チクロ

全然わからない

 

 

 

 

 

「今朝はまた一段と寒いねえ」

 玄関を出たところで肩を竦め、神取鷹久はふうと息を吐いた。

「ほんとな。大丈夫か、鷹久」

 振り返って同じように首を縮めて、桜井僚は軽く足踏みをした。
 一階に降りていたエレベーターを呼び、二人で乗り込む。
 扉が閉まったところで、神取はふっと微笑んだ。

「平気だよ、君のくれたマフラーがあるからね」
「そか、よかった」

 男は心持ち胸を張り、襟を彩るマフラーを示した。その姿勢はまるで、いいだろうと自慢しているようで、僚はむず痒そうに笑った。自分の贈ったマフラーをそうやって喜んでもらえるのは、本当に嬉しい。

「ただね……」
「なに、手か? 手袋は?」

 僚は忙しなく目を動かし男の格好を確認した。手袋はしているし、襟も足元も万全のようだが、どこか隙間風があるのだろうか。
 心配する僚に軽く首を振り、神取は深刻そうな顔になった。

「いやね……君を抱きしめたら、もっと暖かくなるだろうなと」
「な、に言ってんだ、こら」

 突拍子もない発言に詰まる喉を何とか振動させ、僚は短く叱りつけた。
 神取は悪びれる事無く続けた。

「君と二人で抱き合って、互いに暖を取るんだ。だめかい」
「もう……駄目に決まってるだろ」心底呆れたと首を振る「監視カメラで見られて、変質者だって通報されて、ここに住めなくなったらどうすんだ」

 僚は横目に睨んだ。そして、先日エレベーター内で男がしたいたずらを持ち出して続ける。あの時のキスのだって、結構ヒヤヒヤしたんだ。一瞬だったし、一回くらいなら勘違いだと見てもらえると思って、なるべく考えないようにしてるのに。
 神取は一度大きく肩を上下させた。

「そいつは済まなかったね。確かに、ここを追い出されるのはつらいな」
「だろ、もし追い出されなくても、恥ずかしくて俺もうここ来ないからな」
「それは更につらい。そちらの方がつらくてたまらないよ、どうしよう」
「どうしようじゃない、もう鷹久は。ほら、もう下につくから、馬鹿言ってないでお行儀よくしろ……こら、何笑ってんだ、まったく」

 僚の険しい顔付きに目尻を下げ、神取は言った。

「もし追い出されたら、君のアパートに厄介になろうかな」
「……何言ってんだ」

 呆れてしまうと、僚は小さく息を吐いた。
 地下の駐車場につき、エレベーターの扉が開く。扉の向こうに待ち人はおらず、見る限り駐車場に人影はなかった。
 神取は先を行きながら、好き勝手想像を広げた。

「君のアパートに住んで、毎晩君におかえりと迎えてもらって…いいと思わないかい?」

 そんな生活、夢のようだ。少しどころか大いに惹かれ、僚は引きずられそうな自分に慌てて首を振る。現実問題、あのアパートで二人で暮らすのは無理で、叶わぬ夢で、かえって腹が立つ。

「まったく、何を一人で言ってんだ」
「わからないかね?」

 神取は身体をずらして振り返り、いたずらっ子のような表情で笑った。

「もう全然」

 僚はぞんざいに首を振り、ぽかんとしてしまうよと顔を作った。その実内心では、男の寄越す可愛らしい笑顔にはからずも胸をときめかせ、そんな自分にいくらかむしゃくしゃしていた。

「つまりね」

 神取は車の鍵を開けた。

「つまり?」

 僚は、エスコートする男にいつものように頭を下げ、助手席に身を滑り込ませた。

「つまり、日がな一日、君を抱いていたい」
「……は?」

 喉から息がもれる間抜けな音がした。助手席から見上げてくる僚に軽く笑い、神取はドアを閉めた。
 ドアが閉まって、やや遅れて、僚は大きく息を吐いた。車の前を回り込んで男が運転席に着くまでの間に、この火照った身体を何とかしないと…無理だ。
 ドアを開け、隣に身を沈めた男に僚はひと睨みくれると、伸び上がり、唇を塞いだ。
 余裕たっぷりの表情で受け止める男にますます怒りを滾らせ、僚は差し込んだ舌で思い切り男を煽ってやった。肩を押さえ付け、恥ずかしい声の一つも出させてやると躍起になって技巧を凝らす。が、情けない事にそれより先に自分がまいってしまい、慌てて僚は顔を離した。悔しさを堪えて男を見やると、声こそ出さないものの堪えているようだったので、よしとする。
 しかし、後先考えず挑んだ行為は自分も縛る事になる。
 鎮まるまでの間、二人は泣き笑いのような時間を黙ったまま過ごした。

 

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