チクロ

首を洗って待ってろ

 

 

 

 

 

 間もなく帰る時間を迎え、桜井僚は内心そわそわと落ち着かない気分を抱えていた。
 落ち着きのなさは。傍にいる神取鷹久にも伝わっており、さて何を理由に気が急いているのだろうとさりげなく観察する。旅行から帰ったばかりで泊りに来たから、疲れから気もそぞろになっている、あるいは何か言い出しにくいものが心にわだかまっている、あるいは…自分の行動を振り返りあれこれ思い浮かべ、悩ませている点を探る。こちらからさりげなく聞いた方がいいだろうと結論に達し、口を開くと同時に、僚は何かを決めた顔で動き出した。
 持ってきた荷物と、買い物をした紙袋はまとめ、コートを着込んで、帰り支度は済んでいた。
 そこに僚は、買ってもらったマフラーを取り出して首に巻き、すっきりした顔をした。
 悩み事がなんであったか読み取り、神取は頬を緩めた。持って帰るか、身に着けて帰るかで迷い、彼はそわそわしていたという訳だ。可愛らしい葛藤、そして解決に、彼への愛しい気持ちが募る。
 神取は隣に並んで肩を抱いた。

「では、送ろうか」

 

 

 

 帰りの車中、僚は他愛ないお喋りを楽しむ傍ら、アパートに着いたらすぐにマフラーを外す、ほこりを払って綺麗にたたんで、きちんとしまおうと、頭の中で思い浮かべていた。それだけ、気分は浮かれに浮かれていた。男に買ってもらったマフラー。軽くて柔らかくて、とても暖かい。
 つい声が弾みがちになるのを必死に抑え、僚はお喋りを続けた。
 自分ではそこそこ抑えていると思っていた僚だが、男には筒抜けであった。
 運転の合間にちらりと目配せする程度の確認でもわかるほど、光り輝いていた。
 表情がまた絶品であった。
 本人はあくまで抑えて澄ましているつもりだが、身体中から嬉しさが放たれている。わからないはずがないのだ。
 信号で停車したきっかけに、神取は口を開いた。とても言わずにおれない。

「本当によく似合ってるよ」

 昨日と今日、とても楽しく過ごせたと告げると、自分も最高だったと僚は目を見開いた。首に巻いたマフラーにそっと手を当て、にこにこと無邪気に笑う様が、男の目を釘付けにする。
 やがて車は、アパート近く、昨日待ち合わせをした場所に到着する。
 笑いの余韻を顔に残し、僚は静かに口を噤んだ。
 一緒の時間が終わってしまった。また金曜日まで、しばしお別れ。
 僚は一拍置いてじゃあ、と発し、シートベルトを外した。
 神取は小さく頷いた。
 惜しむ気持ちを飲み込んでドアに手をかけた時、斜め掛けに入れた携帯電話がメールを受信した。一瞬動きを止め、電話ではないのだから後で確認すればいいと動作を再開する。
 神取はそれを引き止め、どうぞと促した。
 再び僚はあたふたと、男へ斜め掛けへ、視線を行き来させた。

「あ…ごめん」

 確認だけと、僚は急いで携帯電話を取り出した。
 その様子を、神取は面白そうに眺めていた。というのも、自分が送ったものだからだ。果たして彼は、想像以上に目を丸くし、見やってきた。
 送信者の名前を確認した僚は、半ば混乱気味に顔を上げた。メールの内容は、また来週迎えに行くといったいつもの別れ際の挨拶で、一体いつの間にとか、隣にいるのにわざわざメールで寄越すのかとか、そういったものが絡み合い、おかしいやら憎らしいやらちょっとした混乱に見舞われた。
 文の途中まで読んで、僚は隣へ目を向けた。
 何をやっているのだと目線を寄越す僚に、神取は笑って肩を竦めた。
 僚はしかめっ面になり、またすぐ画面に目を戻した。もう一度、頭から文字を追う。文末の締めくくりに「愛してるよ」と見つけ、言葉で告げられるのとは違った動悸に襲われ、小さく息を飲む。
 僚は弾かれたように顔を上げた。何か云おうと口を開くのだが、言葉は一つも出てこなかった。代わりにただじっと男を見つめる。
 まっすぐ向けられる熱っぽい眼差しに、神取はそっと目を細めた。

「まいったな」
「……なに」
「今すぐ君を襲いたくなった」
「!…何言ってんだ」
「君が好きだよ」
「俺もだよ」

 強く視線をぶつけ、言葉をぶつけ、僚はぎゅっと唇を引き結んだ。
 わずかな距離と空気を挟んで、二人はしばし見つめ合う。お互い心の中では、相手を腕に抱き唇を重ねていた。実際はただ向かい合っていただけだが、確かに、心は重なっていた。
 先に動いたのは神取だった。シートに座り直し、また来週と静かに告げる。

「じゃあ、また」

 僚は小さく頷き、ありがとうと告げて車を降りた。
 夕暮れの中、信号を渡り、歩き去ってゆく僚の後姿が見えなくなるまで見送って、神取は車を発進させた。
 マンション地下にある駐車場に車をとめたところで、メールが届いた。

――襲われてやるから、首を洗って待ってろ

 彼らしい勢いに満ちた一行にたちまち笑いが込み上げる。神取は苦労して飲み込み、さてどう返したら彼とかみ合うだろうかと頭を悩ませる。
 こんな難問を寄越すなんて、彼は本当に手強い。
 五階の自室に戻るまで、神取は悩みに悩んでようやく到達したひと言を彼に送った。長々といろんな言葉が浮かんで消え、残ったのは彼への想い。
 さっき、夕暮れ時の密室で見せたあの少し困ったような顔を、今もしているだろうかと頭に思い浮かべながら、神取は小さく笑った。

 

目次