チクロ

お揃い

 

 

 

 

 

 手入れの行き届いた庭木は雪化粧を施され、見るからに寒々しいが、それを露天風呂に浸かりながら眺めるとまた違った趣があった。
 顔に当たる空気はひやりと冷たく、それでいて身体は芯まで温まっている。澄んだ冷たさがかえって心地良い。
 広々とした露天風呂に肩まで浸かり、顎が触れるほどのんびりと手足を伸ばして、桜井僚は大きなため息をついた。
 それを見て、隣の男…神取鷹久が笑う。

「なんだよ……鷹久もさ、そんなお行儀よく入ってないで、もっと俺みたいにぐだっとしろよ」

 笑われた恥ずかしさをそんな言葉でごまかして、僚はもう一度、大げさなほどふうっと腹から息を吐いた。それほど気持ち良い温泉であった。温度が丁度いいのだ。少々熱いのだが、ちくちくと肌を刺す事はなく、じんわりと骨身に沁み込んでくるようでたまらない。

「充分リラックスしてるよ。なにせ君が隣にいるのだもの、これ以上の場所はないよ」
「……また。ほんと口がうまいな」

 余計にのぼせると、僚は片手で頬をこすった。
 男は軽く顔を傾け、楽しそうに笑った。

「本当だ、真っ赤になって、可愛いよ」
「鷹久こそ、ゆでだこみたいだよ」
「可愛い君にのぼせたんだよ」
「ふうん」

 じゃあおあいこだなと僚は歯を見せ、三度ため息を吐いた。
 旅館自慢の大浴場をじっくり堪能した後、朝食に向かう。一旦部屋に戻り浴衣を着替えた僚だが、廊下に出たところで、浴衣姿のまま食堂に向かう人間も見られる事から、どちらがいいのだろうかと男に尋ねた。

「どちらでも問題はないよ。好きな方で構わんさ」
「そうか。鷹久も着替えたな」
「そうだね。これが部屋食ならば浴衣のままいるが、そうでない時はどうも落ち着かなくてね」
「なるほど」

 服装で切り替えるというわけか、僚は小さく頷いた。

「君は着替えて正解だ」
「え、なんで? 変だったか?」

 浴衣の着方がおかしかったからだろうかと、僚はこみあげる恥ずかしさと不安さに眉根を寄せた。
 神取はそうじゃないと笑いかけ、じっくり僚の顔を眺めた。

「湯上りの、まだ顔が少し赤い」
「……おかしいか?」

 僚は慌てて額を押さえた。
 いいや、と男は首を振った。おかしいなんてとんでもない。頬も額も赤くつやつやとして、とても可愛らしい。そんな可愛らしい君の浴衣姿は更にとんでもなく可愛くて、他の誰にも見せたくはない。
 自分だけが見ればよろしい。
 着替えた事で少しは薄まったので、よしとする。

「うわ……鷹久、すごい」

 僚は小さく目を見開いた。これが他の誰かが言ったものならとても聞けたものではないが、男の口からそんな言葉を引き出した事に誇らしささえ感じられ、僚は奇妙な嬉しさに包まれた。

「まいったかい」
「はい、まいりました」

 芝居がかった声で言ってくる男に合わせて僚も思い切り低い声を出し、一緒に笑った。

 

 

 

「ああ、最高だったな」

 旅館の玄関で見送られ、車に乗り込んだ僚は、夢見心地の声で呟いた。
 雪の庭、豪華な夕食、露天風呂…数えきれないほどの思い出を頭の中でめくりながら、僚は熱い息を吐いた。

「満足できたかな」
「うん……ほんとにありがとう」

 思いを込めて、隣の男に感謝する。何度礼を言っても足りないくらい、素晴らしい人。ぽーっとのぼせて見つめていると、視線に気付いた男が顔を向けてきた。

「どうした?」
「べつに。なんでもない。さあ、海行こう」

 何でもないといったって男の事だから全部お見通しだろう、慌ててそっぽ向いても全部わかっているだろう。僚には、それがたまらなく嬉しかった。
 二月の寒い朝、天気は快晴。気持ちよく澄み切った空を車窓から見上げ、僚は頬を緩めた。

「昨日も見たのに、今日も海を見に行くんだって。なんでも、冬の海の良さを教えるんだって」

 もう一人別の誰かがいるかのように声を上げた僚に、男も思わず口端を上げた。

「楽しそうだね」
「うん楽しい、楽しみ。ちょっと寂しいけど」

 寂しい理由は、楽しい時間があっという間に過ぎてしまったからだ。帰りの時間は、いつだって少々のもの悲しさが付きまとう。

「今日は始まったばかりだ、今日の分を思いきり楽しもう」
「うん、もちろん」

 張り切って答えた通り、僚は少し風の強い浜辺もなんのその、むしろ強風にはしゃいだ声を上げて楽しんだ。
 そのままにしていたら、一時間でも二時間でも風に逆らって立っていそうな僚を連れて、神取は土産物屋に向かった。
 がらがらと少し重たいガラス戸を閉め、暖かい室内にほっとひと息つく。

「さすがに寒かったろう」
「いや、別に」

 僚は強がって笑ってみせるが、探るように見やってくる男の目をごまかすのは無理とみて、ちょっと、と付け足した。

「土産を見る前に、あそこで少し休もうか」

 神取は、広い店内の中ほどにある休憩コーナーを指差した。僚は一も二もなく賛成し、先頭に立って向かった。
 カフェオレやミルクティ、ココア、スープ、それから出来立ての薄皮まんじゅうや海産物も並んでいて、どれにしようか目移りしてしまう。
 ほかほかと湯気を立てる小さな薄皮まんじゅうも実に美味そうであったが、まだ、朝に腹いっぱい食べた分があるので食欲はそれほどではなく、今はそれより温かい飲み物が欲しい気持ちが勝っていた。
 神取も同様で、二人は同じものを頼むと、受け取ったカップを手に傍にあるベンチに落ち着いた。
 潮風に晒されて冷えた身体に、温かいスープが染み渡ってゆく。
 いいよね、ほっとすると微笑む僚に、神取は曖昧な笑みを浮かべた。見惚れてしまうほどの可愛らしさに、表情が追い付かない。浮かべる余裕もないのだ。
 嗚呼まずい。
 頭の片隅で思う。自分の顔が今どんなに赤くなったか、手に取るようにわかる。
 彼に気付かれなければいいが。そう思いながら神取はちらりと見やった。寒い屋外と暖房の利いた室内との差で、僚の鼻先と頬がほんのり赤くなっていた。

「赤いだろ」

 しみじみと見入っていると、火照った具合でわかったのか、僚が笑いながら言ってきた。

「ああ、外は本当に寒かったからね」
「鷹久もこの辺とか、赤くなってる」

 お揃いだなと、僚は嬉しそうに歯を見せた。
 神取は一瞬、息が止まるのを感じた。

「あったまるよな」

 顔から腹の底からまでほっとすると、僚はため息交じりに言った。
 彼は、凍えた身体に温かいものがしみて顔がほてったと、そのように上手く見てくれたようだ。神取はそっと心の中で感謝する。
 まったく…なんて可愛い人だろう。愛しくてたまらない。人目が無かったら、抱きしめてキスをして礼を言うのに。
 いや、それだけでは足りないな。けれど、ではどうやって気持ちを伝えよう。どうしたら伝わるだろう。
 君の存在が大切な糧になっていると、君なくしては息も出来ないと、どう伝えればいいだろう。
 神取は悩みながらスープを啜った。 僚は目の前に広がる土産物の山が気になるようで、カップを傾けながら右へ左へ目を走らせていた。

「飲んだら、土産を見ようか」

 水を向けると、僚はきらきらと目を輝かせて頷いた。

 なあ、俺が選んだ土産、受け取ってくれるか?
 そんな、恐れ多い。
 いいから、受け取れよ。それともあの金じゃ嫌かな。
 とんでもない、そんな事はない。
 鷹久に言われて、大事に使うって決めたから、大事に使いたいんだ。そして使うなら、鷹久に使いたい。

 神取は驚きについてゆけぬ目を何とか瞬いて、僚にじっくり注いだ。

「鷹久の好きそうなのちゃんと買うからさ、家帰って、思い出しながら食べろよ」
「もちろん……では私は」情けなく震える喉を何とか引き締める「明日のマラソン大会でいい結果が残せるよう、元気の出るものを選ぼうか」
「ほんとに、それ最高嬉しい、一番励みになる」

 僚は一杯に目を見開いた。自分なりに目標を立て挑む気持ちでいたが、その一方で少々面倒に感じてもいたので、男の後押しはとてもありがたいものであった。やる気が湧いてきた。

「さて、では何を買おうか」

 二人は立ち上がり、どれにしようかと嬉しい悩みを寄越す土産の山へと向かっていった。

 

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