チクロ

日向

 

 

 

 

 

 仰向けに寝返っている途中で、ぼんやりと意識が覚醒する。静かに息を吐き出し桜井僚は薄く目を開けた。
 男のマンションで目を覚ましても、もう驚く事はなくなった。
 初めての時は散々だった。酔っ払って知らぬ内に眠ってしまい、アパートとは大違いの見知らぬ天井にひどくびっくりした。軽い混乱に見舞われた。そうこうしている内に前夜の醜態が蘇り、恥ずかしさがどっと襲ってきた。
 恥ずかしかったものはまだある。酔っ払って寝た後の夢だ…その時の感覚が過ぎり、たちまち同じ羞恥が込み上げてくる。僚は頭を抱え慌てて押しとどめた。
 あくびを噛み殺しながら起き上がり、男の姿を探す。耳を澄ますと、隣接する洗面所から微かに物音がした。次に使わせてもらおうと、僚は洗面道具を用意した。
 やがて男が寝室に戻ってきた。
 おはようといつものように穏やかに声をかけてくる神取鷹久に挨拶を返し、僚は立ち上がった。
 傍までいって胸に顔を埋め、もう一度繰り返す。
 男の腕が、軽く肩を抱いてくる。
 僚はだらしなく頬を緩めた。

 

 

 

「では、十時に出発でいいかい」

 男が確認してくる。
 朝食を口に運びながら、僚はよろしくと頷いた。
 外出の目的は買い物だ。
 昨日、男のとあるいたずらで服が汚れてしまったのだ。すぐに洗濯機に放り込んだので、すっかり綺麗になったが、男はそれでは気が済まないと弁償を申し出た。
 夜にはすっかり乾き、臭いも残らず元通りになったのだから、僚は弁償などしなくていいと辞退した。
 男は尚も食い下がった。
 そうはいかない、気が済まない。
 持ち主がいいと言っているのだから、もういいんだ。
 頑固同士がぶつかり合う。
 僚は、ならば半分出してくれと提案した。これは男だけの責任ではない、自分もあの時、密かに望んでいたので、男だけが悪いのではない。自分から汚しにいったようなものだから、半分だけでいい。
 男はまだ渋った。
 そこで僚は閃いた。
 お揃いのジーンズを買おう、それでチャラにしよう。
 面食らう男を押し切り、明日早速買いに行こうと誘った。
 ようやく男も首を縦に振った。
 そして今日、十時になったら出発だ。
 僚は浮かれ気分で時計を見やった。

 

 

 

 数軒見て回り、お互い納得のゆく一本が見つかった。
 お揃いと言い出した僚だが、絶対にというこだわりはなかったので、気に入った一本はそれぞれ色もデザインも違うものになったが、一緒に買い物出来たのは最高に楽しかった。
 服を買う際、男がどこにこだわるのかといった他愛ない部分も、新鮮な発見だった。
 少し早目の昼を済ませ、駐車場に戻る道すがら、神取はとある店の前で足を止めた。
 隣を歩く僚も足を揃えて立ち止まり、顔を向ける。
 そこは、果物をメインに扱う老舗のフルーツショップだった。
 ちょっと寄り道を、という男について、僚も店内に足を踏み入れる。

「今日のおやつを買っていこうと思ってね」
「何にする?」
「そうだね……君はどちらがいいかな。果物もあるし、それらを使ったケーキも、中々評判だよ」

 どちらと問われれば、もちろん果物を選ぶ。僚は青果のコーナーへ顔を向けた。どうしてなのか言葉では説明出来ないが、一番甘いものを選ぶ能力にかけてはちょっと自信があった。
 神取は笑いかけ、頼りにしていると肩を叩いた。
 責任重大だと僚は顔を引き締め、陳列棚に目をすべらせた。果物、特に柑橘類は大好物なのだ。蜜柑、オレンジ、橙、八朔、グレープフルーツ、ぽんかん…どれも目がない。手で皮をむき、ちょっと行儀悪くそのままかぶりついた時の美味さは、言葉にならない。
 ちょうど旬という事で、棚にはそれらの黄金色が綺麗に積み重なっていた。
 同じ橙色の柿もまた輝きを放っている。
 その時、厳密には果物でないものが目を引いた。
 透明なパックに綺麗に整列している苺の甘い誘惑が、僚を手招きした。旬にはずれがあるが、どれもぴかぴかと赤く熟れて、鼻先を近付ければ、何ともいえぬ甘い匂いで心をくすぐってくる。気付けば頬が緩んでいた。
 傍で見ていた神取が、同じく顔を近付ける。

「いいね、これにするかい」
「うん、どうかな」
「食べたいね。一番甘いの、頼むよ」

 僚は頷き、一つひとつ目で追った。確かめながら頭の中で、とろけるような苺の甘さに驚き感心する男の顔を思い浮かべる。苺の匂いに負けぬ甘い妄想だ。たちまち苺に負けぬ赤い顔になりそうなのを慌てて抑え、一つ選び出す。
 傍に控えていた店員が、すぐに対応する。

 

 

 

「ヘタの方から食べていくと、後から甘い部分にいくから、最後まで美味しく食べられるんだ」

 僚は少し照れながら、自分が知っている知識を披露した。正しい食べ方というのはあるのだろうか、という男の質問を受けての事だ。正しい方は知らないが、より美味しい食べ方ならば知っていると、僚は先の言葉を口にした。

「なるほど」

 それは良い事を聞いたと神取は感嘆し、苺の乗った皿をテーブルに置いた。先ほどからじっと見つめてくる僚の視線が気になって、どうかしたかと尋ねる。
 僚は小さく笑って言った。

「鷹久、何やっててもかっこいいから、見てた」

 苺を洗い、ヘタを取って、皿に盛るまで。他愛ない動作の一つひとつが目を引いて、目が離せなかった。
 少年の素直な褒め言葉に、神取は困ったように肩を竦めて笑った。

「そうかな」
「そうだよ」

 答えながら僚は苺を一つ摘み上げると、ごく自然に男の口に持っていった。

「ありがとう」

 言葉と苺と、二つに礼を言い、神取は苺をくわえた。

「甘い?」
「ああ。いい苺だね」
「良かった。今回も当たりだった」
「さすがだね」

 ちょうど良く熟れて、この甘酸っぱさがたまらない。
 笑顔の僚に頷き、神取は伝った。口一杯に広がるふくよかな香りと甘さに、思わず笑みが零れる。
 僚はほっと胸を撫で下ろし、先の言葉…何をしていてもかっこいい、に付け加えた。

「そんでもって、すごくやらしいの」

 いたずらそうにくすくす笑いながら、僚も苺にかじりつく。

「おや、お互い様だと思うがね」

 神取は負けじと薄く笑って斜めに見やり、二つ目に手を伸ばした。

「そんな事ないね。鷹久のがずーっとやらしい」
 だって、俺に教えたの、鷹久じゃんか

 僚もむきになって言い返し、同じく二つ目を口に放り込む。

「応えた君の素質も、中々のものだと思うがね」

 なにおう、いやいや…僚が苺を食べている間は神取が口を開き、神取が苺を齧れば僚が口を開く。
 どちらかが口を開く度、皿の上の苺は一つずつ減っていく。決着がつく前になくなってしまいそうだ。
 寸前で、ようやく結論が出る。
 男の方が少しだけ、上という事で落ち着いた。
 僚にしてみれば、自分よりも何倍も上という事を認めさせたかったのだが、口のうまさではあと一歩男に届かず、先の結論で落ち着くしかなかった。

「ちぇっ」

 大袈裟に舌打ちして、片手を枕にテーブルの上に突っ伏す。
 皿の上には、ちょうど苺が二つ残っていた。
 無造作に投げ出された僚の手に苺を一つ乗せ、神取は柔らかな微笑を浮かべた。
 僚は目を上げて、微笑む男の顔を見た。好きな表情の一つ。第一印象で受けた硬く冷たい雰囲気とは全く正反対の、あたたかい微笑。まったく…こうして見つめられると、大抵の事はどうでもよくなってしまう。
 ありがとう、と受け取った苺を口に運び、僚は軽く目を閉じた。心地好い満腹感に、ついうとうととまどろむ。
 時刻は昼下がり、ちょうど眠気が襲ってくる頃だ。

「僚、眠るなら、寝室に行った方がいい」
「うん……」

 曖昧な返事をする。立ち上がりかけて、目の端に入った窓際の日向に強く引き付けられる。先日男が買ったばかりの、青々と茂ったベンジャミンが、気持ち良さそうに日射しを受けている。日向ぼっこさながらに。
 それを見たらもうたまらなくなった。
 中腰のまま椅子から立ち上がり、崩れるように日向に身体を投げ出す。このまま眠ってしまうのは男に悪いと思ったが、身体中に降り注ぐ陽射しは思いのほか気持ちよく、目を開けていられなかった。

「僚、そこでは風邪を引くよ」

 困ったように肩を竦め、神取は腰を上げた。

「へいき。鷹久もおいでよ。すごくあったかいよ」

 すでに半分眠ってしまっているのか、僚は囁くように言った。
 神取は傍に跪き、顔を覗き込む。

「僚」

 呼びかけると、僚は微かにうんと応えた。

「僚、寝室へ行こう」
「……わかった」

 僚はむっくりと起き上がり、男の言う通り寝室へ向かった。
 見送り、神取はやれやれと微笑み肩を竦めた。
 ところが僚は、寝室の扉を閉めなかった。しようのない子だと、行って閉めようとする。
 そこで、何かを抱えて出てきた僚と鉢合わせになる。
 見ると毛布を抱えていた。
 まさかと見守っていると、案の定、先ほどの日だまりに毛布にくるまって寝転がった。
 こら、という言葉も引っ込んでしまう。
 男は肩を揺すって笑った。

「鷹久もおいでよ」

 そして僚は当然とばかりに手を上げて、男を呼ぶのだ。
 自分の隣に寝ろと誘う僚には勝てず、神取は笑いながら彼の毛布にお邪魔した。
 窓から差し込む柔らかい陽射しはぽかぽかと暖かく、少々眩しくても眠れそうなほど優しかった。
 僚と向かい合い、腕を自分の肩に回させると、神取は目を閉じた。
 間近の気配に気付いた僚が「ふふ」と笑う。
 薄目を開けて男が確かめると、何とも愛らしい笑顔がすぐそこにあった。つられて笑みを零す。
 僚は身動ぎ、神取を抱き寄せた。

「買い物、すごく楽しかった」
「私もだ」
「ほんとう? よかった」
「本当だとも。苺も、美味しかったよ。ありがとう。今度はどこに出かけようか」

 どこに行こう。
 おでこを寄せ合い、暖かな陽射しの中二人は仲良く眠りに落ちていった。
 どちらの顔にも、幸せそうな笑みが浮かんでいた。

 

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