チクロ

チョコレートの祈り

 

 

 

 

 

97/1/22 水
 玄関の鍵を閉め、桜井僚はまっすぐ部屋に向かった。
 キッチンの灯りをつければいいのだが、台所仕事をする以外はつける事を面倒がり、大抵はこうして暗闇を手探りで歩いている。だがもう、身体が歩幅と歩数をすっかり覚え込んでいたので、よっぽどいい加減に歩かない限り、どこかに手足をぶつける事はない。ちょっと手探りするだけで、すぐにスイッチにたどり着いた。二、三の瞬きと共に部屋が明るくなる。
 僚は続いて暖房をつけた。
 すぐに稼働を始めたが、温風が噴き出すまでしばらくかかる。しばらくの間、充分暖まるまで、コートもマフラーもそのままだ。

「……さみ」

 僚は零し、肩を強張らせた。
 外に比べれば風がない分穏やかではあるが、ひんやりと纏わり付いてくる冷気は芯まで染みて、骨すら凍えそうだ。
 抑えても震えが上ってくる。
 しかし、心はうきうきと軽やかだった。
 僚は、荷物から二つのお菓子の詰め合わせを取り出した。片方は袋そのまま、もう一方は、ユーモラスなデザインのポーチに収められている。それらを眺めながら、今日の出来事を思い返す。我ながら見事な腕前だったと自負すると、自然と頬が緩んでいった。同時に、肩に何度も受けた衝撃も思い出された。ますます顔がにやつく。
 キャンディーが一杯に詰まったポーチを見つめ、僚は思案する。
 この妹への、家族の分はいつ持っていこうか。
 明日の木曜日は自主練習の日、学校からまっすぐ向かって、目一杯時間を使いたいから無理だ。
 その次の金曜日は、ようやく男に会える日だから無理で、そのまま泊まりになったら土曜日も駄目として…となると。

「日曜日だな」

 半ば無意識に呟く。
 昼前に行って渡して、帰ってくればいいと、僚は頭の中で計画を組み立てた。
 今の時期、冷蔵庫に入れておけばそうそう傷まないだろう。
 よし、と頷く。
 そして、男に渡すこのチョコレート。彼が好きそうなタイプをありったけ選んだ。
 喜ぶといいな。
 どれから食べるだろう。
 もし気に入ったのがあったら、また買いに行こうか。
 あれこれ想像を巡らせていて、ふと、自分が取ったこのポーチもちょっとばかり自慢したくなった。
 金曜日、チョコレートと一緒に持っていって見せびらかそう。
 まさか、欲しがったりしないよな。
 他愛ない妄想を繰り広げ、一人笑う。
 そんな中彼へ送るメールの文面を考える。この事は当日のお楽しみに取っておきたいから、あえて触れないでおこうと、僚はいつもと同じお疲れ様のメッセージを送った。
 少しして、返信が来る。いつもいつも、律義な彼。お休みの挨拶がしたいので、その時また、と締めくくりにあった。顔がにやけてしようがない。
 ようやく、部屋が暖まってきた。
 僚は二つの詰め合わせを冷蔵庫にしまうと、家事に取り掛かった。

 

 

 

97/1/23 木
 かちりと鍵を開け、僚はしずしずと玄関に入った。おじゃましますと声をかけるが、家主は不在で返答はない。家主は現在、別の五階で仕事中だ。
 学校を出る前、男に向けてメールを送った。これからマンションに向かい、自主練習に取り掛かる、そう送って五分もしない内に返信が来た。いつもまめで律義な人。
 傍にいなくても、こうして繋がっている事を感じされてくれる、大切な人。
 だからつい調子に乗って、ちょっとした事でもメールを送りたくなってしまう。必ず返信が来るからだ。ほんの一言二言で、友人らとのやりとりのように絵や記号を添える事もなくともすればそっけない文面に見えるが、どれほどの想いがこもっているかは一目瞭然だ。
 暇な時なんてそうないだろうに、一体どう周りの目を盗んでメールを打っているのだろう。時々想像しては、一人笑う。こうやって自分がにやにやするように、向こうも、こちらからのメールに笑ったりするのかな。
 あれこれと他愛ない事を考えながら、僚はチェロのケースを担ぎ一階の音楽室に向かった。
 今日も全力で練習に励んだとメールが送れるように、真剣に頑張ろう。
 自分に言い聞かせ、ケースを開く。

 

 

 

97/1/24 金
 始めは、捻った足首よりもその際に倒れて打った上半身の方が痛かった。厚手のジャージを着込んでいたので擦り傷を作る事がなかったのは幸い、実際のところショックもそれほど大したものではかった。
 サッカーボールの取り合いで、三人ひとかたまりでもつれて倒れ込んだので、一人無様に転ぶのに比べれば恥ずかしさもなかった。
 みんなで、手を払いながらお互いごめんごめんと声を掛け合い、立ち上がる。
 試合を再開しようと足を踏みしめたところで、本当の、血の気の引く思いを味わう。

「桜さん、もしかして今ので捻挫したんじゃ」
「そりゃますいよ、保健室行こうぜ」

 踵でしっかり踏ん張れず、つま先立ちになる僚を見て、上杉と稲葉がそう声を上げる。
 ちょっと捻ったくらいだ、保健室に行くほどではないと、僚は笑顔で応えた。しかし自分のその顔が強張ってしまうほどに、痛みは見る間に膨れ上がっていった。
 頭の中でぐるぐると渦巻く。こんなもの捻挫ではない、ちょっと捻っただけ、痛いのも今だけ、何度か足首を動かせばすぐ元に戻る。
 そんな願いも虚しく、一歩踏み出すのさえ困難なほどの痛みが僚を襲う。
 何かの間違いだと、僚は思いたかった。
 しかしそれにしては、足首の痛みはやけに生々しかった。
 どうにかたどり着いた保健室で応急処置を受ける。保険医の夏美先生の見立てでは、骨に異常はなし、軽度の捻挫だろうという事だった。
 念の為に医者に行くよう言われ、僚は曖昧に頷いた。
 その後どうにか教室に戻ったが、気付けば放課後を迎えていた。今日最後の授業を、どう受けたか記憶にない。
 頭の中はひたすら、男の事が渦巻いていた。
 左足は、がんがんと、ずきずきと痛み脈打っている。
 心配するクラスメイトに僚は片っ端から笑顔を見せた。ちょっと前まで、得意なものの一つだった。しばらく使っていなかったのでいくらかさび付いていたが、どうにか彼らに信じ込ませる事は出来た。
 腕時計と壁の時計と続けざまに見る。もうすでに、校門に車は止まっているだろう。
 鞄を手に立ち上がる。試しに一歩踏み出し、どうにか歩けそうだと思った僚は、殊更明るい顔で校舎を出た。
 おかしな歩き方…明らかに異常のある左足に気付き、運転席から飛び出した彼は心配そうに見やってきた。
 ちょっと、しくじっちゃって。
 そう笑い飛ばそうとしたが、近付くにつれ、後部座席からの視線も見えてきた。
 その途端、図らずも涙が滲んだ。どうにか笑いの顔を保とうとするが、それ以上の勢いで唇は震え喉が詰まった。
 最後の授業の間ずっと、男に会ったらこういう態度で接しよう、こう言って失敗を笑い飛ばそう、一緒に笑い話にしてもらおうと、口から出す台詞を考えていた。
 あれだけ考え練ったのに、実際男の顔を見ると、それらはいっぺんに吹き飛び消え去り、ただただ情けなさに苛まれた。
 男に、あんな顔をさせてしまう自分が嫌になる。
 僚は開かれたドアの前でしばしたたずみ、滲む涙を瞬きで追い払いながら車に乗り込んだ。
 ちょっと、しくじっちゃって。
 声は全く出なかった。
 あれほど考え、用意していたいのに。
 僚はどうにか後部座席に収まり、どうしてこんな事になってしまったのか説明した。
 痛む足が思考を邪魔して、下手な小細工が出来なくなっていた。
 ちょっと前なら上手く装って、つゆほども感じさせず隠し通す事が出来たのに、どうしてか男の顔を見ると、声を聞くと、痛い痛いと泣いて甘えたくなる。
 実際に甘える。
 病院に向かう道すがら、男は何度も励ましてくれた。
 運転席の彼も、何かと気遣ってくれた。
 それらを受け取るごとに、足の痛みが増していくようだった。僚は、車内のほとんどの時間窓の外に顔を向けていた。返答の声はまだ何とか元気に装えるのだが、痛みをこらえるのにしかめっ面になってしまい、それを見せるのが嫌だったからだ。
 病院で診察を受け、処方された薬を手に外に出た僚は、どうして自分がここにいるのかわからず一瞬頭が真っ白になった。
 本当なら今頃レストランについて、男と一緒に久しぶりの食事会を楽しんでいるはずではないか。
 処置を受けて履けなくなった片方の靴を袋に提げて、よたよた歩いている自分はなんだ。
 手を借りて車に乗り込む。いつかのように、肩に手が添えられた。大きくて暖かい男の手も、今は、苛々するばかりだった。
 実家へ送ろうと、男が提案してきた。断り、渋るが、頼れる家族がいるのだからこういう時は甘えるべきだと説得され、更に苛々が募る。駄々っ子と変わりない自分がますます嫌になる。
 これほど短絡的になってしまうのは、痛む足にひたすら耐えているからだった。ひとえに足の痛みからくるもの。一つ事に囚われ愚図るのは元々僚の中に微量にあるものだが、普段は健康さに圧倒され出る事はまずない。頭を出しても、生来の楽天さにすぐに追い払われてしまう。
 それが、思いがけないこの怪我のせいで、強く出てしまったのだ。
 健康体ならば追っ払えるウイルスに、弱ったせいで感染してしまったようなものだ。
 僚は殊更口を噤み過ごした。痛みを堪えるので精一杯だった。下手に口を開くと余計な事を言ってしまいそうで、怖かった。今こうして無言で過ごしているのも嫌なのに、もしも下手な事を口走ってしまったら。
 これ以上の迷惑はないのに、どんな嫌な思いを男にさせてしまうか。
 嗚呼足が痛い。
 実家近くで降りる際、小さくごめんなさいと告げる。今出来るのはそれくらいだった。口を開くと、情けなさに泣いてしまいそうだ。
 治す事だけを考えて過ごしなさい、こちらは心配いらないと、男は言った。
 ろくに顔も見ず、曖昧に笑って頷く。
 実家に帰り着くと、当然だが親たちは驚きの声を上げた。
 母も義父も、妹は茶化しを交えたが、みな一様に心配を顔に上らせた。
 少々気まずかったが、この時はすらすらと言葉が口をついて出た。装うのも、難しくもなんともなかった。
 わあわあとひとしきり騒ぎ、階段の上り下りは危険だからと、一階の空き部屋でしばし生活する事が決まる。
 ようやく部屋に一人になった僚は、母親が持ち込んでくれた椅子に腰かけ、病院でもらった薬やら鞄の中身やらを整理し始めた。
 鞄を開けてすぐ、しまったと血の気が引く。
 しばし硬直の後、僚はチョコレートを手に取った。
 下がった血の気が一気にのぼり、汗となって噴き出す。
 今日渡すつもりだった。ついさっきまで一緒だったのに、どうして一瞬でも思い出さなかったのだろう。そんなに、自分の事ばかり考えていたのだ。
 ほとほと嫌になり、僚は拳で額を打った。
 痛い、情けない、自分はなんて馬鹿なんだ。
 しばらく硬直したのち、僚はやけ気味に笑った。
 いいや、家族に食べてもらおう。
 丁度ポーチも入ってる、綾瀬に顔向け出来るし、よかった。
 隣接したリビングから、ふすまを通して賑やかなテレビの音声が聞こえてくる。
 僚はそれをぼんやり耳に受けながら、ひたすらチョコレートの詰め合わせを見つめていた。

「………」

 男の名前を口にしたつもりだった。しかし声ははっきりした形にならず、すぐに空気に溶け、消えてなくなった。

 

 

 

97/1/25 土
 無意識に寝返りを打つ度に痛みで起こされ、息の詰まる思いを味わった。やがてうつらうつらと眠りに向かい、また痛みで息が詰まり、繰り返すうちに夜が明けた。
 家族が起き出し、次第に賑やかになっていくのを聞きながら、僚はのそのそと布団から起き上がった。起き上がろうとした。たかだか足首の痛みで、起きるのにこんなに苦戦するとは思ってもいなかった。
 ようやく布団からはい出したところで、リビングから妹が声をかけてきた。朝食はとれそうか、という内容だ。
 食欲がないようなら無理にとは言わないが、少しでも腹に収めておいた方がいいと心配する声に、よっぽどでなければ食欲をなくす事のない僚は、苦笑いを浮かべつつ食べると答えた。
 了解と続くふすま越しの声は、どこか嬉しそうだ。
 ぱたぱたと、スリッパが遠ざかる。キッチンに向かったのだろう。
 ぐずぐずしている場合ではない、僚は気合を入れ、着替えに取り掛かった。最後に足首の状態を見ると、昨日とまるで変わらず熱を持ち、ぷっくり腫れ心持ち赤味を帯びていた。
 ここを痛めたのだ、とひと目でわかる状態。
 恐る恐る、足首を動かしてみる。ほんのわずか試したところで、僚はすぐにやめた。湿布をはり、薬局で貰ったバンドで固定すると、いくらか呼吸が楽になった。
 いつ治るのだろう。本当に治るのだろうか。
 顔を洗いながら、襲ってくる不安と戦う。
 何とか身支度を済ませリビングに向かおうとすると、小さな折り畳みテーブルを手に妹がやってきた。続いて母親が朝食を運び入れ、瞬く間に食卓が整った。
 数日は絶対安静だ、絶対安静のレベルはこれくらい、捻挫は舐めてかかったらダメ、家の中でも転んで大怪我をする事があるから侮れない、ふすまは開けておくから寂しくはない、かわるがわるまくしたてられ、僚はただただ圧倒された。
 ふと見ると、トレイにはチョコが二つ乗っていた。
 家族のおせっかいはこうも鼻の奥が痛くなるものかと、僚は小さく息を吐いた。
 昼も、夜も、同じように離れ小島で食事となった。ふすまを開けてリビングと一続きになっているし、気を使って喋りかけてくれるので、寂しさに落ち込む事もなかった。
 食事には毎度チョコレートが二つついてきた。どうやら妹が管理と分配をしているようだ。ポーチに大喜びし、チョコレートの詰め合わせに小躍りし、小さな容器に詰め替えて、都度家族に分けていた。容器を開ける度また沢山あると嬉しそうだ。
 出来るだけ何も考えないようにして、僚はそれを口に運んだ。
 ほとんど部屋から出る事無く、一日は過ぎていった。

 

 

 

97/1/26 日
 足首を固定し出来るだけ動かさず安静にして、こまめに湿布を取り換えてきた。
 家族の協力もあって、初日のあの悶え苦しむずきずきとした痛みはすっかり引き、多少ならば歩行も可能になった。よほど乱暴にしなければ痛みも襲ってくる事はなくなった。
 交互に足を踏み出すのではなく、一回ずつ揃えて歩く不格好なものだが、それでも立って歩けるまでに痛みが引いた事で気持ちも随分と回復し、日曜の午後には、離れ小島からリビングのテーブルに移る事も出来た。
 夕飯の後、リビングで一緒にテレビを見て笑う元気も出た。
 ソファーでくつろいでいると、妹が冷蔵庫から件のチョコを取り出し、食べるかと聞いてきた。
 もらうと返すと、透明な四角い容器が差し出された。容器に一杯だったチョコは、半分ほどに減っていた。適当に選び礼を言う。
 冷蔵庫で冷やされたひと口チョコはまるで氷のように硬かった。齧ろうとして思いとどまり、僚はゆっくり舐め溶かした。やけに苦いチョコだ。
 番組が終わったのをきっかけに、僚は部屋に戻った。背中に、お父さんが出たら次お風呂ね、と声がかけられる。
 部屋の隅の柱に寄り掛かって座り、携帯ゲームを膝に乗せる。金曜の夜、妹から差し入れられたものだ。空き部屋の和室はテレビも何もないので、せめてもの退屈しのぎにと渡された。
 単純なパズルゲームだが中々奥が深く、ちょっとした時間潰しにもやり込むにも向いていた。
 ゲームの最中、僚は何度も目をテーブルに向けた。そこに置いた携帯電話を見る為だ。本当は目にしたくないのだが、身体の向きのせいでどうしてもそこに目が吸い寄せられるのだ。
 あれほど毎日、朝から晩から電話をしてメールを送り浮かれっぱなしだったのが嘘のように、一度も連絡していない。
 こんな事をしている場合ではないと思いながら、僚は逃げるようにゲームに没頭した。
 部屋は十分明るく、暖房だって効いているのに、妙に薄暗くて薄ら寒くて、そわそわ落ち着かない気分になった。一体何の感情がそうさせているのかわかっていたが、僚はあえて見ない振りを決め込んだ。
 やがてドア越しに義父の声がして、僚は着替えを手に風呂場に向かった。

 

 

 

97/1/27 月
 母親の運転する車で、僚は学校へと向かった。いつもの登校時間からするとずっと早いが、駅の階段を上り下りするのを思えば、そんなもの問題ではない。非常にありがたく、助かると、僚は助手席でため息を吐いた。以前と比べ随分素直になった、なれたものだと、自分を見直して改めて思う。以前のままなら、何が何でも突っぱねただろう。
 こんなに変わった、変われたのは――。
 移り行く景色をぼんやり眺めていると、帰りは何時ごろかと母が聞いてきた。もうだいぶ足も動かせるようになったので、電車で帰れると答える。
 ちょっと遅くなるかもしれないけど。
 笑って続けると、少しおっかない顔…心配気味に、無理は禁物、ちょっとでもおかしいと思ったらタクシー呼びなさい、お金の心配なんてしなくていいからと、言い渡される。
 ありがとうと礼を言い、気を付けると約束する。
 放課後、僚は心配する面々にまた明日と手を上げ、アパートに向かった。
 冷蔵庫に入れっぱなしの、本来妹に渡すはずだったキャンディーの詰め合わせを取りに行く為だ。
 それから、急に不在にした後始末もする。
 空気を入れ替え、部屋を整頓し、細々とした用事を片付ける。
 思ったより動ける事に、僚は喜んだ。
 週末ゆっくり出来たお陰で、もう一人でも不便なく生活出来そうだ。今夜まで実家の世話になって、明日にはこっちに戻ろう。
 ぐるりと見回し、アパートを後にする。
 実家に戻り夕飯時にその事を口にすると、当然ながら心配の声が上がった。親ならば当たり前の気遣いだ。もう少しいればいいという家族を説得し、また来月寄ると約束する。
 その日の夜は、疲れから早くに睡魔が襲ってきた。週末ほとんど動かずのんびりしすぎたせいで、反動が来たようだ。
 何かを忘れている事にはあえて触れず、僚は早々に布団をかぶった。

 

 

 

97/1/28 火
 学校帰りに必要な買い物を終え、夕刻、僚はアパートに戻った。
 結構な荷物になったが、途中までクラスメイトが協力してくれたお陰で、足への負担はほとんどなかった。
 実際にあちこち回ってくれたのは彼らで、そうなるに至った昼休みの出来事を思い出す。

 え、桜さんもうアパート戻るの?
 まだ世話になっときゃいいのに
 上杉に続き、綾瀬が発する。
 じゃ、俺様お手伝いに行こうかな
 ばーか、オマエが行っても邪魔になるだけだろ。
 なにおう、マークよりお役立ちですう。
 ぬかせ、オレとどっこいだろうが。
 そんな事ないよね桜さん。
 あんたら野郎どもが雁首揃えても、むさ苦しいだけじゃん、やっぱここはアヤセじゃないと。
 面白そう、優香が行くなら、私も行こうかな。
 いいね、園村も、桐島も黛も、一緒行こうよ。どんな部屋してるか、見てやろーよ。
 貴様らいい加減にせんか
 そうだよ、迷惑考えな
 けが人の負担になるのがわからんのか。
 えー、だってその怪我、何かアヤセのせいみたいで責任感じてるし。
 なにそれ。
 ほら、ゲーセンで、あれで運使い果たしちゃったのかなあって。
 そんなの。考えすぎだって。俺がちょっとドジっただけだから、そう気にするなよ綾瀬。
 いやいや、あれはオレ様が無理やり絡んだのが悪かったのよ。
 オレもちょっとムキになったし、桜井のせいじゃないって。
 まあ、みんなちょっとずつヘマしたってだけ。
 じゃあじゃあ、買い物あるっしょ。そのお手伝いなら出来るよ。
 いや、いいよ上杉。気持ちだけで。
 そう言わずにさあ桜さん、協力させてよ。

 それからまたわいわいと話は盛り上がり、気付けばすっかり買い物部隊が出来上がっていた。
 駅前のファーストフードで待っていると、次々に買い物部隊が成果を手に戻ってきた。
 申し訳ないと思いつつ、こんなお祭り騒ぎもたまには悪くないと、愉快な気分になった。
 困った時はお互い様だと、綾瀬が笑いながら例の強烈な一発をお見舞いしてきた。
 足の次は肩だねなんて、皆で笑った。
 そして駅前で別れ、アパートに帰ってきた。
 さて、片付けてしまおうと僚は気合を入れた。
 最低限の家事だけして、今日は…今日も、早く寝てしまおう。

 

 

 

97/1/29 水
 教室移動の際、歩く速度に合わせてくれるのがありがたくもあり、申し訳なくもあった。
 十分間に合うから、焦る事ねえよ桜井。
 そうそう。でも桜さん、月曜に比べたらずっと普通の歩き方になってるよ。
 昨日あれだけ皆に世話になったし、戻らなかったら申し訳が立たないよ。
 なんのなんの水臭い、いつでも頼ってちょーだい、オレ様と桜さんの仲じゃないっすか。
 ほんと、助かる。
 ええ、困った時はいつでもどうぞ、上杉急便がすぐに駆け付けるっすから。
 上杉オマエそれ、わざとらしすぎ。
 あ、オレ様の友情疑うなんてひどいわマーク。桜さんは、疑ったりしないよね。
 あーもう、相手すんな。
 もしオレ様が困る事あったら、桜さんとマークとよろしくね。
 もちろん、ちゃんと返すよ。ちゃんとね。
 ねえ桜さん、その言い方ちょっと怖いっす。
 やるじゃん桜井。じゃあオレも、そん時はちゃんとやるからな上杉。任せとけよ、俺とオマエの仲だもんな、だろ。
 マークも怖いぃ。

 入浴の後、あらためて左足を観察する。右足と比べても変わりないほど、形は元に戻った。着実に回復している。
 確か初日はもっと、足首もなくなるほどぼってり腫れていたっけ。
 今思えば馬鹿馬鹿しいが、ちゃんと治るのか心配した。要らぬ心配であった。ゆっくり回してみても、嫌な痛みが襲う事はない。
 しかし捻挫して以来ずっと、また何かの拍子に捻ってしまうのではと不安になる事があった。なので完治するまで油断せず、湿布とバンドは欠かさない。
 処置を終えひと息ついたところで、今日こそ、と僚は目を上げた。
 いつまでも目を逸らしていられない。
 今日こそ、あんな嫌な態度を取った事、謝らないと。
 連絡を取らないと。
 机の前に立ち、置いてある携帯電話を凝視する。
 しかしあと一歩勇気が出なかった。
 足も着実に治りつつある。ぐずぐずするのも今日までだ。
 明日、明日こそ必ず電話する。

 

 

 

97/1/30 木
 起床後ベッドに座り、僚は恐る恐るバンドなしで立ってみた。ゆっくり踏み出し、歩いてみる。
 一歩二歩三保四歩…踏み込みも蹴り上げも特に痛みに見舞われる事はなく、僚は一人部屋で笑顔になった。
 もう余計な心配せずに歩いて大丈夫なんだ、自由に足を動かせるんだ。
 なんて素晴らしいのだと、朝の支度をしながら噛みしめる。
 その晴れやかな顔が、一転して緊張に変わる。
 視界に、机の携帯電話が入り込んだからだ。ためらいがちに中身を確認し、今日こそ連絡するのだと覚悟を決めた途端、猛烈に寂しさが込み上げてきた。
 男に会いたい、声が聞きたい。でも、こんなに日をあけてしまった。メールの一通すら送らなかった。こんな薄情な自分、嫌われただろうか。
 嫌いになったからメールの一通もよこさないのか。どうしよう。いや、男こそ薄情だ。いやいや、自分が悪いんじゃないか。へまをして金曜日の約束をふいにして、情けない奴だ。
 ああ、どうしよう本当に嫌われていたらどうしよう。
 情けなく愚図りかけて、馬鹿だなと目を上げる。
 本当に馬鹿だな、そんな事ないのに。男は何かと忙しい身だ。でもどんなに忙しくてもメールを送ってくれた、送ればすぐに返信をくれた。離れていても大きな存在感をもって、自分を安心させてくれた。だから今回は、自分から責任をもって連絡取らねば。
 アパートに帰宅してすぐ、僚は一通のメールを送った。
 下書きの段階ではもっと長々とした文だったが、あっちを削りこっちを止めにして、結果、逢いたいとひと言が残った。
 土曜日に逢いたい。
 本当は今すぐにも逢いたいと、気持ちを乗せて送る。
 返信は間もなく来た。
 ほんの数分の事だが、無意識に一秒一秒数えていた僚には、たまらなく長い時間であった。着信の振動に、心臓が破裂しそうなほどびくつく。
 嗚呼本当に、なんて律義な人だろう。
 文面は短く簡潔で、久しぶりに見るそのそっけなさがとても嬉しかった。男の腕に抱きしめられる錯覚に見舞われ、僚は舞い上がった。自然と涙が滲む。

 

 

 

97/1/31 金
 夕食の後片付けを済ませ、その流れで明日の準備を終えた僚は、勉強机にどさりと座った。座るのは乱暴だが、机に置いた携帯電話を取る手は慎重だ。
 これから、メールではなく電話をする予定だからだ。まるで壊れ物を扱う手付きなのは、それへの緊張からだった。
 そして緊張しているのは、昨夜メールを送ったきり、今日のこんな時間までまた間が開いてしまったからである。
 昨夜からの調子で今朝も挨拶のメールを送ればよかったのだが、どうしてか奇妙なためらいが生じてしまい、送れずにいた。
 僚はメールを握ったまま頬杖をついて、そのまま、横目で机の上のあるものを見た。
 可愛らしいお菓子のイラストが散らばっている透明の袋に、ぎっしりチョコレートが詰め込まれている。
 今日の放課後、先週綾瀬らといった雑貨デパートに向かい、先週より更に吟味して買ったものだ。
 明日男に渡す為に。
 僚は机に置いた詰め合わせを、祈る目で見つめた。
 それから意を決して、男に電話する。三回呼び出して出なかったら切ろう、そう決めて数えるが、そうするまでもなくすぐに電話は繋がった。
 耳によく馴染んだ優しい低音に、思わず息が詰まる。そのせいで声を出すのが一瞬遅れてしまった。変に思われたろうかと己の失敗に顔を熱くしていると、男は謝罪を口にした。
 忙しさにかまけ、こちらからきちんと連絡出来なくて悪かった、そう詫びる男に、僚は何度も首を振った。

「そんなのいい、そんなのいいから、早く会いたい」

 明日になるのも待てないほど、早く会いたい。
 足が治ったの早く見せたい。もうすっかり歩ける、元に戻った。
 ため込んでいた気持ちが一気に弾け口から迸った。
 本当はもっと、きちんとした前置きを考えていたのに、それらは綺麗に吹き飛んでいた。
 男が、こちらのせっかちな声に合わせて一つひとつ頷く。どんな顔で聞いているのか目に浮かぶようで、僚はそれが嬉しくて、会いたい、顔を見たいと繰り返した。
 自分勝手に喋っていてふとした瞬間に、我に返る。

「まだ仕事中?」
『ああ、もうすぐ済む』
「そう、明日、楽しみだ」
『私もだよ』

 沈黙。

「明日、午後から会えるね」
『ああ。約束は一時で大丈夫かな』
「うん、一時に」

 また沈黙。
 まだ仕事の途中なのだから、長電話で迷惑かけてはいけない、もっと潔く気持ちよく通話を終えねばと、気ばかり焦る。
 明日になれば会えるのだ、何の心配もいらいない。
 そう思って口を開くと、一瞬早く、男が言った。

『明日会えるのを、楽しみにしている。元気な姿を見せてくれ』
「わかった、うん……期待してて」
『ああ。それでは明日、一時に』
「うん、また明日ね」

 おやすみなさい、それで通話を終えようとした時、男からひと言が贈られた。君が好きだよと低い囁きに、僚は息の根が止まりそうになる。何とか声を絞り出し、自分もと返す。笑うような間があり、あたふたしているとお休みと声をかけられ、通話は切れた。
 僚は耳に当てていた手を下ろし、随分経ってから息を吐いた。片手で顔を覆い、もう一度息を吐き出す。
 憎らしくて、腹立たしくて、本当に好きだ。
 僚はゆっくりと微笑んだ。

 

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