チクロ

大変よくしていただいてます

 

 

 

 

 

 黒板の上の時計は、一時過ぎを刻んでいた。
 黒板には、文字とも数字とも判別しがたい記号がずらずらと連なり、教室にたった一人きり座る男子生徒を悩ませていた。
 桜井僚である。
 居残り補習を言い渡され、昼ではなく夜の、深夜とも言うべき時間にたった一人、難問と向き合っていた。
 黒板の文字列はまだまだ増えていた。チョークを手に小気味よい音を響かせながら、男は見た事もない記号を次々黒板に刻み、ますます僚を追い詰めた。
 一人教室に残り、教師の到着を待っている間、うんざりした気持ちと不安とが心で渦巻いていた。ついに現れたのが男だとわかった瞬間、ちょっとは甘くしてもらえると期待を抱いた。特別授業を始めます、聞きなれた低音が教室に響き、何故か胸が高鳴った。
 淡い期待、甘い考えはしかしすぐに打ち砕かれた。
 これまで見た事もない、どこの国のものでもないような奇妙な文字だか数字だかで黒板を埋め尽くし、この式を解けと問題を出す男に、背筋が凍るようであった。
 必死になってノートに書き写すが、自分の字もまた滅茶苦茶な記号もどきになっていた。
 一体これはどうなっているのだと、冷や汗がこめかみを伝う。全身がじっとり冷たくなる。
 何かおかしい、何もかもがおかしい、どうすればいいんだ――。

 

「――頭抱えてもがいてたら、何かにぶつかって、それで目が覚めたんだ」
「そいつは、とんだ悪夢だったね」

 助手席に収まり、身振り手振りで夢の内容を再現する僚に、神取鷹久は軽く頷いて笑いかけた。昼下がりの、あのひと暴れはそういう理由…悪夢を追い払おうとしての事だったのだ。合点がいった。
 繋がった現象に、僚の心情を当てはめながら思い浮かべていると、隣から笑うなと低い呟きが聞こえてきた。

「夢の中でまで苛められて、ほんと参ってんだから」

 夢で良かったと、僚はため息交じりに肩を上下させた。それに対し神取は軽く目を瞬かせた。

「おや、それでは私が、いつも君を苛めているようではないか」
「そう――」

 そうだろ、と言いかけて、僚は息を止めた。行動だけ見れば確かにおいそれと人には言えぬ数々だが、それらを自分が望んでいるとしたら、それは果たして純粋に苛めていると言えるだろうか…瞬時に頭を巡るあちこちからのせめぎ合いに、僚はむにゃむにゃと言葉を濁した。
 しかしこのまま黙ってしまうのも癪で、勢い任せに口を開く。

「神取さんには大変よくしていただいてます」

 飛び出したのは、そんな言葉だった。
 厭味ったらしい唸り声が、かえっておかしかった。神取は目を見開き、こう返した。

「そう苛めないでくれ」

 今にも消え入りそうな、儚げな声で肩を落とす。
 苛めてるのはそっちだろ…と反射的に膨れ上がるが、それ以上に笑いが込み上げて声にならなかった。慌てて抑え込むが、僚は咳込みながら笑い声を弾けさせた。

「今のはずるい、その演技ずるいよ」

 おかしいやら腹立たしいやら、跳ね上がった感情は全て大笑いへと流れていった。
 赤信号での停止で、神取は更に、顔を覆う仕草まで付け加えた。
 綺麗に指を揃え、ああと嘆きながら俯く男にますます腹がよじれた。

「ちょっと、それやめろって」

 何がそんなに可笑しいのか自分でもよくわからないが、仕草から声から、どこを取っても笑えた。長身の黒ずくめ、肩幅や手の大きさや指の一本まで、どこもかしこも完全に男のそれなのに、まるで女の子のように身体を小さくして顔を押さえて泣くふりをして、とんだ落差が笑いを誘う。
 俯く男に乗っかり、僚はまた「神取さんにはよくしていただいてます」と口にした。神取は顔を覆ったまま「ああ」と嘆きの声を出した。語尾が笑いに震えているのを聞き取り、僚は涙を零さんばかりに笑い転げた。
 笑ってるじゃん
 笑ってないよ、泣いているんだ
 笑ってるよ
 そんな他愛もないやりとりをして、笑い合っている内に、アパートの前までやってきた。

「ああひどい、ほんとにひどいな」

 僚は目尻に滲んだ涙を拭い、素知らぬ顔で隣に座る男にため息を吐いた。目配せ程度で目を逸らしたのは、笑いたいのを我慢して澄ましている男の顔が、憎らしい上に可愛いと感じたからだ。じっくり見つめたらきっと、頬が熱くなるに違いない。最近やけに、なんでもすぐ顔に出てしまい困っている。男に筒抜けになったら恥ずかしい、嫌だ。だから、なるべく見ないようにする。
 しかし自分が見なくても向こうからのまっすぐな視線は変わらず、それを思うだけで顔が熱く火照るようであった。
 僚は出来るだけ平静を装い、男に顔を戻した。足元に置いていたお揃いでないお揃いのジーンズが入った紙袋を掴み、口を開く。

「じゃあまた来週な。ありがと鷹久」
「こちらこそ。君にはとてもよくしてもらってるよ」

 そう言ってにっこり笑い、ありがとうと続ける男に、僚はひゅっと息を飲んだ。
 いつもと変わらぬ別れの挨拶なのに、どうしてか唇が震えて仕方なかった。
 何か上手い返事をと思うのだが、浮かんでは消え何一つ掴み取れなかった。ただただ、まっすぐに男を見つめる。どこか夢見心地で見つめていて、ある時ふと我に返る。そうすると急に気恥ずかしさが込み上げ、僚は慌ててシートベルトを外した。逃げるように車外に出る。

「ではまた金曜日、いつものように迎えに行くよ」
「うん……ありがと」

 礼を渡し、ドアを閉める。一歩二歩離れて手を振り、走り去る男を見送った僚は、じわじわと熱くなっていく頬を俯けて家路を急いだ。
 夢で見た男の顔が、車内の優しい微笑と重なる。夢の中ではいかにも意地悪そうににやにやと笑っていたのが、穏やかな微笑みに移り変わっていく。いや、夢の中でもそうだったかもしれない。いやいや、やっぱり意地悪な笑い顔だった。そうやって無理やり思い込もうとするが、頭の中に展開するのはやはり柔和な笑顔だった。
 ますます、顔が熱く火照った。
 気付けば、男を叩いてしまった手を掴んでいた。
 慌てて振り払う。
 こんな気持ちにさせるなんて、全然、よくしてもらってない。
 緩やかな坂道の途中で僚は大通りを振り返り、アパートの入り口でもう一度振り返り、待ち遠しい来週の約束を睨み付け、自分の部屋へと急いだ。

 

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