チクロ

木枯らし

 

 

 

 

 

 丁度良い焼き色のついた厚切りのパン、とろりとした卵、温かい野菜のスープに、キウイフルーツ。そこにいれたてのコーヒーの香りが加わる。
 いつもながら見惚れるほどの朝食の風景に、桜井僚はうきうきとした気分でテーブルについた。男もすぐに向かいに座り、同時にいただきますと箸を手に取る。
 僚はまずスープに口をつけた。キッチンで一番いい匂いをさせていたのがこのスープで、男が作っている時から早く食べたいと思っていたのだ。

「あったまる……」

 ため息交じりのいい笑顔を見せる僚に、神取鷹久は嬉しげに頬を緩めた。
 僚はもうひと口啜り、それからトーストに手を伸ばした。程よくバターがしみ込んで、噛みしめるほどに美味いと笑顔になる。

「いつも、美味しいものありがと」
「こちらこそ、君には色々ご馳走になっている」

 僚は目を見開き、ご馳走になっているのは自分の方だと首を振った。とんでもないと神取は返す。毎度振舞ってくれる手料理に、何度感動した事か。

「昨夜のつまみも、実に美味かった」
「……うん」

 僚は照れくささからしかめっ面になり、このスープだって絶品だ、身体の芯まで温まって最高だと絶賛した。

「よかった、作った甲斐があるよ」
「俺も、鷹久が美味いって言うの、ほんとに嬉しい」
「私もだ。次は、何を作って美味いと言わせようか、いつも考えているんだ」
「俺も負けてられないな」

 帰ったら勉強しないと、と、僚はおどけた表情になった。
 二人は笑い合い、お喋りを交わしながら朝食を進めた。
 一緒に作り、一緒に食べ、一緒に後片付けを済ませる。その後は、明日からまた始まる一週間の為に、それぞれの生活に戻る。
 帰り支度を済ませた僚は、男の運転する車でアパート近くまで送られた。
 いつもは大通りで別れるところだが、神取は適当なところに車を止めると、アパートまで付き添うと僚と一緒に車を降りた。

「ありがと」

 並んで信号を渡る男に顔を向け、僚はにこりと笑った。
 大通りからアパートまでの小道は、ほんの緩やかな下り坂になっている。冬特有の低い日差しを浴びながら、僚はゆっくり歩みを進めた。
 今日は少し風があり、時折首を竦めたくなるような木枯らしが吹き抜けた。
 出来るなら今日も一日一緒に過ごしたいが、色々やらなければならない事がある。男だって、なにかと忙しい身だ。一緒にいたいけど我慢だ。すぐまた、来週また会える…今からもう待ち遠しい。
 そんな思いから、つい足取りがゆっくりになる。

「帰ったら、まず何を?」

 男からの質問に、まずは洗濯、と僚は挙げた。

「今日は天気もいいし。鷹久は?」
「君が帰った部屋で、一人いじける」
「うそつけ。なに、膝を抱えて?」
「そう、暗い部屋でしょんぼりと」

 哀れを誘う声音で綴られ、脳裏に、暗い部屋の隅っこにうずくまる人影が思い浮かぶ。しかしそこに男の顔を当てはめるのは、どうしても無理だった。実に難しい、不可能だ。
 全く想像がつかない。

「はあ……」

 何を言っているのだと、僚は笑いながら肩を叩いた。
 その時少し強めの風が吹き、近くの家の庭木から枯葉を舞い散らせた。くすんだ黄色、橙色の葉は、ちょうど通りかかった二人の頭や肩をかすめて、小道の端に彩を添えた。
 上手く避けたつもりだった僚だが、一枚が鼻の辺りをかすめていった。かさかさとした感触がむず痒く、また照れくさいのもあって、ごまかしに笑いながら鼻の下を拭う。

「あまり強く擦ると、赤くなるよ」
「ほんとにな」

 嗚呼かっこわるい…僚は苦笑いで応えた。

「もうすっかり冬だね。寒さに負けないよう、お互い気を付けよう」
「そうだね」

 アパートの前までやってきた。僚は一度立ち止まるが、男はまだついてくる素振りを見せた。敷地の一番奥、自分の部屋の前まで、並んで歩く。そこでふと僚は、男がここまで送ってくれたのは、昨日話した事のせいかと、考えを過ぎらせた。そこまで心配させて悪いと思う気持ちと、労わりに喜ぶ気持ちとが、ぐるぐる絡み合う。
 僚は扉の前で男に向き合い、口を開いた。

「それじゃ、また来週に」

 帰る男の背中を見送ってから部屋に入ろうと思っていたが、「ああ」と応えながら男はポケットから何やら取り出した。
 合鍵だ。
 何をするのかと尋ねる僚の視線には答えず、当たり前とばかりに神取は鍵を開け、伴って玄関に入った。
 戸惑う僚を見据え、神取は両手で顔を包み込んだ。
 思いがけず強い力で掴まれ、僚は目を丸くした。
 対照的に神取は目を細めた。
 車を降りた時は、扉の前であいさつするつもりでいた。昨日の話は少なからず衝撃的で、また自分の甘えもあって、一秒でも長く過ごし共有したかったのだ。励ましを伝えたかったのもある。上手く言葉が見つけられない代わりに、傍にいる事で証明したかった。
 そして、扉の前で手を振るつもりでいた。
 しかし先ほど、小癪な一枚の枯葉が、彼の唇にいたずらをした。彼にキスをしたのが気に食わない。

「……なに、睨むなよ」

 おっかなびっくりといった様子で笑いかける僚に、神取ははっと目付きを緩めた。昨日言われたばかりだ、顔が怖い、と。

「すまん」

 詫びると同時に口付ける。すぐに、僚の腕が抱き付いてきた。神取も抱き返し、しばし一つになる。
 耳を澄ますと、互いに相手の鼓動が聞こえてきそうなほど、辺りは静かだった。
 やがて気が済んだ神取はそっと顔を離し、間近に僚の眼を見つめた。

「……ありがとう」
「な…なにが?」
「これで来週まで、元気に過ごせる」
「俺も」

 ありがとうと僚は笑いかけ、腕を緩めた。男の肩に顎を乗せるようにして寄り掛かり、大きなため息を一つつく。

「じゃあ、また来週な」
「ああ。ではまた来週に」

 男の大きな手が、背中を軽く叩いた。僚は姿勢を正し、玄関を出ていく男を見送った。しっかり地を踏みしめる足音が、遠ざかっていく。
 聞こえなくなってしばらくしてから、また大きく息を吐き出す。それから、部屋の方に目を向ける。今日やる事に目を向け、気持ちを切り替える。
 しかし今しばらくは、どうしてか身体が熱くて、動けそうになかった。

 

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