チクロ

今日の太陽

 

 

 

 

 

 その日は…その日も、凍えそうに寒い朝であった。
 毎朝、昨日より寒いと目を覚ます度に震えが走った。今日こそ一番寒いと、ここのところ毎日のように思っている。
 その上今日は、雨も降っているようだ。窓越しにかすかに聞こえる雨だれに、桜井僚は思い切りため息をついた。
 道理で部屋も中々暖まらないはずだと、緩慢に伸びをする。右にごろり左にごろりと転がって起きようともがくが、中々決心がつかない。特別寒さに弱い訳ではないが、かといって寒さ知らずでもない。こんな朝は布団から出るのが名残惜しく、動きも頭の回転も鈍くなる。もうすぐ、今すぐ出ると思いつつも、手足はだらんと寝転がったままだ。
 そんな愚図りが、ある一通のメールによって解消される。たったひと言ふた言の短い文面だが、他でもない男からの朝の挨拶は、僚に気力をみなぎらせた。まず、布団から飛び起きる力を与え、今日という日をしまいまで駆け抜ける糧を与えた。
 メールの返信を送って僚は、にやけ面でそっと携帯電話を置き、朝の支度に取り掛かった。
 起きてしまえばこっちのもの、寒さに耐えつつキッチンと部屋とを行き来して、服を着替え顔を洗い、朝食の支度に学校の支度にとよどみなく動き回る。
 もう、以前のような生活には戻らない。あんなだらしないのはあの時だけだ、本当の自分はこっち。時々手を抜きつつやる事はやるのが自分だ。
 しかし、よくもあのゴミだらけから復帰出来たものだと自分の事ながら感心する。
 恥ずかしくて余り触りたくない過去の記憶をちょっとずつつつきながら、僚は作業を進めた。
 途中確認した空模様は、一面の白い雲からぽつりぽつりと落ちる雨に彩られていた。
 寒さにすぐ窓を閉める。
 傘は持って出るべきだな。
 振りがひどくならないといいが。
 今くらいの雨ならば、男のマンションに行くのもそれほど濡れずに済む。

「そうだ、タオル」

 独り言をもらし、もしもに備えての小さめのタオルを鞄に押し込む。
 今日は金曜日だが、男の迎えはない。今週頭から、長期の出張に出かけているのだ。それでも男のマンションに向かう理由は、チェロの自主練習の為だ。一日でも、一回でも多く触れればそれだけ上達する。プロを目指している訳ではなく完全に趣味の域だが、チェロの虜になっている僚は、一日でも多くマンションを訪れ、チェロを借り、練習に励んだ。
 今日も、家主は不在だがマンションへ向かう予定だ。
 今からもう、チェロに触れると心がうきうきと弾んでいた。
 厄介な雨さえ止んでくれれば完璧なのに。
 戸締りを済ませ、僚はアパートを出た。
 相変わらず雨はぽつぽつと降り落ち、冬の朝をより寒々しくさせた。特別なマフラーに顔を埋め、少し早足で歩き出す。
 途中、上杉や稲葉といったいつもの面々と会い、いつものようにコンビニに寄り、今日は暖かいドリンクを一本買い求め、学校に向かう。
 校門を過ぎ校舎に入ろうというところで、それまでぽつぽつとした降りだった雨が突如勢いを増した。ざんざんと傘を打つ雨に背中を押されるようにして、慌てて駆け込む。靴を履き替えていると、皆も同じように校舎に飛び込んできた。賑やかな声を聞きながら、階段を上る。
 教室に入ると、すでに登校していたクラスメイトらがおはようと少々間延びした声で挨拶してきた。
 僚は手を上げて返し、自分の席に着く。窓の外へ目をやると、校舎に駆け込んだ時より更に強い降りに変わっていた。見ると余計寒さが増し、震えが走る。
 窓際の席に固まった女子たちも、寒い寒い雨は嫌だと零している。寒いと言いながら声はとても元気で、なんだか笑ってしまう。そこへ上杉が混じり、ほんと、嫌になっちゃうわあと調子を合わせた。
 ざわざわと、いつも通り賑やかな朝の教室。あちらでは昨夜のドラマの感想、こちらでは最近買ったゲームの攻略、そしてそのどれよりも響く上杉のお喋りが、教室をよりいっそう騒がしくしていた。
 やがて予冷が鳴り響いた。

 

 

 

 午前中の授業が終わり昼休みになった。雨は朝の勢いのまま、相変わらず降り続いている。
 遠くにざあざあと聞こえる雨音は窓を一面濡らし、雫はあちこちでくっついては離れ流れ落ちていった。
 外はそのように薄暗く白いが、教室内はそこここで賑やかなお喋りが交わされ、みな思い思いに弁当を開いて腹を満たし始めた。
 僚は、今日はどうしても購買のパンが食べたいという上杉が戻るのを稲葉や南条らと共に待ち、揃ったところで包みを開いた。

「出ました、桜さん名物ドデカおにぎり」

 どこか嬉しそうな声の上杉に合わせて笑い、包んでいたアルミホイルをほどいてかぶりつく。

「今日の、なんかちょっと平たいね。潰れちゃった?」

 いつもはいかにも「おにぎり」といった三角型だが、今日は丸く平たい形であると、上杉は軽く首を傾けた。
 僚は笑って首を振り、雨のせいでちょっと億劫になり、適当な形で固めたらこのようになったのだと説明した。

「そんで、海苔巻いてごまかして出来上がりってね」
「いやでもさ、毎日ちゃんと自分で作ってくんだから、偉いよな」

 感心する稲葉の言葉に、南条と城戸が同感だと頷く。
 嬉しいが照れくさい。今日は少々手抜きをしたと自覚があるので、何に対してかわからないが済まなく思い、苦笑いで受け流す。

「桜さん、今日の中身はなに?」

 僚はもぐもぐと白飯を噛みしめながら、はて今日は何を詰め込んだかと朝を思い出す。梅干しは外せないのでまず一つ。それからそうだ、鳥そぼろにウインナー。
 作り置きや、冷凍保存のあれこれを適当に見繕い、詰め込んだら出来上がりの特大おにぎり。
 今日も美味そうだと、上杉は買ってきた焼きそばパンを頬張った。それを見ながら僚は、焼きそばもいけるのではないかと思い浮かべた。

「焼きそばもいけそうじゃない?」

 すると、考える事は同じようで、心を読んだかのように上杉は冗談交じりに言った。

「うん、俺もそう思ってたとこ」
「お、心が通じ合ってるねえ」
「ええ? 合うかあ?」
「前にコロッケ入れた事あって、結構美味かったから、焼きそばもきっと美味いよ」
「おお……何でもありだな」

 稲葉と城戸が複雑な顔をする。僚自身も冗談半分だが、濃いソース味が意外に合うのではないかと思案する。
 そこからぼんやりと、この特大おにぎりもいつか男に食べさせたい、披露したいなあと想像を巡らす。話には出したが、実際目にしたらきっと驚くだろう。驚いてほしい。かじる度に違う中身が出てくるちょっと楽しいこの感覚も、味わってほしい。
 海苔はしっとり派か、パリパリ派か。どっちだろう。
 具は何が好きかな、三種選んでもらおう、何を選ぶかな。

「またこの、美味そうに食べるのがいいよな」

 思案する様を、稲葉がそう評する。

「そうそう、やっぱり桜さんだね、何やってもサマになるね」

 オレ様の次にと付け加え、上杉はいつもの調子ででひゃひゃと笑った。
 一人好き勝手に漂っていただけのものをそう受け取られ、僚は内心焦りを抱いた。にやけ面になっていないだけましだと切り替え、二人に合わせて曖昧に笑う。

「ねー上杉、アヤセ前から気になってたんだけどさ」

 そこへ綾瀬が口を挟む。
 近くの机で、いつものメンバー…綾瀬、桐島、園村、黛で並び、互いの弁当の中身を見せ合いっこしながら、お喋りに花を咲かせていた。
 その途中から、彼女らの興味は僚の特大おにぎりに移っていった。真っ黒で大きい物体は中々目立つもので、中身は何だろうか、どうやって作っているのかなどを口々に言い合っていた。
 そして上杉のいつものつまらないジョークに力が抜けた後、綾瀬の頭にふと疑問が過ぎった。
 上杉は、斜め後ろからの声に身体をひねり、精一杯カッコつけた顔で白い歯を見せた。

「ん? ああオレ様のこの美貌は、宇宙のご意思によるものだぜ」
「ばーか」

 それを綾瀬は素晴らしい速さで一蹴する。その返答を期待していた上杉は、たちまちとほほと泣き顔になり、涙が出たつもりで目尻を拭った。
 その横で稲葉が、本当にこいつは馬鹿だから、と呆れる仕草をしてみせた。南条も一緒になり、大げさに首を振った。

「ああもう、みんなヒドイ! わかってくれるのは桜さんだけだわ」

 上杉は今度は、白いハンカチを噛みしめる仕草をして肩を震わせた。そして僚の方へ身体を傾け、慰めてくれと泣きつく。次から次へ、よく顔が動くものだと僚は笑いながら、軽く肩を叩いた。

「桜井、そんな甘やかす事ねえから」
「ああ、放っておけばいい」
「まあそう言わずに」

 稲葉と南条の冷たい物言いを、なんとか宥める。といって二人とも本気でそのように思っている訳ではなく、ある種の役割分担だ。南条も大分このやりとりに馴染んだようで、始めの頃は到底理解出来ぬと難しい顔をしていたのが嘘のように、楽しんでいる節も見られた。そう、楽しいのだ。自分も楽しい。随分変わったものだ。
 そこへ綾瀬の焦れた声が飛び込む。

「もーちゃんと聞いてよ」
「はいはい、ゴメンなさいね」
「そうじゃなくて、あんたなんで桜井の事、桜さん呼びなの?」

 綾瀬の頭にふと浮かんだ疑問に、二人は、上杉と僚は、一瞬時間が止まる錯覚に見舞われた。目を見合わせるが、それはお互い心の中だけで、実際は一秒にも満たない硬直だった。

「そういやそだな。なんとなく聞き流してたけど、気になるっちゃ気になるわ」

 稲葉の言葉で、みなの視線が上杉に集中する。僚はやけに苦しくなった胸にどうにか息を吸い込み、横目で上杉の様子をうかがった。まさか今になってあの頃に触れる事になろうとは。今日はやけに過去に触りたがる日だ。どうにか呼吸困難から抜け出そうとあがく。
 上杉は得意げな笑みを浮かべ口を開いた。

「ああそちらね。よくぞ聞いてくれました」

 おほんと咳ばらいを一つ。

「桜さんはオレ様の命の恩人なんすよ」
「なに、ぼーっとしてて車に轢かれそうになったとこ助けてもらったとかか」
「そうね、そんなような感じっす」

 へえ、ほう、と、感心した眼差しが注がれる中、僚は耳に全神経を集中した。上杉が何をどう語るつもりなのか、一言一句逃さぬと耳を澄ます。

「あれは中学の頃のこと……実はオレ様、かつて魔王のいけにえにされた事がありまして」

 興味津々といった顔が並んでいたが、続く上杉の言葉で、それらが一斉に崩れた。
 僚も、大きく表情を変える事はなかったが、目を見開き、まじまじと上杉を見つめた。

「魔王のいけにえにされ、オレ様は不遇の日々を送っていました…その、呪われた運命から助けてくれたのが、他でもない、桜さんだったわけです!」

 指をきちっと揃えて両手を差し伸べる上杉に、僚は思わず笑いそうになった。代わりに上杉が例の声で、でひゃひゃと身体を揺すった。

「ね、文字通り命の恩人でしょ」
「……もういいわ。聞いたアヤセがバカだったし」

 上杉に向けていた身体を戻し、アヤセはひらひらと追い払うように手を振った。
 気にせず上杉は喋り続けた。いつもの口から出まかせ、冗談の与太話だと聞き流してもらえるのはかえってありがたかった。

「桜さんの凄い事といったら! 襲い来る魔王の手下をちぎっては投げちぎっては投げ、最後は華麗に魔王を撃退…いやー見せたかったねえ」

 上杉は一人唸り、首を振った。

「あれでね、オレ様も目が覚めたんすよ。いずれは魔王様に食べられる身と嘆いて何もしないなんてバカらしい、出来る抵抗はするべきだってね」

 その頃にはもう誰もまともに取り合っていなかったが、上杉は満足そうに頷き、腕を組んだ。

「おら上杉、ちんたらしてっと昼休み終わるぞ」
「ひどいよマーク。えーん桜さーんマークがいじめるよー」
「桜井に迷惑かけんなって」

 大泣きの演技で俯いた上杉の肩を叩き、僚は笑いながら宥めた。上杉の言った事はでたらめだが、全てが嘘ではなかった。
 中学の頃のあの事件は、二人だけの秘密。

 

 僚と上杉は、同じ中学出身だった。
 三年とも別のクラスだった為ほとんど接点もなく、二人を変えたあの日になるまで、お互い顔も名前も知らない、ただ同じ中学の同学年というだけだった。

 

 覚えていたくない記憶のせいか、思い出せるのは半分ほどだ。
 誰でもそうだろうが、ひどくみっともない真似をした自分には、出来れば遭いたくないものだ。無かった事にしたい、今すぐ綺麗さっぱり消え去ってほしい。
 しかしそうやって意識するものだから、記憶は反発していつまでも脳内に残り続け、ふとした折に浮上しては悩ませた。
 三年に進級してからなのは覚えているが、いつ頃の事か時期はひどくあやふやだ。
 ただ、その出来事があったのだけは間違いない、それだけははっきりしている。
 事の発端はそれより少し前に遡る。ある日、とある失敗をしでかしてクラスメイトの前で大恥をかき、それが原因で上杉は陰湿な苛めを受けるようになった。
 僚は、その耐え難い境遇から上杉を救った。
 救った…と言えば聞こえはいいが、僚本人からすれば、自分が当時抱えていた鬱憤を、それにかこつけてぶつけたら結果的に苛めが止んだ、というだけのものだ。
 だから、上杉の言う命の恩人は彼にすれば真実だが、自分からすると意味合いが違う。八つ当たりのおまけ程度でしかなかった。
 思い出すのも忌々しい、恥ずかしくみっともない出来事。
 それは、中学三年の頃に起きた。
 上杉が苛めを受けるようになって、どれくらいか経った頃。
 あれは確か昼休みだったと、僚は遠く思い出す。
 階段近くの廊下で、数人の男子生徒が一人の男子を取り囲み、何やらはやし立てながら代わる代わる小突いている場面に遭遇した。
 いつもなら目にとめる事もなく通り過ぎすぐに記憶から消えるはずだったが、その時は何故だか無性に苛々して癇に障り、どうにかしてそいつらを吹き飛ばしたくてたまらなくなった。
 あの頃の自分は本当におかしかったと、振り返って思う。何かにつけすぐ苛々と頭が沸騰し、常に鬱積を抱えていた。これはいけない、おかしいと冷静になろうと努めるのだが、そう思う端から些細な事にすぐかっとなってばかりいた。
 それをそのまま吐き出すほどコドモではないと何とか己を制し、出来るだけ人と関わらないよう、口を利かないよう努めていた。そうすれば、攻撃的な自分を見せずに済む、無関係の人間をいたずらに傷付けずに済む。
 出来るだけ口を閉じ、何にも関わらないよう学校生活を送っていた。
 そうやって抑えに抑えて、無理やり封じ込めてきた反動だったのかもしれない。
 いつもなら見ない振りでやり過ごせただろうに、幼稚で下らない罵り言葉を延々繰り返す彼らの存在がたまらなく目障りになって、自分の教室、席が近い事もあり、後先考えずに椅子を掴み彼らに向かって投げ付けた。
 輪の一人に当たると、実に気分が良かった。ぎゃ、と情けない声を上げ、びっくりした顔で振り返った奴らの顔ときたら。一応の言い訳、苛めっ子を撃退する為と言い訳を振りかざす。だから遠慮しなくていいのだと、全力でいこうと力を込めると、びっくりするほど気分が高揚した。もっと良い気分になろうと、詰め寄ってくる彼らに次の椅子を投げ、続けて机を抱えた。
 さすがにまずいと危険を察知した彼らは、散り散りになって逃げていった。残ったのは主犯格らしい身体の大きな生徒と、小突かれていたやせっぽちの男子。
 主犯格は、一度は机を受け止めようと身構えたが、本気で投げる素振りに恐れをなし、背中を向けて逃げ出した。
 僚は、その後を追った。そこから少し記憶が飛んで、気が付くと職員用の駐車場に主犯格を追い詰め、今にも自転車をぶつけようとする自分がいた。こいつをぶつけられたら最高にいい気分になるだろう。頭はすっかり高揚していた。
 しかし自転車を投げる事は叶わなかった。
 苛められていた男子が、必死に止めに入ったからだ。
 主犯格は車を背にへたり込み、すっかり腰が抜けていた。立って逃げる事も叶わない、これなら間違いなく当てられるのに何故邪魔をするのかと腹が立って仕方なかった。
 ふと見ると、主犯格の座った辺りに水たまりが出来ていた。雨は降っていないのに何だろうと思ったところで、ああ、漏らしたのかと理解する。
 それを目にした途端、不思議と怒りが収まった。どうでもよくなり、頭上に振り上げていた自転車を投げ落とす。
 偶然近くに落ちたせいか、ひい、と情けない声を上げ、主犯格はめそめそと泣き出した。
 そこからの詳細な記憶はない。
 あれだけ大騒ぎしたのだから、親も学校に呼び出された事だろう。しかし、学校がどのように対処し、親がどのように始末したか、全く覚えていない。聞けば語ってくれるだろうが、あえて触れるつもりはない。
 それから、翌日だったか数日後だったか、苛められていた男子が声をかけてきた。
 僚はそこで、過去の記憶を追うのをやめた。
 あの時、命の恩人と心からの感謝を向けてくる上杉に、かなり辛らつな言葉をぶつけた覚えがあるからだ。
 お前の為にやったわけじゃないとか、この事を言いふらしたら承知しないとか、随分ひどい口を利いた。
 何様のつもりだと、自分が恥ずかしくなる。
 上杉とは、そこで一旦接点が途切れた。別のクラスの人間で、特に親しい訳でもない。積極的に動かなければ、二度と関わる事もないのだ。
 それから間もなく噂好きな生徒が運んできた話題で、上杉への苛めが止み、代わりに苛めっ子だった男子がからかわれるようになったと耳にした。駐車場には、騒ぎを聞き付けかなりの人数の生徒が集まってきていた。彼らの前で醜態をさらしてしまったのでは、さすがにそれまでのような調子ではいられないだろう。
 それらを聞いても、僚にはどうでもよかった。
 早く中学を卒業したかった。高校になったら、一人暮らしを始める予定を立てていて、親の了承も得ており、その日が待ち遠しく、そうなると残りの日数が苦痛でたまらなかったのだ。
 だからそれ以外の事など、本当にどうでもよかったのだ。
 それなのに上杉は純粋に感謝の心を持ち続け、高校で偶然再会してから今日に至るまで、敬意を込めて「さん付け」し、慕ってくれている。
 高校で同じクラスになった時は、ひどく驚いたものだ。名前はうっすら憶えていたが、苛めっ子に囲まれおどおどと首を竦めていたあの当時からすると随分イメージも変わり、華やかで賑やかな人物になっていた。髪を染め、制服もあちこち手を入れて、いくつものアクセサリーで派手に自身を飾り立てていたので、本当に上杉秀彦かと疑ったくらいだ。作っている部分もあるだろう、あの頃の自分を払拭したいとか、生まれ変わったつもりでとか、いろんな理由があるだろうがとにかく上杉という人間は本当は、楽しい事が好きなおもしろ人間なのだ。
 変わったというよりも、素の自分が出せるようになったと言うべきか。
 始めの頃は馴染むのに少々苦労し、噛み合わずぎくしゃくする事もあったが、騒々しいほど賑やかな上杉はいつでも変わらぬ態度で接してきて、そのお陰かいつの間にか自然に笑いが出せるようになった。
 自分も、あの当時から比べて変わったという事だ。
 誰かと関わる事で、今のように変わる事が出来た。
 少しは、変わったと思う。
 いや、あまり変わってないかもしれない。思い上がりは失敗のもとと、僚は自制した。これから変わっていくんだ。

「はあーごっさんごっさん」

 満足だと、上杉は両手で腹をさすり椅子に寄り掛かった。どうしても食べたかった購買のコロッケパンや焼きそばパンを心行くまで食べつくし、これ以上ないほど幸せだと顔中緩めた。

「ホント、オマエは頭あったかいな」

 小さな子供を宥める顔と声で、稲葉が言う。

「お腹もすっかりあったかで、もう最高っす」

 茶化してくる稲葉をものともせず、上杉は満面の笑みを浮かべた。

「しかしよく入るな。全部でいくつだっけ」
「食べ盛りの育ち盛りだからね。そういうマークこそ、あのぎっしりのご飯どこに入ったのよ」

 この辺、それともこの辺、と肩や背中の辺りにゲンコツを当てる上杉に、稲葉は笑いながらお前こそ、とお返しをする。
 そんな二人のいつものやりとりを聞きながら、僚は食後のデザートに持ってきたさつまいもとリンゴの甘煮を頬張った。

「あー桜さん今日のも美味そうで!」

 一つ欲しいなと、上杉は指をくわえる真似をして伸び上がった。

「だーめだよ」

 僚は手でさっと容器を隠し、上杉から遠ざけた。上杉は殊更むくれた顔になって、ケチと呟いた。これもいつもながらのやりとりだが、今日は、先ほどの上杉の冗談話の後だからか、綾瀬が斜め後ろから慰めてきた。

「桜井もさ、あのバカのお守りマジ大変だね」
「そりゃないぜ綾瀬ちゃん」
「うっさい」
「えー、そんな事ないよね桜さん」
「えー、さあどうかな」

 上杉のアクセントを真似て、冗談めかして笑う。たちまち上杉は大げさなほど目を見開き、この世の終わりだと両手で顔を覆った。

「あーもー鬱陶しいなあ」
「綾瀬ちゃんひどい」
「うっさい」

 そんな上杉を片手であしらい、綾瀬は続けた。一年の頃は結構アイツで苦労したでしょと、本気ともつかない彼女の言葉に何と答えるべきか迷い、愛想笑いで肩を竦める。

「なんていうかさあ、あの頃と今と、顔付きがちょっと違うもん」

 一年の頃はもう少しきつい目をしていた、そんなような事を言い、綾瀬は、今は大分あしらいに慣れたから目付きも変わったのかもと、曖昧ながら鋭く切り込む言葉を発した。喉が詰まったようになり、上手く飲み込めなくなった甘さをペットボトルの緑茶で流し込む。

「ああ、そういやそうだね。笑い方が全然違うよ。ま、あいつのお調子ぶりに慣れるのは、確かに苦労するだろうからね」

 続く黛の言葉に、僚は、かろうじて顔に笑みを貼り付けた。

「あの頃のCoolな感じも好みですけれど、やっぱり今のCuteな笑顔が一番ですわ。MAKIもそう思いません?」
「私は……うーん、どっちもかな」
「ねえねえオレ様は? どれが一番?」

 それまでの大げさな泣き真似をぱっと切り替え、上杉は身を乗り出して女子たちのお喋りに割り込んだ。

「って、オマエはよ……オマエのせいで桜井が苦労してるって話に、なに頭あったかい事言ってんだ」
「馬鹿だな」
「うむ、間違いなく馬鹿だ」

 稲葉に続き、城戸と南条が呆れ果てた顔でため息を吐く。

「俺を言うなら、南条だってそうだよ。それに城戸も」

 彼らが口を開いたのをいいきっかけに、僚は自分への意識を二人に向けさせた。褒められるのは悪い気はしないが、女子の話題の的になるのはどうにも気恥ずかしく落ち着かない。けれど、その一方で。
 上手い具合に話題は移り、南条たちも乗って、上杉はみるみる顔をしぐれさせた。

「えー、桜さん、オレ様迷惑じゃないよね?」
「さー、どうかな」

 僚は満面の笑みで首を傾けてみせた。彼女たちに持ち上げられ、悪い気はしないがむず痒いその一方で、無性に笑いが込み上げて、楽しくて、仕方なかった。

「うわーオレ様マジ泣きそう」

 上杉はショックだと目を見開き、天を仰ぐ。

「まあまあ、最後の一つやるから、機嫌なおせって」

 そう言って甘煮の入った小さな容器を差し出す。

「えっ……え、いいの?」

 途端に上杉は心底びっくりした顔になり、先から続いている笑い出したい衝動とあいまって、僚は思い切り息を吐き出した。

「いらないならいいけど」
「いやいや、いただきます! やった、桜さん大好き! もう愛してるう!」

 容器を引っ込めようとすると上杉は大慌てで手を伸ばした。放たれた熱烈な愛の言葉は色にしたらきっと派手なピンクや黄色で、綾瀬があからさまに顔をしかめ「キモイ」とぶつけるが、当の上杉はまるで気にせず、うきうき顔でリンゴの甘煮を頬張った。
 僚はその様子をそれとなく見守った。自分好みの甘さは果たして口に合うかどうか。要らぬ心配であった。
 上杉は幸せ一杯の顔で美味い美味いと繰り返した。
 それを見て、稲葉らは呆れ顔になった。

「まったく図々しいなオマエは……長生きするよ」
「こんな美味しいもの食べたら、長生きしなきゃ申し訳ないっすからね」

 今日の太陽はここにいたのかと思うくらいのぴかぴか笑顔になって、上杉は椅子にもたれた。

「いやー、ごっそさん、ありがとさん。ホントに美味かったっす、ホントに」
「お粗末さまで」

 僚は返された容器を受け取り、鞄にしまった。時計を見ると、昼休みはあと半分ほど残っている。窓の外では雨が同じ勢いで降り続き、中庭の木々やベンチ、景色を濡らしていた。
 ふと、男に想いを馳せる。
 長の出張で経って、今日で何日目だったか。
 向こうも雨だろうか。
 昼はもう済んだか。何を食べたろう。
 食後の特有の、ゆったり迫りくる眠気の中、僚は送るメールの文面をぼんやりと思い浮かべた。定期連絡というわけではなく、毎日の生活でなんとなく定まったものだ。送りたいと思う時間が、いつも同じなのだ。携帯電話を手にさりげなく廊下に出る。きっちり閉められた窓越しの風景は雨に沈み、眠気のせいもあって、今日のやる気を奪い取ろうとしてきた。
 今日はこの雨だし、チェロの練習、休みにしようかな。
 もちろん本気ではないが、小指の先ほどは心に過ぎった。
 ポケットに忍ばせた携帯電話が振動したのは、そんな時であった。学校にいる間は着信音から切り替えており、だから常に身に着け音が無くてもわかるようにしていた。
 メールが一通届いた。男からである。
 こちらの雨模様の事、だから風邪を引かぬようにと体調を気遣う男の心配りに、僚は閉じかけていた目を一杯に見開いた。
 身も心も奪われる。
 雨で憂鬱だった気分がいっぺんに吹き飛ぶ。
 すごい威力、さすが男だと全力で称賛する。
 食後の眠気も吹き飛んで、やる気が後から湧いてくる。
 力がみなぎってきた。
 僚は意識して息を吸い込んだ。
 もしここが人目のある廊下でなかったら、思い切り飛んで跳ねて、子供のようにはしゃいだ事だろう。まったく、残念だ。
 記憶に残したくない出来事があった事を思い出した今日だが、そう悪いものでもないと、僚は思い直した。またもう少ししたら、もっと穏やか気持ちで記憶を迎えられるかもしれない。自分の力だけでは無理だが、周りの誰かに助けられて、出来るようになるかもしれない。
 笑い方が変わったり、部屋が綺麗に片付いたり。
 これからも変わっていくのだ。少しずつ変えていく。
 自分自身は変わらないが、変わるのだ。
 静かな決意を胸に灯すと、無性に男に会いたくてたまらなくなった。顔を合わせるのはもう少し先になる。それまでは、こうして文字と声とで気持ちを届ける。
 嗚呼もどかしい。
 僚は返信を送って携帯電話をしまい、教室に戻った。

 

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