チクロ
ある週末の風景
今年も残り二週間となり、年内最後のイベントを残すのみとなった。 街は一ヶ月以上も前から準備を始め、連日賑やかな音色と色彩を振りまいて道行く人をうきうきとした楽しい気分にさせた。 恐らく、世界中のほとんどの人がその日を心待ちにしているだろう。 例にもれず、神取鷹久もその内の一人だった。 イブも当日もちろんそうだが、明日という日も、随分と前から待ち遠しく思っていた。 恋人と、出かけるのだ。 街をぶらついて、買い物をして、食事をして、クリスマスコンサートに赴く。 随分前…正確には自分の誕生日の二日後。悪友から、明晩行われるコンサートのチケットを、誕生日プレゼントとして贈られた。 『二人で楽しんでおいで』 純粋な好意と若干の邪気、僚からのお礼のキスを期待して、彼はチケットを差し出した。無論キス云々は彼の得意のジョークだ。本気で彼に手を出そうとか、こっそり奪ってやろうという気は全く無い。そう言えばこちらがうろたえる、落ち着かなくなる効果を狙っての事だ。 昔から彼は、筋金入りのイタズラ坊主であった。 ただいつも口先だけの他愛ないもので、本当に侮辱する事はなかったので、その点では信頼していた。信用のおける人間だ。 頭を振る。 あの男の事は、いったん頭から追い出そう。 せっかくのイベントが台無しになってしまう。 待ち合わせの時間までまだ随分ある…二十四時間以上あるが、しようもなく心が浮き立っていてもたってもいられない。 自分でも馬鹿馬鹿しいと思いつつ、大真面目で準備の予行演習をする。 ダイニングのテーブルに、チケットをまず置く。それから財布、車のキー、少々の身の回り品を並べる。特にチケットは、封筒から取り出してちゃんと二枚あるか念入りに確かめる。 知らず内に頬が緩む。 このチケットをたてに、僚と楽しんだ行為の切れ端が頭を過ぎった。 コンサートに連れて行かないよ。 チケットを破り捨てるよ。 そう言って脅すと、面白いほど反応し、普段なら滅多にしない事も、彼はやってのけた。 それだけ、楽しみにしているという事だ。チケットを握り締め、ぽかんと口をあけたきり止まってしまった彼を思い出す。 クラシック好きは、音楽の教師をしていた父親の影響だろう。好みの傾向が一緒なのもまた、嬉しい。 自分にとっても、明日の訪れが待ち遠しい。 また、頬がだらしなく緩んだ。 彼と出かけるのが、こんなに楽しい。 鏡を覗けば、目も当てられぬ顔をしているに違いない。らしくない…とは思ったが、隠す気はさらさらない。 以前の自分を知っている人間が見たら鼻で笑う事だろう。 構わないさ。 楽しいものは楽しいのだ。 誰にともなく言い訳して頬を擦る。 その時、胸ポケットにしまった携帯が静かに鳴り出した。僚からだろうか。取り出して確かめると、思ったとおり桜井僚の名前が表示されている。浮かれた気持ちをやや抑え、男は応答した。 |
僚のアパートのほど近くにある駐車場に車を停め、助手席に置いた買い物袋を抱えると、神取はやや足早に彼の部屋へと向かった。 合い鍵を取り出したところで、買い忘れはなかっただろうかと袋の中身が気になった。この近所にも、同じドラッグストアがある。足りないものがあればすぐ買いに行けばよい。 そっと玄関に足を踏み入れる。室内への扉を開く時、妙に胸がざわついた。 彼との会話が耳の奥で蘇る。 応答しても始めは無言で、どうしたのかともう一度問いかけた時、彼はただ名前を呼んできた。 普段聞いた事のないような、ひどく掠れた弱々しい声。 囁きに近い呼びかけだが、それだけで男は事情を察した。 最近日ごとに寒さが厳しくなって、そのせいで体調を崩してしまったのだろう。症状を聞き出し、必要なものをまとめたらすぐに向かうと告げた。 彼はもう一度名を呼び、ありがとうと言って通話を切った。 その彼は、ベッドに横向きになって目を閉じ、浅い呼吸を繰り返していた。見るからに苦しげな様子に胸がずきりと痛んだ。 神取は出来るだけ静かに荷物を置くと、足音を忍ばせて近付いた。 跪き、頬に手を差し伸べる。するとうっすらと目が開き、眩しそうに瞬きしながら僚は見やってきた。 「大丈夫かい、僚」 障らぬよう小声で話しかけると、彼は頷くように微かに頭を動かした。 「手…冷たくて」 気持ち良いというように頬をすり寄せる仕草に胸がまた疼いた。 「たかひさ……」 呼びかけ、僚はしょぼつく目で男を見上げた。たったひと言名前を呼んだだけなのに全ての事情を察し、すぐに駆け付けてくれた事が嬉しくて、たまらなくなり、耳にした声にしようもなく涙が滲んだ。眦から零れ落ちる涙を、男の指がそっと拭い取った。 「医者には行ったのか?」 首を振る。 「食事は?」 それにも首を振る。少し目眩がした。 「朝…食べてない」 トイレに起き上がるのが精一杯で、何も腹に入れていないと答える。 「それは可哀想に。でも、食欲があるなら良かった。すぐに作るから、少し待っておいで」 そう言って立ち上がった男に首を振る。 「いい…いらない」 ぜいぜいと喉を鳴らしながら、ぶっきらぼうに言い放つ。本当はひどく空腹だった。全身が熱でだるく痛むが、胃袋だけは、きゅうきゅうと鳴って要求し続けている。 「こんなんじゃ……どうせ、明日…行けっこないから」 重い身体でのっそり起き上がり、心で思っている事と正反対の言葉を口にする。 「そんな事は……」 「まったく、バカだよな。こんな時に熱出すとかさあ」 恥ずかしくてやんなるよ…自分自身を嘲り、僚は唇を曲げて笑った。 「体調管理も出来ないとか、笑えるよね」 しかし神取は笑わなかった。 「とんでもない、機械ではないのだから、そうそう頭で思うようにはいかないさ」 こんな日もあると微笑みかけ、すぐに作るから出来るまで横になって待っていなさいと付け加える。 「いいよ。無理だよ。行けない」 思いがけず棘のある自分の物言いに、しまったと僚は心の中で舌打ちする。 「僚?」 びっくりしたような男の声。当然だ。 「いいって! どうせ、こんなんで行っても、つまんないだろ!」 しかし、いつもなら自制出来る部分も何故だか今日は我慢出来なくて、必要以上に声を荒げてしまう。 「僚、何を怒っている?」 男の困惑顔に、胸がずきりと痛んだ。 「別に、悪かったなってだけ」 だのに口から出たのは、相手を不快にさせる嫌な言葉だった。 「……私が傍にいると、苛々するかい? 食事の用意をしたらすぐに帰るから、勘弁してくれ」 「!…いらないよ、今すぐ帰れよ!」 違う、何を言ってるんだこの馬鹿、と心の中で己を罵りながらも、口から飛び出すのはまるで正反対の言葉。悪いのは全て自分で、自分自身に苛々しているのに、何故それを男にぶつける必要があるのか。 なんで自分はこんな事を言う。 大声を出したせいで喉に負担がかかり、激しく咳込む。 「僚、落ち着いて――」 「さわんな! いいから帰れよっ……!」 背中を宥めようと伸ばされた手を拒み、身体を押し返す。 「帰れっつってんだろ!」 感情を抑えきれない自分に怒りを爆発させ、男に叩き付ける。何に腹を立てているのか自分でもよくわからない。じっとしていても熱に苦しむのに、声を張り上げた事で頭が割れるように痛んだ。すぐに痛みを通り越し、わけがわからなくなる。 熱に侵され半ば感覚の麻痺した皮膚が、不意にある一点だけ敏感になる。 鼻の奥から伝い降りてくる重たい感触に、あっと小さな声をもらす。怒りが急速に消え去るのが、手に取るようにわかった。 男はコートから素早くハンカチを取り出し、下から押さえた後小鼻を摘まんだ。 「ゆっくりと顎を引いて」 言われるまま、大人しく顎を引いた。 「痛くはないか?」 「うん…へいき」 おどおどと瞳を左右に揺らし、深く息をつく。 「ごめん……ハンカチ」 「気にしなくていい」 男はそう言ってにっこり笑い、先ほど激昂した名残である涙を指でそっと拭う。 今度は振り払う事はせず、大人しく身を任せる。 「本当は、行きたい…すごく……」 正面の壁を睨み付け、小声で呟く。 「僚、大丈夫だから」 呼びかけに、落としかけた目を上げて見やる。そこには、自信たっぷりに笑いかけてくる男の顔があった。 どうしてそんなにはっきり確信を持って言えるのかと、しばし見とれる。 「大丈夫だ。しっかり食べて、暖かくして、今日一日休めば必ず治る。そうしたら、コンサートに行ける」 「ほんとうに……」 「ああ、本当だ。絶対連れて行くよ」 男の優しい声に、新たな涙がぽろりと零れる。甘えて、わがままを言い、八つ当たりした自分が情けない。 「ただ、明日の昼間の買い物は、今度にしよう。コンサートの時間まで身体を休めなさい」 「でも…それ……」 「買い物は、またの機会にとっておこう。いつでも行けるのだから」 「でも…ごめん」 ごめんなさい。 もう、それしか言えなかった。 男は笑って、首を振る。 「もう、謝らなくていい」 大丈夫だ 目を覗き込まれ、また泣きたくなる。 優しくしてもらえるからと、男に当り散らした。そんな事はないと言ってもらえるのを期待して、どうせ行けっこないと心にもない事を口にした。 自分で全部、駄目にした。 それでも男は優しくて、どんなにひどい事を言っても怒らないでいてくれる。 泣かなくていいと声が柔らかく包み込んでくる。 「泣いてない……」 そう言う端からぽろぽろと涙が零れる。 「……泣いてないだろ」 涙の止まらない自分に焦れて、何度も繰り返した。しかし、言えば言うほどひどくなっていく。傍に、頼れる誰かがいるという事が、どんどん自分を弱くしていくように感じられ、でも甘えたくて、どうしていいかわからなくなる。 自分の思った事や、感情を表に出すのが、苦手だった。どうしようもない甘ったれなのを自覚しているから、それで他人に嫌われたくない、煩わしい奴だと思われたくなくて、必要以上に感情を抑えるようになった。 だのに男が相手では、今まで出来ていた自制がきかないのだ。いつも思った事をすぐ口にして、すぐ後悔する。 それでも男は優しくて、どんなにひどい事を言っても怒らないでいてくれる。 何故、わがままを受け止めてくれるのだろう。 怒らずに、話を聞いてくれるのだろう。 いつもいつも、今、背中をさすってくれる手のように、さりげなく心に沁み込んでくる優しさをくれるのだろう。 来てくれて嬉しいという簡単な一言すら素直に言えない自分に。 優しくしてくれるのは何故だろう。 わからない わかっている…… 次第に、呼吸が落ち着いてくる。 頃合を見計らって、男はゆっくりハンカチを退けた。どうやら止まったようだ。服も汚れていない。ほっとして、肩を落とす。 「さあ、横になって」 言われるまま、男の助けを借りて布団に横になる。毛布の上にふわりとコートを乗せられ、驚いて男を見上げる。 「コート、汚れる」 「君の方が大事だ」 泣きたくなるような事をさらりと口にする男に、唇を尖らせた。油断すると、すぐに涙が出そうになる。 「今、温かいものを作るから。出来上がるまで少し寝ていなさい」 「うん…サンキュ」 かけられたコートからぬくもりが伝わってくる。鼻がいかれてほとんどわからないが、心なしか、男の匂いがしたように思えて、自然と頬が緩んだ。 泣いたせいで腫れぼったい瞼を閉じ、深く息をつく。 横になった事で、少し身体が楽になる。 傍で、紙の袋ががさりと音を立てた。うっすらと目を開けて、男の抱える茶色の袋をのろのろと見上げる。 「中身、何?」 「色々だよ。食料に、薬に、マスクに、水枕……」 水枕と聞いて、思わず吹き出す。薬局でそれを買っている男の姿が、想像できない。どう考えても似合わない。特に、それに氷と水を入れて準備しているところなんて、腹がよじれそうになる。 「まあ気休めのようなものだが、君はこういうの、好きだろうと思ってね」 笑い顔が少し歪む。 この男は、笑わせたり泣かせたりが本当に上手い。 「大丈夫かい?」 「へいき……」 心配げに顔を覗き込んでくる男に首を振る。 喉に詰まって思うように声が出ない。 そこまで心配してくれる男に、なんと礼を言えば釣り合いがとれるだろう。 また、少し、涙が滲んだ。 |
しばらくして、男が台所から戻ってくる。 匂いと音で気付き、半分眠りかけていた意識を引き戻す。 「少しは眠れたかい?」 「うん……」 男が来てくれた事で、安心したのだろう。待っている時よりもずっと楽に眠る事が出来た。身体を起こしても、そう辛く感じない。 「ここでいいかな」 部屋の中央にある折りたたみのテーブルに、男は持って来たどんぶりを置いた。 男が作ったのは豆腐粥…ゆるめのお粥に崩した豆腐を混ぜたものだった。ほぐしたささ身ものっている。とき卵の優しい黄色が、どうしてか目に沁みた。こんなものも作るのかと驚くのと同時に、散らかったテーブルの上に顔から火が出そうになる。 「ごめん…テーブル汚い」 恐らくは風邪の前兆だったのだろう、昨夜は、何をするのも億劫に感じられ、片付けはおろか飲み終えたペットボトルをゴミ箱に放るのさえ、動きづらかった。 そのせいで、テーブルの周りには読んでいた雑誌類が、テーブルの上にはボトルとコップ、それにノートや筆記用具などの細々としたものがそれぞれ散らばっていた。 「ああ、私がやるから気にしなくていい」 神取はやんわりと手を遮り、それぞれの場所に整頓した。 普段の彼は、隙なく完璧にとまではいかないが、綺麗に整理整頓を心がけていた。この年齢の男子にしては、充分過ぎるほど目が行き届いている。一人で暮らすなど大変だろうに、充分過ぎるほど、よくやっていた。 自分が来る時だけ間に合わせにやっているのでない証拠に、毎度と今日とでそれほど変わりがなかった。体調不良で手が届かなかった分だけ、少し散らかっているに過ぎない。 その分を埋めようと、いつも彼がするほどに片付けを手伝う。 「それより、そのままでは寒いから、コートを肩にかけておきなさい」 「うん」 僚は気遣いに頬を緩め、毛布の上に乗ったコートを手繰り寄せる。 「しまった。ああ、済まない」 軽く舌打ちして、男はすぐにそれを横取りした。 「喉を痛めているのに、煙草の匂いはまずい」 「いいよ。平気。俺、それがいい。鷹久の匂いがするから、それがいい」 「だが……」 「それがいい。汚さないようにするから」 「それは構わんが……」 渋る男から奪い返し、肩に羽織る。 「軽くて、すごくあったかい。これ」 「それは良かった。私も、結構気に入っていてね」 「じゃあ尚更、気を付けるよ」 「ありがとう」 真面目な顔で約束すると、男は軽く笑った。 「すごくうまそう」 「中々のものだろう」 テーブルの上を片付けながら、男は満更でもなさそうに頬を緩めた。 「なんか…鷹久がこういうもの作るのって、意外な気がする」 「そうかな」 「うん。似合わないっつーか、意外。料理出来るのは知ってるけど、こういうお粥とか、ヘンな感じ」 「そうかい。私だって体調を崩す事もあるからね、そういう時は、こういった消化に良い物を、作っているよ」 「鷹久が、風邪引く? そんでお粥…鷹久がお粥……」 「おや、失礼な」 これは心外だと、首を傾ける。 その仕草がおかしくて、僚は咳込みながら小さく笑った。 「だって、鷹久がさあ」 「もういいから、食べなさい」 苦笑いを浮かべる男に、ごめんと歯を見せる。 「うん」 スプーンを手に取ったところではたと気付き、またテーブルに置く。 「どうした? 」 「さっきさ…やな言い方して……ごめん」 そう言って頭を下げる。さすがに顔は見られなかった。俯いて言葉を待っていると頭に手が乗せられる。寝乱れた髪を優しく梳いてくれる手に、目を閉じて浸る。少し照れくさい、心地好い感触。目の奥がじわりと熱くなる。 「身体が弱ると、心も弱って、色々不安になるものだ。訳もなく苛々してしまったり。落ち込んだり。よくわかるよ」 僚は唇を歪めた。自分のわがままは今日に限った事ではない。 「いやいや、そんな事はないさ。君は良い子だよ、私が保証する」 男は部屋の隅にちらりと目を向けた。 そこには先ほど片付けた本が積まれていた。 彼が毎週買っている漫画雑誌数冊と、とあるレシピブック。 手軽に、美味しく作れる、ワインに合うつまみの本。 彼は未成年、当然酒は飲めない。ワインなど、もってのほかだ。その彼がこんな本を買い求め、位置から察するに恐らくは昨日の夜も読んでいたのは、全て男を喜ばせたい気持ちからだ。既に何度か、この本から引用されただろう料理を振る舞ってもらっている。 そして昨日も彼は熱心に勉強してくれていた。 自分に出来る範囲内で一生懸命、こちらの役に立とうと振るう。 これほど優しくて、良い子なのだ。 「いつも助けられているよ」 「そんなの……」 心に沁みる一言だった。思いがけず涙が込み上げる。瞬きでやり過ごそうとしたが、優しく響いた男の言葉を心の中で何度も繰り返す内、とうとう涙が零れ出た。 「そういう事、言うから……」 舌打ちでごまかし、寝衣の袖で慌てて拭う。 男はすぐさまスーツのポケットからハンカチを取り出し、寄越してきた。 「何枚、ハンカチ持ってきてんだよ」 泣きながら笑う。また少し咳が出た。 「いや…具合が悪いと聞いて、慌てて用意したものだから。実はこちらにも入っているんだ。今気付いたんだがね」 そう言って、至極真面目な顔で反対側のポケットからもハンカチを取り出す。 僚はもしやと思い至り、肩に羽織っていた男のコートのポケットを探った。先ほど、無様に垂らしてしまった鼻血の処置に使われた一枚を取り出した反対側に、果たしてもう一枚、ハンカチはあった。 乾杯よろしく、男の手にするハンカチに重ねると、おかしさが込み上げてきて、肩が震えた。 この男でも、そうやって慌てたり取り乱す事もあるのかと思うと、不思議な気持ちだった。 そういったところに、新たな魅力を感じる。 「やーい、鷹久のあわてんぼ」 からかうネタにしてはやし立てるが、男はそれをさらりとかわした。 「否定はしないが、泣き虫に言われたくはないな」 男は自分が取り出したハンカチをしまい、彼が手にするハンカチを受け取ると、眦に残る涙の跡に軽く押し当てた。 「……うるさいな。今日は…アレがナニだから、しょうがないんだよ。病人には、優しくしろよな」 「ああもちろん。心を込めて君に尽くすよ」 首を傾け、男が不適に笑う。胸がずきりと高鳴り、気のせいではなく頬が熱くなる。 「……いただきます」 きっと真っ赤になってしまったに違いない自分をごまかそうと、慌ててスプーンを手に取る。 呼吸が苦しいのは、熱を出したせいじゃないだろう。 |
食べられるだけでいいと言われたが、気付けばほとんど中身を食べきっていた。朝起きた時は本当に具合が悪くて、けれど腹はしっかり減っていて、だのに起き上がるのが億劫でにっちもさっちも行かなかった。もしかしたら、このまま餓死するかもしれないとまで思った。今考えれば、随分と大袈裟に思い込んでいた。とはいえ、こうして男が来てくれなかったらあながち冗談でもなかっただろう。 顔に当たる湯気にふうふういいながら、そんな事をぼんやりと考えていた。 「足りないくらいだったかな」 「ううん、丁度いい。本当に美味かった」 「それは良かった」 「ありがと」 どういたしましてと微笑む男に、笑い返す。 どんぶりの底に残った豆腐粥を丁寧にすくっていると、途中で沸かした薬缶の湯がちょうど沸騰し、男がなにやらカップに注いで戻ってきた。 ことりと目の前に置かれたカップの中身を見て、僚は顔をしかめた。 「何だ、これ」 薄いレモン色をした奇妙な液体に、目が釘付けになる。鼻を近付けて匂いを確かめようとしたが、すっかりいかれて、まるでわからない。 「すりおろした生姜と蜂蜜に、熱湯を注いだものだ。こちらは気休めではないよ」 「うえ、まずそー……」 すりおろした生姜と聞いて、咳込みながらがなり声を上げる。 「身体が温まる。喉にもいいんだ。その咳がぴたりと止まるよ」 男の説明を聞きながら、もう一度カップを鼻先に近付け、あからさまに顔を歪めてみせる。 「これ、飲むの? マジで?」 淡い黄金色は何とも綺麗で、色だけ見るならそれほど不味そうには思わないが、中身は生姜。蜂蜜も入っているが、主体は生姜だ。味の想像もつかない。自然と口がひん曲がる。しかし男は、当然とばかりに頷くだけだった。 「ちゃんと味見はした。蜂蜜をたっぷり入れてかなり甘くしてあるから、そう不味くはないはずだよ。君好みの甘さだよ」 「うえー……」 ほかほかと立ち上る湯気には魅力を感じる。ほんの微かに蜂蜜の香りを感じ取るが、中身を想像するとどうしても躊躇してしまう。 「これ、効くの?」 「ああ、もちろん。効果は抜群だ」 「……これ、飲まなきゃダメ?」 「嫌なら、飲まなくても構わないよ。君が明日のコンサートに行きたくない、というのなら、無理に飲まなくてもいい」 穏やかな笑顔で脅してくる男に、唸り声を上げる。 「……わかったよ」 「ちゃんと飲めたら、ご褒美をあげよう」 言葉と同時に男はテーブルに丸い物を乗せた。 小さな子供を諭すような物言いに僚はわずかに顔をしかめたが、丸い物の正体に目を見開いた。 黄金色に輝くそれは、彼の大好物であるかんきつ類、グレープフルーツだった。こちらの黄色は文句なしに大好きだ。 「風邪の時は、ビタミンをとるのも大事だからね」 他にもいくつか果物を買ってあると、キッチンの棚を指す。 「ありがと、ほんとに」 「ではまず、こちらからだ」 輝いていた僚の顔が、男の差し出すカップを見た途端さっと曇った。 正直な彼の反応に心の中で笑い、神取は促した。 神妙な面持ちで、僚は受け取ったカップを傾けた。が、思い切って口に含んだそれは、想像していたよりずっと美味いと感じるものだった。 「それほど不味くは、ないだろう?」 「うん。思ったよりは。つーか…うまい、かも」 いかにも薬といった味を想像していたが、実際飲んでみるとそれほどひどいものでもなかった。 蜂蜜の甘さの後に、生姜独特の香りがやってくる。確かに喉に効きそうに思えた。そして飲んだ端から、男の言ったとおり身体が内側からぽかぽかとあたたまってくるのが実感出来た。 「ふーん……」 飲む前はあれほど渋ったのが嘘のようにひと息に飲み干し、カップの中を覗き込んで素直に感心する。 「飲んだぞ」 「おお、偉い偉い」 得意満面でカップを突き出してくる僚に笑いかけ、神取は頭を撫でた。 続けてグレープフルーツを切ろうとしたが、それは後にすると僚は辞退した。 「ごめん、今はちょっと、入りそうもなくて」 苦しげに肩で息をつく様に神取は顔をしかめた。一番の好物を口に出来ない悔しさを想像し、そっと同情する。すぐに笑いかける。 「これだけ食べれば上等だ。楽しみは後に取っておこう」 代わりに熱いおしぼりを用意し、手渡す。 何か云いたげに唇を歪め、僚は受け取った。 理由を訊くが、僚は何でもないと首を振った。 「……ああ、気持ち良い」 ほかほかと湯気の立つタオルを顔に当て、僚は唸った。すぐに、自分の出したおかしな声に自分で笑う。 「夜寝る時、もう一度用意してあげるよ。中々いい気持だろう」 「……うん」 ありがとうとタオルを返す。 その時も僚は、何か云い含んだ目線で男を見やった。 男はあえて聞かなかった。 「さ、気分が良い間に、横になって休みなさい」 言われるまま僚は、用意された水枕に頭を乗せた。ちゃぷんころころと心地良い音がして、いくらか気分が楽になる。タオルを通してじんわりと伝わってくる冷たさが、熱のこもった身体により効いた。 僚は一つため息をついた。 「鷹久は、この後……」 「ああ、君の晩の用意をしたら、一度家に帰る。君を必ずコンサートに連れて行くと約束したからね、私も万全で備えるよ。そして明日の朝、また様子を見に来る」 そこまで面倒をかけてしまう自分が情けなくなり、僚は唇を引き結んだ。 神取は笑いかけた。 「そんな顔をしなくていい、困った時はお互い様なのだから。晩は、何か食べたいものはあるかい」 お粥、おじや、うどん、スープ…消化に良い物をいくつか挙げながら、済まなそうに見上げる少年の頬を優しく撫でた。 しばらく待つが僚は答えず、何か云いたげに見上げてくるばかりだった。 「どうした、喋るのもつらいか?」 気遣う男に僚はすぐさま首を振った。途端にこめかみがずきりと痛んだが、唸って耐えて、違うと口を開く。 「鷹久は、どうしてこんなに?」 「こんなに? ああ、何故こんなにするのか、と」 そうだと僚は頷いた。そしてすぐはっとなり、迷惑だという訳ではないと付け加える。 迂闊な聞き方をしたと悔やむ僚に微笑みかけ、男は答えた。 「君が大切だからさ。だから、何でもしたいと思うのは、自然な事だろう」 「うん、でも……こんなに、するかなって……」 大切に想われているのは実感している。疑う余地も、気持ちもない。 ただ上手く言えないが、恋人の看病と言うには、過ぎていると感じるのだ。家族に近いが、それとも少し違う。 神取は曖昧に笑い、しばし考えて口を開いた。 「人の世話をするのが、好きなんだよ」 「……誰でも?」 「いいや。こうと決めた相手だけ。特別な人だけ。君だよ」 どこか不安げになった少年に口端を緩め、はっきり言い切る。 「君も特別だと思ってくれているだろう、同じことだよ」 そうやって特別を交換するのが好きなのだと、男は答えた。 すると僚は、熱で潤んだ瞳を一杯に開いて、男を見上げた。 そこにどれほどの想いが詰まっているか感じ取り、男は頬を緩めた。 「困った……今、たまらなく君とキスしたくなった」 「移るから、ダメだろ」 少し怒った顔でたしなめる僚にその通りだと頷き、謝る。 「治ったら、たくさんする」 「そうだね、待っているよ。では早く治す為に、晩は美味い物を食べよう。何にするか決まったかい」 「あの、じゃあ、うどんが食べたい」 承知したと男は頷いた。特製のうどんを振る舞うと約束する。 「ありがと…ごめん」 「気にすることはない。今は、思い切り甘えるといい。それでこの先もし私が倒れたら、その時は頼む」 「うん、絶対に。任せて」 今日は本当に、ありがとう。 こんなにも自分を大切に思ってくれる人間に出逢えた事が、たまらなく嬉しい。 それを、伝えたかった。 男は何も言わなかった。ただ、目が、物語っている。 ほっとして目を閉じる。優しく頬に触れてくる手はとても心地好かった。そのまま眠りに吸い込まれる。 うとうととまどろむ中、何度かふと目が覚める瞬間があった。 ぼんやりと目を開けると、すぐ傍に男の姿があった。視界がぼやけて物が上手く見えないが、男が傍にいるのはよくわかった。 ベッドに寄りかかってじっとしている。後ろ姿しか見えないが、男がいるのははっきりわかった。 一人ではないとわかる度、安心感が心の中一杯に広がってゆく。僚は半ば無意識に笑みを浮かべた。 ふと、頭の下で何かがころころと音を立てた。ややあって、それが水枕だと気付く。 男の用意してくれた水枕に感謝しながら、また、眠る。 |