チクロ

奪われる角度

 

 

 

 

 

 障子を開けると、朝日を浴びる雪の庭が広がった。夕暮れ、夜更けと見て、朝の様子もまた心地良く、それぞれ趣があり、見え方がまるで違うように思える雪景色に桜井僚は寝惚け眼だった目を一杯に開いて見入った。
 惰性で動かしていた手にしっかり力を入れて歯を磨く。首を曲げて見上げた空はよく晴れ澄み渡っていたが、薄色から察するにこの窓の向こうはとんでもなく寒いだろう。窓の傍に立つだけでも、冷気がひやりと足元にまとわりついてくる。
 こんな寒空の下、海を見に行こうと男は言うのだ。一体どんな色の風景が待っているだろう。想像を巡らすと心がそわそわ浮き立ってきた。その前に旅館の朝食も楽しみだ。昨夜の料理も、先日テレビで見たままの大皿や小鉢の数々が並び、感動に心が追い付かないほどであった。夕食は部屋に運んでもらったが、朝食は綺麗な庭が見渡せる食堂で出される。テレビに映っていた小さな池と灯篭を、これから自分の目で見に行くのだ。嗚呼心が躍る。
 もう一つ楽しみがあった。
 豪華な料理と並んでこの旅館のうりである、大きな露天風呂だ。朝食の前に朝風呂を楽しもうと、昨夜寝る前に男と約束した。
 のんびりしている暇はない。
 ふと見た鏡に、だらしなく緩んだ顔の自分が映っていた。よからぬ事を企み、成功に酔い痴れている顔付きはとても恥ずかしく、僚は慌てて目を逸らし、洗面所を後にした。

 

 

 

 さっぱりした顔で洗面所から戻り、朝風呂の支度を整えたまではいいが、何か云いたげにこちらを振り返りしかし口は噤んだまましばし静止したのち、ごく自然にごろりと横になった僚に、神取鷹久はおかしいやら可愛いやらで目が離せなかった。
 敷いてある布団の端に頭だけ乗せている。昨夜も見た光景だ。
 神取は備忘録代わりの手帳を閉じ、次の間に寝転んだ僚へ口を開いた。

「朝風呂は中止かな」
「そんなわけない」

 答えは即座に返ってきたが、案の定というべきか僚は動こうとしなかった。膝を抱えるようにして座り、そのまま寝転んだので、立てた膝がちょうど視界を遮っている。膝を伸ばせばいいが、僚はそうはせず首を思いきり曲げてこちらを見てきていた。
 誘っているように見えるのは、自分の心がそうだからだろう。単にまだ眠いとか、二人きりなので思い切りくつろいでいるか、そういったところだ。
 しかし彼の目付きはすっかり目を覚まし、唇は、先ほどから引き続いて何か云いたそうに噤まれていた。
 尋ねると、僚はうんと喉の奥で返事をした。一旦目を逸らして、戻し、ちょっと思ったんだけどともごもごと口を動かした。
 神取は立ち上がり、傍まで行って隣に腰を下ろした。僚の目は動きを一切見逃さず、神取もまたいっときも目を離さず見合わせたまま座った。

「どうかしたか」
「思ったんだけどさ」
「ああ」
「この角度の鷹久も」
「なんだい」
「やらしいなと思って」

 ある程度予想していた通りの答えに、神取はふふと頬を緩めた。息を抜くと、途端に大笑いしたい衝動が込み上げてきた。腹を抱え、呼吸が止まりそうなほど思い切り笑いたくなる。他愛もない、ささいな、予測のついたひと言なのに、どうしてこんなに笑わせてくれるのだろう。楽しい気分にさせてくれるのだろう。たまらなく幸せな気持ちになる。笑って笑って、涙を浮かべたくなるほどに。

「そうかい」
「うん、そう」

 少しむきになって、僚は声を張り出した。実のところは見惚れていたのだ。本当に、どこから見てもいい男で、もったいなくて一秒だって目を離していたくない。どんな表情でも、表情から表情への移り変わりも、見逃したくない。それほど、一瞬ごとに惚れ惚れする。でも言わない。どうせお見通しだろうから。
 案の定、男はどこか嬉しそうな顔で頷いた。

「私からしたら、今の君の格好の方がよっぽど『やらしい』がね」
「それはそういう目で見るからだよ、よくないよそれ」
「おや。では、君はどんな目で私を?」
「……ふん」

 僚は鼻を鳴らし、男と反対の方向へ思い切り首を曲げた。

「鷹久はほんと意地悪だな」

 尖らせた口の先で、ぶつぶつと零す。横目でちらりと見た男は、面白そうな顔でこちらを見ていた。
「さあ、準備をして、朝風呂を楽しもう」
 腹の立つ奴だと尖ってみるが、優しい声で手を伸ばされると、一気に溶けてしまった。なんて威力のある手と声だろう。声を聞くと、好きで好きでたまらない気持ちでいっぱいになり、手のひらが触れると、嫌なものも怖いものも全て消え去る。

「じゃ、手を引っ張って」

 励ましてくれたら起きる
 自分がどれだけ幸せであるか教えてくれる手と声を寄越せと、僚は白い歯を見せた。
 神取は楽しげに笑い、伸ばされた手をしっかり握りしめた。

 

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