チクロ

ココア色の夜

 

 

 

 

 

 夕食は、準備から後片付けまで、全て男頼みであった。少し薄めの、優しい味付けの豆腐粥をゆっくりたっぷり胃に収める。身体じゅう、手足の先までぽかぽかと温まった。まるで男の温かさが巡っているようで、たまらなく嬉しい気持ちになった。
 すっかり満ち足りて、熱いくらいに感じる両手を合わせ、桜井僚はごちそうさまでしたと頭を下げた。
 お粗末さまでしたと、神取鷹久は笑う。思ったより食欲があり、安心する。綺麗に平らげた彼に笑みが浮かぶ。
 食後、いつもなら片付けを済ませてから食休みに取り掛かるのだが、今日は任せてくれと男が全て引き受けてくれた。かえってそわそわと落ち着かなかった。身についた習慣がそうさせるのだ。申し訳ないと思いつつ、まだほんのりあたたかい腹をさする。
 十分に休憩してから、待ちかねたチェロの稽古を始める。
 この時も、身一つで音楽室へ行き、帰りも手ぶらで、練習後の手入れも男が全て引き受けてくれた。反省会では、昼より更にいい音が響いていたと、男は褒めちぎった。自分でもいくらか自覚はあったが、それよりずっとその気にさせてくれる男の言葉に、僚は不思議な気分を味わった。
 嬉しくてむず痒くて、申し訳なくて、少し腹立たしい。
 出されたティーカップに口をつける。いつもより甘めに作られたミルクティーがたまらなく美味しい。カップを置くと、自然とため息が零れた。
 こんなに、と呟きをもらす。
 神取はちらりと目配せを送った。僚は寄越される眼差しを見て、一旦カップの中に目を落とし、再び顔を上げた。

「こんなに色々されたら、一人で何も出来なくなりそうだな、俺」

 苦笑いを浮かべる僚に、神取はにやりと口端を緩めた。

「その時は、私が一生面倒を見るよ」

 おはようのキスをしたら、着替えさせて、朝食を食べさせて、学校まで車で送ろう。
 君の好みがぎっしりつまったランチを渡して、帰りはまた車で迎えに行く。
 帰ってきたら一緒に夕食、チェロの練習をしたら、今日一日頑張った君をうんと可愛がってあげる。
 そして一緒に風呂へ。髪も身体も全部任せてくれ。上がったら綺麗に乾かして整えて、着替えさせ、ベッドまで運ぶよ。
 そして――

「お休みのキスだな」
「当たりだ」

 途中から笑いが止まらなくなった口で、僚は懸命にタイミングを合わせた。神取は重なった二つの声にまたにやりとした。

「本気出した鷹久、怖いだろうな」

 男がどれくらい尽くす人間かを、僚はもう知っている。優しく甲斐甲斐しく、細やかに世話を焼く。それでも、自分が見たのはほんの一部で、まだまだ本気ではないという。
 人を使う立場にあり、普段どのように配しているか垣間見て知っているし、有り余る金や地位といった、ごく限られた人間のみが得るそれらを思いのまま手にしている。そして更に貪欲に上だけを見て突き進んでいる。
 そんな特別に選ばれたような人間が、実は人に仕えるのが好きだという。誰にでもという訳ではないが、上辺を真似るだけでなくごく自然に身についたもの、いや、生まれながらに持ったものを発散するように、男は能力を発揮する。
 どちらも男に違いはなく、落差に頭が眩む。
 まだ本調子に戻っていないのだろうか。
 体調を探っていると、男もまた異変を感じ取ったようだ。観察力が優れているというより、特殊能力があるのではないかと本気で疑ってしまうほど、男の目はどんな些細な変化も見逃さない。
 昼のように頭が痛むといった症状はないので、僚は笑顔で首を振り、心配ないと答えた。

「絵本が楽しみで、そわそわしてんだ」

 隣の男に笑いかける。今思い付いた適当な言い訳ではなく、聞かされた時からずっとわくわくと心待ちにしている。
 それを読み取った神取は、困った顔で笑い頷いた。彼をがっかりさせない為にも、はとこの名誉の為にも、全力を傾けて読もうと決意する。

 

 

 

 書斎に置いた時計は、秒針の刻みが邪魔にならぬよう静かなものを選んだ。ささやかな振動と共に回り続け、時刻は間もなく今日の終わりを告げようとしている。
 デスクに向かっていた神取は、モニターから目を上げ、机一杯に散らばった書類を各々片付けた。棚のファイルに収め、ひと段落ついた区切りに目を瞑って休める。
 ため息をつくと、瞼の裏にあるものが浮かんできた。挿絵…隣の寝室で休む彼に、寝しなに読んだ絵本の挿絵だ。
 もう一度ため息をつく。今度は、腹の底からたっぷりとだ。
 久々に目にしたはとこの絵本は、やはり強烈であった。非常に独特な、おどろおどろしいあの表情、あの喜怒哀楽は、しばらく頭から離れないだろう。
 誕生日プレゼントとして貰った当時も、今のように唸った記憶がある。
 思い出し、神取は目を閉じたまま小さく笑みを浮かべた。
 彼は何も、嫌がらせで贈ったわけではないのだ。あれが奴の精一杯で、嫌がらせでも、ふざけている訳でもない。その証拠に、話はとてもよくまとまり、優しく、感動的であった。
 テーマはとてもストレートで、友達と仲良く、家族を大切に思うというものだ。ありきたりではあるが、ちっともいやらしい感じはせず、優しく心に沁み込んでくる。
 読み聞かせた時、僚も、そのようにしみじみと感じ取ってくれたようだ。穏やかな表情を浮かべ、ゆっくり呼吸していた。その後挿絵を見て絶句していたが、それもいい思い出だ。
 果たして今頃、どんな夢を見ている事だろう。
 神取は目を開け、そろそろ寝るかと椅子から立ち上がった。洗面所に続く扉を開けようとした時、書斎の扉の向こうで何か物音がしたように思えた。気のせいかとドアノブに手をかけるが、思い直して書斎の扉を開く。

「!…」

 果たしてそこに、僚が立っていた。もう何時間も前に眠りについたはずだが、見間違いではなく、確かに彼であった。ノックをしようと思ったのだろう、軽く握りしめた手を目の高さに上げ、ひどく驚いた顔をしている。
 驚いたのは神取も同じであった。何かしらの気配を感じていたので、彼ほどではないが、目を見開く。

「ずっと、立っていた?」

 気を取り直し、神取は尋ねた。もしもこの姿勢で何分も迷っていたとしたら、気の毒である。もっと早く気付けなかったかと後悔が押し寄せてくる。

「いま……いや、今手を上げたとこ」

 僚は、息も止まりそうなほど驚いたのを何とか飲み込んで答えた。少し前にはっと目が覚め、もう一度眠ろうとしたが眠気はなく、参ったとベッドの中で右に左に寝返りを打っていた。耳を澄ますと書斎からかすかな物音が聞こえてきた。まだ仕事をしているのはわかったがどうにも困ってしまい、助けを求めてやってきたというわけだ。
 そいつは難儀だと、神取はひとまず部屋に招き入れベッドに座らせた。

「ごめんな」

 仕事の邪魔をしたと、僚は詫びた。神取はすぐに大丈夫だと首を振った。仕事は片付いて区切りがついていたので、何も邪魔などしていない。

「眠れない時は、無理に「寝なくては」と考えなくていい。目を閉じて横になっているだけでも、充分休息になる」

 僚は苦笑いを浮かべた。迷惑がられるかと心配していた気持ちが一気にほぐれる。男はいつだってそうだ。こうして心を配り寄り添って、気持ちが軽くなる言葉をくれる。申し訳なさに縮こまる心を優しく包み込んでくれるのだ。
 うかがうように見上げてくる眼差しに笑いかけ、神取は軽く頭を撫でた。そうするとたちまち僚の表情がふっと柔らかいものになった。あちこちで固まっていた余計な力が抜けたのだろう。少し撫でただけでこれなら、もっと続けたらもっと好きな表情が見られるだろうか。神取は繰り返し撫でた。

「昼間たっぷり寝たから、ちょっと寝るだけで目が冴えてしまったのかもしれないね」
「ああ……そうかも」

 嬉しげな微笑みで、僚はじっと男を見つめた。
 唇が何か云いたげに引き締まるのを見て取った神取は、しばらくの間言葉を待った。
 やがて、僚は口を開いた。

「絵本さ、今度、全部見せてもらってもいい?」

 すごく良いお話だったから、他のも見てみたくなったという僚に、神取は是非とすすめた。自分も好きになったものを気に入ってもらえるのは嬉しかった。
 だが。

「くれぐれも言っておくが、絵は極力見ないように」

 重い声で念を押す男に、僚も重く頷いた。そしてすぐに、ふふと笑いをもらす。

「話は良いんだよ」

 それはわかっている、疑いもしないと頷き、またふふと笑う。神取も同じく、堪えきれないといった様子で肩を揺すった。

「身体が温まるように、ココアを用意しよう」
「いいのか、嬉しい」

 心持ち目を見開き、僚は微笑んだ。神取も口端を緩め、すぐに用意すると書斎を出た。
 その後を僚は追った。
 キッチンに来たところで、神取は彼の格好を見直した。きちんと上着を着こんでいるので安心する。

「寒くないかい」
「鷹久の隣、暖かいから」

 だから平気だと、僚はぴったりくっついた。
 冷蔵庫から牛乳、棚からココアの缶を出すのに苦労するほど、僚は力一杯押してきた。神取は負けじと足を踏ん張り、温まる為か邪魔する為か判別しにくい僚の行動に堪えた。
 十分温まったのか、鍋を火にかけようとする頃には僚はくっつくのをやめた。しかし、なければないで寂しいもので、神取は隣で行儀よく出来上がりを待つ少年にちらりと目配せした。目を見合わせると、お互いの顔に自然と笑みが浮かんだ。

「ああ……いい匂い」
「もう出来上がる」
「うん、ありがと」

 優しい囁きに神取は微笑んだ。おおよその目分量で作ったが、ちょうど二つのカップに収まった。両手に持ち、後ろに僚を伴ってリビングまで進む。ソファーに座り、肩を寄せ合ってココアを啜る。
 甘さが丁度いいと、熱いため息とともに僚は喜んだ。

「昼に寝すぎちゃったなあ」

 それでこんな時間に起きてるんだから、しょうがないな…僚はがりがりと頭をかいた。

「しっかり休めた証拠だ、よかったじゃないか」

 軽く笑いかける神取に、僚は苦い顔で歯を見せた。ひと口、またひと口と少しずつココアを啜るにつれ、身体が芯から温まっていく。夕食の豆腐粥と同じく、男の愛情が身体中に巡っていくようだった。
 ベッドの中で目を覚ました時は、今夜はもう眠れないと思うくらい目が冴えてしまったが、こうしてゆっくり少しずつココアを味わっていると、緩やかに眠気が押し寄せてくるのがわかった。白い湯気がほのかに立ち上るココアを見つめ、僚はおもむろに口を開いた。

「最近さ」

 どうした、と言う代わりに、神取は彼の方へ静かに首を向けた。

「最近、ここ数ヶ月くらい、夜、よく眠れるようになったんだ」

 ゆっくり語り出した僚の声に、神取は注意深く耳を傾けた。
 僚は独白を続けた。
 何も心配せずに、何も気にせずに、ぐっすり眠れるようになった。

「あの……バイトしてた頃、毎日怖かった。心配事だらけだった」

 帰り道で誰かに出くわすんじゃないか、知ってる人間に見られるんじゃないか、いつもいつも…朝も昼も、気が気じゃなかった。
 一日ずつ、今日も何もなかったってぐったりするような毎日送ってた。

「ぐったりするか、一晩中痛みに呻くかのどっちかだった」

 その頃の自分への嫌悪に小さく唇を歪め、僚は笑った。あまり好きな表情ではないが、神取は黙って見守った。

「だから、あの夜二人に会った時、……俺の事を知ってるって人間に会った時、ああ終わりだと思って……心臓が止まりそうなほどだった。けどその一方で、終わっちまえって破れかぶれになってもいた」
 もういいや、どうにでもなれって

 始めははぐらかそうとしていたのに、途中で態度が変わったのは、そう思っての事だったのだ。神取は手繰り寄せた思い出をめくりながら、小さく頷いた。

「けど、鷹久も須賀さんも、本当に傷の手当してくれるだけで、誰かに言ったりしなかった。秘密は守るって」
「君がそうやって冷や冷やするように、向こうも同じくそわそわしている。だからお互い、外では知らぬふりをする。それが、遊びの最低限のルールだからね」

 僚は呻くように頷いた。

「その後学校で鷹久と会って、秘密は守るよって言われて、本当に守られててほっとした後、急に……なんで自分はこんな事してるんだろうってなってさ。本当に急に馬鹿馬鹿しくなった」

 好きでもないのにわざわざ痛い思いしにいって、毎日今日こそバレるんじゃないかとひやひやして。金が欲しい訳じゃないのに。何やってんだろう自分はって思って、バイト、やめた。

「苛々ムカムカしてたのも、なんだか急に小さくなっていったよ。今になって思うとさ、本当に苛々してたんじゃなく、自分から苛々しにいってたようなものだな。無理やり苛々を起こしてたみたいな。自分から苛々を拾いにいってた感じ」

 そうやって無理にこだわるのを止めたら、色々楽になった。
 もう気にしなくていいんだ、無理に苛々を募らせることもないんだ、もういいんだって思うようにしたら、安心して眠れるようになった。

「部屋も綺麗に快適になって、ね」
「……うん」

 指の先まで温まって、心がほぐれ、とてもゆったりとした気持ちに包まれる。実感するごとに、僚は無性に笑いたい気分になった。

「良く寝る代わりに、嫌な夢見るようになったけど」

 神取は小さくそうかと呟き、ココアのカップを傾けた。僚も同じくココアを啜り、しばしの間濃厚な味に浸った。
 やがて、ゆっくり続きを口にする。

「嫌な夢見て、夜中に目を覚ますまでは前と一緒なんだけど、今はちょっと違うんだ。ああもう二度とあんなの起こらないんだなって、安心…してる部分もある」
「ああ、過ぎた事だ」
「うん、そう」噛みしめるように、二度、三度頷く「今はそれを確認してる最中なのかも。夢の中の事を本当だと冷や汗かいて飛び起きて、夢だったって安心して、また眠る…のが、今は必要なんだと思う」

 夢を見て目が覚めた後、以前ならば朝まで眠れない事がしょっちゅうだったが、今はかなり図太くなった。
 僚は小さく声に出して笑った。

「起きた瞬間は心臓がどきどきしてるんだけど、夢だったと分かって安心して、朝までもうぐっすりなんだ」
 今日は、安心しすぎて返って目が冴えちゃったみたいだけど

 照れ隠しに肩を上下させる。

「では、尚更ココアは効くね」
「そうなのか」

 僚は、床につけていた足を抱えるようにしてソファーに乗せ、男に顔を傾けた。

「身体を温めると、ぐっすり眠れる。ココアは丁度よく温まる、優れた飲み物なんだよ」

 ココアに含まれる成分がどんなものか、どういった働きをするかの説明を受け、僚は何度もなるほどとうなずいた。静かな、独特の抑揚で話す男の声は心地良く、ココアの効果と相まって、舌にも身体にも甘いひと時を味わう。

「そうなんだ」
「その証拠に、今にも瞼がくっつきそうだ」

 神取は頬をひと撫でして笑った。僚は一瞬むっとした顔になったが、触れる手のひらのぬくもりに嘘の表情は長続きしなかった。まったく、男の手に弱い。大好きな一つだ。
 他にも、ホットミルクやハーブティーもよく効くと、神取は説明した。僚は聞きながら、もうあと残り僅かになったココアを覗き込んだ。カップにはまだほんのり熱が残っている。両手で包み込み、身体中に送る。

「それとね、最近の研究では、眠る前にこうして二人でココアを飲むと、より互いの愛情が深まるのだそうだ」
「そんな効果もあるのか、すごいな」

 いろんな知識を持っていると、僚は感心した眼差しで男を見つめた。その顔には曖昧な笑みが浮かび、どこか癇に障る表情に僚ははっとなった。
 瞬きで察した神取は、今度はよりはっきりとした表情、まんまと引っかかったと笑う顔付きになった。
 僚は地を這う唸り声を上げた。

「ああそう……そういう事するんだな鷹久は」
「いや、すまない」

 あんまり熱心に聞いてくれるから、つい調子に乗ってしまったと、男は謝った。僚は大きく首を振って受け取りを拒否し、カップを大きく傾けた。

「ごちそうさま」

 飲み終えたカップをことさら丁寧にテーブルに置き、僚は立ち上がった。視界の端に、動きに合わせて顔を上げる男の動きが映る。肩越しに振り返り、憎々しげに唇を歪める。

「寝る。もういい寝る」
「片付けたら、私もすぐにいくよ」
「だめだよ、鷹久は書斎で寝ろよ」

 こんなほら吹きと並んで寝るなんてごめんだと、低く唸る。男は大げさに顔をしかめた。

「それは寂しい。それに寒くて、凍えてしまう」
「そんなの、自業自得だろ」

 僚は叩き付け、ふんとばかりに目を逸らした。
 失敗したと、神取は苦笑いを浮かべた。素直な反応が可愛くて、つい余計に舌を回してしまった。反省しているから、どうか許してほしいと重ねて詫びる。

「……もういいよ。ココアが美味かったから許してやる」
「よかった、ほっとした」
「今度騙したら、ただじゃおかないからな」
「よく肝に銘じておく」

 神取は頷き、立ち上がって僚の隣に並んだ。そしていつもと同じように、肩に手を回した。

「……じゃ、寝よう」

 僚は肩の手をちらりと見やった。自分は本当にこれに弱いと、口をへの字に曲げる。しかし、腹立たしさはもうとっくに消え去っていて、今は単なるポーズでしかなくなっているので、素直に肩の手に身をゆだねる。
 大きなベッドに身を寄せ合って横たわり、お休みと交わして目を閉じる。
 薄闇で、まだ残るココアの甘い香りがふっと鼻先をかすめた。
 今度はきっといい夢が見られる…僚はほのかに笑み、もう一度心中で男にお休みと告げた。

 

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