チクロ

通り雨

 

 

 

 

 

 アパートから学校に向かう途中の、少し道を逸れたところに、その公園はあった。
 ブランコと滑り台、小さな砂場、そして木陰にベンチがあった。それほど大きな公園ではないが木が沢山植わって、緑に囲まれた空間は中々居心地が良く、子供たちの楽しげな声が途切れる事はなかった。
 冬の時期は緑も減り、常緑樹もどこか寒そうな色合いになって、少し寂しい。しかし南に遮るものがないので、晴れた日はよく日が射して気持ちがいい。寒さをものともせず子供たちは走り回って遊び、大人たちは日向に固まって見守った。
 今日も綺麗に空は晴れ渡り、風もなく穏やかで、やってきた子供たちは力一杯遊びに熱中した。噴水のように歓声があちこちで弾ける。
 公園の前の小道を少し行くとバス通りで、公園前としてバス停があった。今まさにバスがやってきて、またゆっくりと走り出していった。
 通りから届くその音を見送りながら、桜井僚は公園のもう一方の入り口を振り返った。すると丁度角を折れて、誰かが走ってくるのがわかった。

「やっと来たか」大きなため息とともに、南条が吐き出す。
「おら、もっと走れ」ちんたらするなと、稲葉が急かす。

 全速力で駆けながら、上杉は顔の前で手を合わせた。ぜいぜいと息をつく合間に「遅れてごめん」と叫ぶ。
 僚を含め、待ち合わせ場所である公園入口に固まっていた七人は、今日の外出の言い出しっぺである当人の遅刻を、言葉で、あるいは視線で、しっかりじっくり責めた。
 地下鉄の駅から公園まではそう距離はないが、一秒たりとも手を抜かず力一杯走れば相当なもので、年明け早々の全速力に上杉は白い息を吐き散らした。
 遅れるとの連絡はすでに受けていた。僚の携帯電話に、代表でみんなに伝えてほしいと電話があったのは、出かける為の戸締りをしようかという時であった。すぐに支度して向かうが、遅刻は避けられないので、どうか頼みますと必死の声に承諾した。自分が伝言役かと思った瞬間、みんなが何と言うかがそれぞれ頭に思い浮かんだ。面白いほど明確に過ぎったそれらは、ほぼその通りそれぞれの口から飛び出した。
 それからしばし、七人は上杉到着までの間、今日これから向かうボウリングの事、昼のメニュー、遅刻者への罰は何がよいかと、あっちへこっちへ逸れながらお喋りをして待った。
 そしてようやく、最後の一人が集まった。

「ほんっとすんません!」

 上杉は目一杯頭を下げ、どうかご勘弁をと何度も詫びた。

「罰として、今日の昼はオマエの奢りな」

 話の合間に冗談半分で出た提案を、稲葉が口にする。途端に上杉はひいと高い声を上げ、苦しい懐具合を察してくれと首を振った。

 遅れたんだからそれくらい当然
 誠意ってものが感じられない
 ナニ奢ってもらおっかな
 俺はじゃあ、期間限定のにしようかな
 では私は……

 みな口々に好き勝手文句を言うが、誰一人本気で腹を立てている者はいない。待たされたといっても何時間もではないし、いつも楽しくやっている仲間なので、程々で言葉を引っ込める。

「はー……すんません」
「その代わりジュース奢れ。桜井に」
「……へ?」
「……は?」

 稲葉の提案に、上杉はもちろん僚も声を上げた。

「一番に来てずっと長く待ってたんだから、当然だろ」
 それにそのくらいの余裕ならあるだろ
「そうっすね、そうさせていただきます!」

 上杉は荷物から財布を取り出し、近くで目に付いた自動販売機に向かった。慌てて僚も後に続き、悪いからいいと断るが、そうはいかないせめてもの詫びの印と「どれでも好きなものを」とすすめられ、乗っかる事にした。

「じゃあ、遠慮なく」
「ああ、もう! 受け取ってちょうだい」

 上杉の声に背中を押され、僚は下段のボタンを押した。がたんと音を立てて転がり出た温かい缶コーヒーを掴み、ラベルを正面に眺める。

「桜さん、それ最近のお気に入りだよね」
「結構うまいよ」

 さて行こうかと、揃った八人はバス停に向けて歩き出した。
 予定が合えば、もう一人メンバーが加わるはずであったが、先約があるという事でまた今度となった。普段の誘いもあまり乗る事はないが、それは当人の家庭の事情、アルバイト事情諸々からで、まったく付き合いがないというわけではない。時間が合えば誘いに乗り、一緒に楽しい時間を過ごした。今日の誘いも、上辺の取り繕いではなく済まなそうにしていたので、また次の機会を約束した。
 今日これから目指すのは、バスで数駅行ったところの遊戯施設だ。ボウリングやカラオケボックスといった遊び場所が揃い、飲食店も充実していて、一日中遊べる人気の場所だ。
 そこでまずはランチ、そしてメインのボウリングを楽しみ、時間を見て解散の予定だ。
 発案者は上杉で、その上杉が遅刻と出だしはつまずいたが、その後は何事もなくバスで移動し、揃ってわいわいと昼を腹に収めた後、ボウリングにはしゃぎ、クレーンゲームをしたり写真を撮り合ったり、カラオケで点数を競ったりと、時間は楽しく過ぎていった。
 外へ向かう為に階段を下りながら、みな口々に今日の感想を言い合った。誰それのボウリングの腕前がどう、誰それの歌声がどうと、賑やかにお喋りしている内に一階についた。
 すると誰かが、雨が降っていると言い出した。
 え、うそ、と綾瀬が焦りの声を返す。それに続いて、午前中はあんなに晴れていたのに、傘なんて持ってきていない、どこかで売ってないか…声が行き交う。
 肝を冷やした面々だが、地面は確かに雨で濡れているが、空は晴れて、日が射していた。どうやら中で遊んでいる間に通り雨があったようだ。雨雲はすでに遠く去っていた。
 なんだ、と安心し、運の良さに安堵する。無駄に傘を買わずに済んだ。
 駅を目指して歩き出す。

「オレ様の普段の行いがいいからだな」

 でひゃひゃ、と得意げに笑う上杉に、稲葉が首を振りながら殊更大きなため息をつく。

「貴様が嫌で、さっさと通り過ぎたのかもしれんな」

 そして南条が畳みかけるように言葉をぶつけた。

「……まあ、どっちにしろオレ様のお陰?」
「言ってろ」

 少しずつ晴れ間が広がっていく空を見渡していた僚は、そこに虹が出ているのに気付いた。ほぼ同じタイミングで、他のメンバーも虹を目にした。
 すごい、きれーい…女子の可愛い歓声が、空にかかる虹をより鮮やかにした。

「虹なんて、久しぶりに見たよ」
「オレ様も。ナニお願いしよっかな」
「それ、ちげーだろ」
「あれ、違ったっけ?」

 再び稲葉が、こりゃ駄目だというように首を振った。絶妙に息の合ったやりとりに、僚は小さく肩を揺すった。

「あっち行こうぜ桜井、コイツといるとバカが移るからよ」
「ひどいってマーク。桜さんも」

 稲葉に乗っかり、僚は大げさに避ける仕草をしてみせた。

「にしてもキレーだな、虹」

 見ていると創作意欲が湧いてくると、稲葉は空を見上げ目を輝かせた。
 段々と薄れ滲んでゆく虹に、僚は込み上げる気持ちを必死に抑えた。見せたい、一緒に見たい相手がいる。今すぐ、自分がどんな気持ちかを伝えたい。
 いつも何かと考えている。四六時中支配されている訳ではないが、ふっと心を過ぎるのだ。
 いつもいつも、あの男の事ばかりだ。奇妙な気持ちに心の中でこっそり苦笑いする。
 駅前で各自解散となった。二人ずつ、三人ずつ、行き先が同じ者が連れ立って改札の向こうに去るのを、僚はこちら側で見送った。自分は、行きと同じバスで帰るのが最短なのだ。
 ではまた来週学校でと手を振り、バス停に向けて歩き出す。
 夕暮れの冬空、目を凝らせば、まだ虹は見えた。雑踏に乗って歩き出してすぐ、携帯電話を取り出して確認する。気持ちのままにメールを送ろうと思った直後、短いメロディが鳴った。メールが届いたのだ。

――虹が出ているね。見てるかい。

 送り主の名前と、内容に、息が止まるかと思った。
 まるで心を読み取ったかのようなひと言に、嬉しくなりそして何故か腹が立った。お互いしっかりと繋がっているのだと知り、虹を見上げる目の奥が少し痛くなった。
 文面に少し悩んで返事を送り、僚はバスに乗り込んだ。降車口のすぐ横に座り、窓の外を向いて頬杖をつく。ちらりと見上げた空にもう虹はなかったが、心にしっかり残っている。
 みんなで一緒に見た虹、離れたあの人と一緒に見た虹。
 きっとずっと忘れないだろう。

 

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