろう」

 男の声は優しく響き、肌から沁み込んで骨身に届いて、僚を包み込んだ。
 僚は控えめに顔を向け、小さく頷いた。

「……うん」

 また明日も男と一緒に練習出来ると思うと力が湧き、笑いが込み上げて、それはそれはとても幸せな気持ちになった。
 身体におかしな力が入っていた事に気付き、僚は肩の力を抜いた。自然と手がカップに伸びる。

「ココア、美味しいね。ありがと」
 明日もよろしくね

 静かに告げると、男の顔に嬉しそうな微笑みが浮かんだ。

 

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