チクロ

何をやっても

 

 

 

 

 

 バスを降りると、街はすっかり夜色に包まれていた。
 駅前の停留所という事もあり、乗り降りする客は多い。ゆっくり進む人波に混じってバスを降り、桜井僚はいつも行くスーパーに向かった。歩道のタイルはすっかり乾いていたが、隅の方にちらほらと、通り雨の跡が見えた。
 くっきりと明るい店内入った途端、外との対比に一瞬目がくらんだ。軽く瞬き、奥へと進む。途中壁の時計が目に入った。外が真っ暗なせいでもう随分夜遅い気持ちになっていたが実際はまだ早く、余裕があった。
 僚はしばらく時計を見つめ、買い物して帰ったら何時で、そこからあれこれ雑事をして、それがいつも大体このくらいかかるから…と、頭の中で予定を組み立てた。いつもより一時間ほど遅くなるが、まだ冬休み中だ。ゆっくりやればいいのだと少し浮かれ気分になる。
 僚は通路に目を戻し、買い物メモを取り出してまず一つ目を求めて歩き出した。
 いつもよりフロアが広く感じられるのは、買い物客がまばらだからだろう。時間帯で変わるものだ。
 途中途中で商品をかごに入れつつ棚の間を巡っていると、精肉コーナーでとあるカップルが楽しげに言葉を交わしているのが耳に飛び込んできた。時々見かける二人で、いつもにこにこと仲良く連れ立って買い物に来ていた。並んでフロアを歩く事もあれば、手分けして買い物かごを埋める事もあった。
 今日も、彼女が肉を選んでいる合間に、彼が卵のパックを取りに行った。
 明日の朝は特大オムレツ…そんな声が聞こえてきた。
 若い男女、結婚しているのか、まだ同棲中か。彼が照れるのをわかっていてわざと「あーんしてあげる」とからかう彼女。いたずらっ子のように笑う彼女の顔はとても眩しい。
 まんざらでもない様子の緩んだ彼の横顔に、僚はそっと鼻を鳴らした。
 ごちそうさま。
 ああ、また誰かに会いたくなった。何かある度こうしてすぐ顔が思い浮かぶ自分は、病気だろうか。
 そんな事を考え気もそぞろになっていたからか、アパートに帰り着いてから、買いもらしがあった事に気付いた。いつものように会計前にメモとかごの中身を照らし合わせたはずだが、どうしても一点見当たらない。今夜のメインになるはずの一点、鳥のもも肉が見当たらない。どんなに頑張って凝視したところで、買ってない物が浮かび上がるはずもなく、僚はうっかりしたとため息をもらした。腹が立つやら情けないやら。
 冷凍庫に保存してある作り置きで、腹を満たす事も出来ないではない。たれに付け込んだ肉だってある。が、頭の中で段取りを組み立てすっかり食べる気分になっていたのだ。そう簡単には覆らない。
 虹を見てからずっと浮かれていたのがこんなことに。
 頬を両手ではたき、しっかりしろと気合を入れる。
 僚は手早く買い物袋の中身を片付けると、もう一度外出の準備を整えた。ばたばたと玄関に向かいつつ、誰かに向けてメールを送った。まったく責任はないのだが、頻繁に浮かび上がって気持ちを乱した、お前のせいでもあるのだと、八つ当たりを込めて送信する。
 靴を履き終えたところで、返信が来た。
 どこまで買い物をと尋ねてきたので、いつものスーパーだと送り、鍵を閉めて早足で歩き出す。それでやりとりは終わりかと思ったが、一つ目の信号を渡ったところで、またメールが届いた。

――夜道、気を付けて

 冷たい夜の空気がカラの胃袋に染みるようであったが、このひと言で随分軽くなった。僚はありがとうと返し、頭の中でも、何度も繰り返した。 
 歩き、いくつか信号を超えてようやくたどり着き、今度こそ間違いなくメインを購入する。会計前に端に寄り、ついでだから何か追加しておこうかと考えを巡らす。思い浮かぶのは、どっしりした肉料理ばかりだった。少し先に見える弁当コーナーの誘惑も強烈だ。無理もない。いつもならとっくに夕食の時間で、腹が鳴って仕方がないのだ。今なら、大盛り弁当を食べながら料理して、出来上がったものも全部食べ切る自信がある。
 どうにか振り払うも、特売ワゴンの魔力には勝てなかった。缶詰や季節ものといった商品の中に、大袋入りのチョコレート菓子が数種類、乗っかっていた。この値段なら、一つだけなら無駄遣いに入らない、いや待て、予定外の物は全部無駄遣いのつもりでいないと…葛藤の末、僚は一つ手に取った。また、腹の虫がぐうと鳴った。
 会計を済ませ急ぎ足でスーパーを出る。夜風に首を竦めると同時に、携帯電話が鳴った。まさかの彼からの電話に、寒さが一瞬麻痺する。空腹で力が抜けていたが、出来るだけ元気な声で僚は応答した。
 今丁度出たところで、これからアパートに帰るところだと告げる。声を交わすと嬉しさに心が溶けるようで、それがまた恥ずかしくて泣きそうになる。
 右を見ると良い事があるよと言われ、僚は目を瞬いた。
 もしかして、心配で来てくれた?
 まさかと、身体が一気に熱くなる。
 しかしどこにも見つけられない。念の為左も見るが、期待するような事は起こらなかった。何を見ろといっているのか、察しの悪い自分と、遠回しな彼に、小さな苛立ちが生じる。

『右にない? おかしいな。では後ろを見てごらん』

 その次は上を見ろとか言ったり…心の中で茶化しつつ、僚は振り返った。
 果たしてそこに、彼がいた。
 ほんの数歩の距離に立って、微笑みかけてくる男…神取鷹久に、僚は驚きのあまり目を丸くした。
 そんな顔も可愛いと微笑み、神取は携帯をしまうと距離を縮め、僚が手に提げている荷物を引き受けた。

「あ……い、いいよいいよ」
「いいから。送るよ」

 にこにこと、だが強引に。いつもの力強さで押し切られ、僚は複雑な顔で笑った。

「君に、虹のメールを送った後から、どうしても顔が見たくなってね」

 だから君がもう一度買い物に行くとなった時、実にすまないが、喜んだ。そう続ける神取に僚は唇を尖らせ、笑いながら唸った。

「もし店内で会えなかった場合は、君のアパートまで押しかけるつもりだったよ」そこまでして会いたかった「ちょうど出るところにかち合ったので、本当に運が良かった」
「それで、いたずら電話してきたんだ」
「君の姿を目にして、舞い上がってしまって」

 会えて嬉しかったからと穏やかな顔で言われ、僚は胸が痛くなるほど疼くのを感じた。ぎゅっと締め付ける感触に、指の先まで熱くなる。
 送ってくれてありがとう――綺麗な虹だったね――ところで雨は大丈夫だったかい――中にいる間に通り過ぎていったよ、気付かなかった――そいつは運がいい、結構な土砂降りだった――ほんとに――
 スーパーからアパートまでの短い道のり、沢山会話を詰め込んで歩く。ついさっきまでは、駆け足で帰って、すぐに夕飯作りに取り組もうと思っていた僚だが、今は出来るだけゆっくり歩みを進めた。明日も休みで本当に良かった。
 アパートの前に到着する。
 そこで僚ははっとなり、袋の中を覗き込んだ。

「まだ、忘れ物があった?」
「いや、送ってもらった礼にこれ、持っていってほしくて」

 大急ぎで菓子の袋の値札をはがし、肉のパックを取り出して菓子だけになった袋を男に差し出す。他にも種類があったがこれを選んだのは、男の好物だからだ。
 たちまち嬉しげに微笑み、しかし神取は丁重に断った。気にする事はないとやんわり押し返す。
 でも、と僚は食い下がる。

「なら、一つ頂いていくよ。夜食にちょうどいい」
「だろ、一つなんて言わずにさ」

 袋を開け、ポケットに入るだけと差し出す。神取は、では左右のポケットに一つずつもらっていこうと、笑顔で受け取った。僚も笑顔で頷いた。

「まだ仕事あるのに、付き合わせてごめんな」
「とんでもない。君をつけ回すのも、大事な仕事の一つだからね」
「また、怖いな鷹久は」

 僚は大げさに肩をそびやかせた。それから、次に会う約束を確認し、お休みと手を上げて別れる。角を曲がるまで見送り、僚は部屋に帰った。
 気持ちはふわふわと浮かれて上等だが、その一方でたまらなく腹が減っていた。気持ちだけで腹が膨れたら最高なのにと自分に笑いながら、待ちかねた夕飯作りに取り掛かる。
 食べるまでは、空腹で力が抜けていたせいで片付けは全部明日に回そう、とすっかりしおれていたが、腹が満たされ満足すると気持ちも蘇り、いつも通り手早く片付けを済ます事が出来た。
 雑事をこなし、風呂に入り、いつも見ているテレビ番組に時々笑いを零す。まもなく終わるが、今日は色々あったせいか目を開けているのがつらくなり、僚は早々にベッドにもぐりこんだ。
 暗い中横になって目を閉じていると、今日あった出来事が駆け足で瞼の裏を過ぎっていった。

 

 

 

 翌朝目を覚ました僚は、部屋に満ちる冷たい空気に向かって大きなため息を吐き出した。目覚めの深呼吸に込めたのは、自分への呆れであった。
 なんて恥ずかしい、メルヘンチックな夢を見たのだろう――
 いうなれば昨日の盛り合わせだ。
 昨日目にしたものが入り混じり、絡み合って、それはそれは恥ずかしい夢が出来上がった。とても人に話せそうにない。
 夢の内容はこうだ。
 朝の町を、男と二人歩いていた。しばらく進むと虹がかかっていたので、一緒に越えて買い物に行った。
 そして、昨日見たカップルより更に熱烈に、傍目に馬鹿らしいやりとりを繰り広げた。
 それを何故か、昨日と同じ位置から見ている自分がいた。
 これは夢ならではだ。
 朝早くの、眩しいほどの光の中、自分が自分たちを見る、それも、周囲が恥ずかしくなるほどの熱々ぶりを披露しているとこを見るなんて、心臓に悪い。実に堪える。
 心行くまでたわむれた後、また虹を歩いて町の中へ。
 やたら光り輝いて眩しい、目を開けていられない。
 どうなっているんだ、いい加減にしろ――そこで目が覚めた。
 しばし混乱の後ようやく頭が冴え、なんて夢を見たのだとため息を一つついたのだ。
 僚は横向きに寝返りを打った。頭まで布団をかぶり、両手で思い切り顔を擦る。
 今見たばかりのせいで夢の内容が鮮明に思い出せる、頭の中にくっきりと再現される。あんな夢を見るなんて…自分は男と、ああいうやり取りをやりたがっているという事だろうか、
 確かに…男はとても可愛かった。自分の願望が夢になったのだろうが、男はやたらときらきら眩しく輝いて見えた。そして何をやってもカッコよくて可愛くて、たまらないのだ。どんな姿も胸を締め付けた。
 嗚呼恥ずかしい。恥ずかしくてたまらない。でも男は可愛かった。僚はきつく目を閉じ、吐息に交えて呟く。
 可愛い。
 好き。
 もう、それでいい。
 また顔を擦る。ここから起きて、いつもの行動をする内に、いつも夢を見た時そうであるように、段々内容が薄れて忘れていくと思うと寂しくはあったが、おそらくは最後まで『男はキラキラとカッコよかった』記憶は残るだろう。
 何をやってもカッコよくて可愛くて、たまらない気持ちになった夢を見た事は忘れないだろう。
 忘れないようにしようと心に強く刻み付ける。

 

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