チクロ
一番の贅沢
コーヒー豆に砂糖。洗濯用、食器用洗剤各種。特売品あれこれ。 車の後部座席にいくつも買い物袋が並ぶ。運転席の後ろ側は男のもの、助手席の後ろは自分の…間を空けて置き、桜井僚はポケットのメモ書きを確認した。 「買いもらしは、ないかな」 それを横から覗き込み、男…神取鷹久はざっと目を通した。 僚はさっと手を横にずらし、苦笑いを浮かべた。 「あんま見るなよ、汚いから」 「まあそう言わず。君のその字、結構好きなんだ」 そう言って神取はふと笑った。自分だけがわかればいいと思い切り省略した走り書きに、彼の人となりがうかがえる。年賀状や、ちょっとした伝言メモの字とはまた違った味のある線の流れが、男は気に入っていた。 「これさ、たまに、自分でも読めなくなる事あるんだよな」 そう言って僚はしかめた顔で笑った。書いている時はその字をきちんと綴ったつもりだが、いい加減な手の運びのせいで線が重なり形が崩れて、後になって何を書いたか判別出来なくなってしまうのだ。 「私も、しょっちゅうだよ」 「そうなんだ。俺はそういう時、前後に何考えてたか一生懸命掘り起こして、解読するんだ」 連想ゲームの要領で記憶を掘り起こし、何と書いたか突き止める。すぐに行き着く時もあれば、一旦諦め、全く別の事をしている時にぱっと思い出す事もある。 「毎度ちゃんと書けばいいんだけどね」 「つい、手が走ってしまうね」 「そう、わかる、そうそう」 ちょっとした共通点に妙な嬉しさを感じ、僚は肩を揺すった。 「買い物は今のとこ完璧、忘れ物はないよ。鷹久は?」 「私の方も大丈夫だ」 「そっか。結構早く済んだな」 「ランチの時間まで少々あるね。どこか、他に寄りたいところはあるかね?」 問われて僚は短くうーんと唸り、ならばちょっと本屋を覗きたいと口にした。神取も賛同し、程近くにある大型書店目指して歩き出した。 昼近く、陽気は穏やかでぽかぽかと暖かい。もうすっかり春だ、桜もちらほら咲き始めて、夜のニュース時に姿を現すようになった。都内の大きな公園に出向いた女性アナウンサーが、嬉しそうに声を弾ませて報告したりしている。 街を行く人々の装いも、今日は特に気温が高くなったせいか、コートを脱いだ姿が目立った。 道中、二人は自然と口をつく天気の話から始まって、他愛ない言葉を交わしてお喋りを楽しんだ。 お目当ての本があるのかと男に聞かれ、僚は軽く首を振った。今はこれといって購入予定のものはないが、入り口すぐにある店員おすすめの新刊をぱらぱらめくったり棚の間を歩いたりするだけでも楽しいので、よく訪れる場所の一つなのだと説明した。 「図書館ほどしんとしてないし、といってうるさくてしょうがないってほどでもない、このなんとなくざわざわしてる感じとかも、好きなんだ」 僚は肩越しに男を見やり、そう続けた。神取はなるほどと頷き、共感に努めた。心持ち目を見開いて、僚の様子を注意深く見守る。彼の見せる表情に、奇妙な引っかかりを感じたからだ。買い物目的でなく書店を訪れる事、なんとなく好きな点について、聞くのは初めてではない。これまでも何度か彼と一緒に書店に訪れ、今のような説明を受けた。その時もあやふやではあるが何かが感じられた。実際に嗅ぎ取ったわけではないが、匂いのようなものを感じ、神取はより目を凝らした。 心が揺れたのはほんの一瞬だったのだろう、気のせいと片付けられるほど曖昧な匂いめいたものはそれきり感じられず、時間が迫った事もあり、そろそろ行こうかと声をかける。僚は短く応え、パラパラめくっていた太陽系図鑑なる雑誌を棚に戻した。 書店からランチの店までは、徒歩でたどり着ける距離だった。 今の時期なら散歩気分でそぞろ歩きにもってこいだ。 ぽかぽか陽気がそうさせるのか、僚は、先ほど読んでいた雑誌から得た豆知識を披露してきた。 神取はそれらを楽しく聞きながら、お喋りに興じた。 ランチに選んだレストランはケーキも評判で、入り口すぐにあるショーケースの前は、持ち帰りの客で賑わっていた。 店内もまた丁度昼時という事もあり、ざっと見た限りではどのテーブルも埋まっていた。 これはしばらく待つなと僚が思っていると、予約は取ってあるからと男が言ってきた。さすがと感心する間に席に案内される。配された水のグラスに手を伸ばし、僚は喉を潤した。自分が思っていたよりずっと喉が渇いていたようで、冷たい水がたまらなく心地良い。カラカラに干からびてすかすか穴だらけだったのが、充分に潤いふっくら瑞々しく蘇ったような…頭の中を過ぎるそんなイメージをぼんやり追いながら、僚はひと息ついた。 落ち着いたところでメニューを開く。 「あ、これだな。特製カツサンド」 開いてすぐ目を引く大きな写真を眺めながら、僚は声を上げた。そう、と神取は頷く。 「この前鷹久に言われた時から、どんだけ大きなカツサンドだろって想像してたんだけど、想像以上だよこれ」 美味そうだと目を輝かせる僚に、神取は嬉しげに微笑んだ。この店を選んだ理由は、それだけではない。 「あ、え、国産レモンのチーズムースだって」 こっちは夏ミカンだ…さすがは彼だ、見つけるのが早い。彼の好物である柑橘類を使ったケーキ類が揃っている事も、この店に決めた理由だ。それからもう一つ。 「鷹久、ココアのシフォンロールあるよ。これいいじゃん」 そちらも目に留めてくれた僚に、神取は小さくため息をもらす。こちらの好物も同じように喜んでくれる彼に、胸が弾む。なんともむず痒い、愉快な気分になった。 良い気分に包まれた神取は、頭に浮かんだ一つの提案を僚に持ちかけた。 それはお互いの好物を交換する、というものだ。 「あ、いいね。じゃ俺のおすすめは、この国産レモンのチーズムースな」 「乗ってくれるかい。君はココアのロールケーキで」 「食べる食べる。いつも鷹久、すっごく幸せそうに食べてるから、ちょっと味見したいなって時もあったんだ」 本当に、いい顔してるから。 僚は重ねて言葉を綴り、恥ずかしそうに目を伏せる男に笑いかけた。 珍しい表情を引き出せた事に喜び、僚は提案に乗った。ケーキにはホットコーヒーを合わせ、注文を決める。 メニューが下げられた後、僚はさりげなく店内を見渡した。カウンターもテーブルも、すっかり満席だ。席を埋めた彼らの思い思いのお喋りは、幾重にも重なり合ってさざ波のように店内を満たし、といって自分たちの声がお互い届きづらいという事もなく、初めて訪れた店ではあるがゆったりくつろげる、居心地の良さを感じた。 いいお店と、男に感謝を告げる。 「このくらい賑やかなの、なんか好きだな」 思えば、男が選ぶ店はそれぞれタイプが異なるが、どこもほっとくつろげる暖かさがあった。それなりに高級なレストランでも、こういったカジュアルな喫茶店でも、変わらずほっと肩の力を抜ける。 それは良かったと微笑む男を見て、ああ、と僚は答えに行き着いた。そうか、男と一緒だから肩に余計な力を入れずに済むのだ。男と同じ空間にいるから、こうしてゆったりした気分でいられるのだ。それがわかって、しみじみと噛みしめると、何とも言えぬ贅沢な気持ちになった。 届いたカツサンドは写真よりもずっと迫力があった。パンの表面はこんがりといい焼き色がついてとても香ばしく、食べ応えがあった。少し濃い目のソースが実によく合う。これでもかと詰め込まれた千切りキャベツと、分厚いヒレカツを前に、僚は奮闘した。一杯に頬張って噛みしめ幸せを味わっていると、向かいで男も同じように善戦していた。 目が合い、お互い笑う。 また贅沢な気分がやってきて、僚の身体を熱くさせた。手指の先まで満ちていく幸福感にたっぷりと浸り、僚は黙々とカツサンドを堪能した。 とうとう最後のひと口になる。名残惜しさを堪えて口に運び、僚は飲み込んだ。ごちそうさまとコーヒーを啜り、満腹になった腹に手を当てる。店内は相変わらず混み合い、テーブルの合間を縫うようにして店員が忙しく行き交っていた。人様の注文品をじろじろ見るのは大変失礼だが、クリームソーダの綺麗なグリーンと白、ナポリタンの温かみのあるケチャップの赤、それらが強烈に目を引き付け、見ずにいられない。もう満腹で後はデザートを待つのみの腹具合だが、目の端をそれらが横切る度、ついつい、美味そうだと思ってしまう。 間もなく、待ちかねたケーキセットが運ばれてきた。 深みのあるあめ色のテーブルに、白いデザート皿が並ぶ。 片方は、ココア生地と真っ白なクリームの対比が綺麗なロールケーキ。 もう一方は、国産レモンの皮も実も果汁も全部使ったチーズムースケーキ。 新たにコーヒーが注がれ、立ち上る白い湯気もまた気分を盛り上げた。 「……じゃ」 いただきますと、二人はフォークを手に取った。 僚はそこで動きを止め、男に注視した。 視線に気付いた神取は一旦ちらりと見やってから、感想を期待して待つ僚の為にフォークを口に運んだ。 「うん……甘酸っぱい味わいが、とても幸せな気分になるね」 どことなく気難しい顔になった男に、僚は堪えきれず笑った。感じ入った時ほどああいう顔になる、何度も見てきたが、何度見てもやはりおかしい。落差が笑えて止まらない。 「よかった。チーズケーキって結構こってりだろ、だから甘酸っぱい果物特に柑橘類が合うんだ」 嬉しいのとおかしいのと合わさった満面の笑みで、僚は言った。そして、ほっとしたところで自分のケーキにとりかかる。 「ココアと生クリームの相性は抜群のはずだから、きっと気に入るよ。ぜひ味わってみてくれ」 熱心に推奨され、本当に好きなのだと伝わってくる語りに僚は何度も頷いた。 「なあ鷹久、俺の一番の贅沢、なんだかわかる?」 さてなんだろうと考え込む正面の顔に、僚はにやりと頬を緩めた。 「これ、鷹久好きだよなって思いながら、鷹久の前で好物ばくばく食べちゃう事」 「おや。誰かさんも中々、意地悪だね」 「ええ、いや、誰かさんに比べたら可愛いものだろ」 「なんの、誰かさんも引けを取らないよ」 「いいよもう、食べちゃうから」 「ああ、ぜひ味わってくれ。気に入るといいのだが」 嬉しそうに弾む男の声。今の今まで、小憎らしい声を出していたのに、なんて切り替えだ。 本当に好物なんだ、おすすめなんだと思うと、より喉が鳴った。つばが口中に溢れる。 僚は切り分けたひと口を頬張った。はっと目を見開く。 ココア生地で白いクリームを抱き込んだだけで、てっぺんに粉砂糖を振りかけるとかフルーツで飾るとか、一切装飾はない。 見た目はとてもシンプルだが、舌の上でとろけてとても味わい深い。 一番の贅沢を味わいながら、僚はひと口、またひと口と手を動かした。 向かいで男も、嬉しそうにケーキを口に運んだ。 「美味しい」 「だろう。君のおすすめも、最高だね。さっきからほら、手が止まらないよ」 そう言う間も、神取はせっせとフォークを動かす。 僚はやや伏し目がちになって、ゆっくり微笑んだ。 一番の贅沢。 男とこうして向かい合って美味いものを食べながら、美味いなって言い合う事。 男も、そう思ってくれたかな。 自分と一緒に食べるのが一番の贅沢だと、思ってくれてるかな。 男の事だ、もっと甘ったるい事をさらりと言ってのけるだろう。 聞いているこちらが赤面してしまうような事を、平気な顔で言うのだ。 そういう人だから。 贅沢な時間を心行くまで堪能しながら、さてなんと礼を言おうか、頭を悩ませる。 こうして一緒に食べるのが本当の一番の贅沢だ、なんて、たまには素直に伝えようか。 しかし、それを思っただけで身体がむず痒くなって、とてもじゃないが口に出来そうにない。 ではどうしよう。 こんなに美味しい時間をくれた男に、なんと礼を言おう。 身体の底から溢れてくるこの好きという気持ちを、どうやって表現しよう。 悩みながらもケーキをつつく手は止まらない。合間に飲むコーヒーも実に絶妙だ。 向かいで男も、美味いと言って頷いて、ケーキを食べるのに忙しい。 男が美味そうに食べてるとこ見るの、本当に好きだな。 しみじみと思うと、愉快な気持ちで胸が一杯になった。 悩みに悩んで、僚は心を決めた。 次もまた一緒に食べたい…互いの皿が空っぽになったら、ごちそうさまに添えてそう云おう。 |