チクロ

今月のメニュー

 

 

 

 

 

 肉、乾物、缶詰、野菜、卵と、かごに次々買い物が足されていく。
 売り場を移動する彼の足取りが心なしか軽やかなのは、チケットの効果に包まれているからだろうか。お供よろしくカートを携え後に続く神取鷹久は、いつもと変わりないようで明らかに違う動きに見惚れ感心していた。彼だけまるで極上の羽毛に包まれているかのように、柔らかいのだ。
 チケットの効果はもちろん、これから彼の大の好物を選ぶのだから、浮かれた気分になるのも当然だ。
 顔に出さぬようこっそり笑う。
 二人はフルーツコーナーにやってきた。
 くっきりとした明るい照明の下、綺麗に並んだオレンジの前に、ついに立つ。
 上から下まで、端から端までしっかり見渡し、桜井僚は目を見張った。
 神取は斜め後ろに寄り添い、まるで宝の山を見るかのように輝く僚の顔をそっと見つめた。彼にはある特技があり、理屈を超えて一番甘い果物を見分ける目を備えていた。言葉では説明出来ないが、そのようにあるのだという。少々信じにくいものだが、身をもって経験し、納得した。彼が見つけるものはどれも極上の甘さでもって舌と心をとろかした。
 彼には特技がある。
 そんな彼に、ここのフルーツコーナーはどんな喜びをもたらしているだろうかとあれこれ思い浮かべていると、僚は小声で囁きかけてきた。
「ここ、良いのばっかりですごいな」
 高いのも納得だと呟く僚に神取はふと微笑んだ。

「そう言えば前回はキウイを選んでくれたね。とっても甘かったよ」
「うまかったろ」
「ああ、最高だったよ」

 今この瞬間も、あの時の夢見心地を思い出せると、神取は笑顔になった。

「そういえば――」

 前回ここを訪れた時は特技を知らず、見え方も分かっていなかったので気付いていなかったが、あの時もフルーツコーナーで密かにはしゃいでいたのだろうか。ふと気になり、神取は尋ねた。
 すると僚はむず痒そうな顔になり、ぼそぼそと答えた。

「あの時は……初めて作るんで緊張してて、それどこじゃなかったんだ」

 はしゃぐ余裕はなくて、良いものを作らなきゃ、良いものを見つけなきゃと焦っていた。

「そうだったか。あのメニューは最高だったよ。またの機会に、ぜひ」
「うん、ありがと。今夜もまあ期待してよ」

 一度経験した事で色々勝手がわかった。言葉ほど余裕はないが、以前よりは気持ちも落ち着いている。
 神取はもちろんだと微笑みかけ、空腹で倒れる前に頼むとおどけて言った。
 男の百面相を横目で楽しみながら、僚は狙い定めたオレンジを一つ手に取った。

 

 

 

「はい、お待たせ」

 声に神取は目を上げた。キッチンの入り口に、可愛いアップリケのついたかっぽう着姿の僚が立っている。前回、見たいというこちらのリクエストに応えて、披露してくれたのだ。

「っ……」

 思った以上に可愛くて、それがまたよく似合い、神取は堪えきれず口元を押さえた。それでも笑い声はもれた。変だという意味で笑ったのではないと、慌てて弁明する。

「むしろ笑われなかったらどうしようかと思った」

 自分でも初めて見た時、腹が痛くなるほど笑い転げたんだと、僚は歯を見せた。作った本人、妹自身も、そういった笑いを誘う目的で作ったので、狙い通りいって嬉しいと言っていたと説明する。
 爽やかなチェック柄のかっぽう着の、二つのポケット部分にアップリケが施されていた。モチーフは前回の刺繍と同じレモンとオレンジで、それぞれにユーモラスな表情がつけられていた。

「この悪そうな顔がいいだろ、これ」

 神取は大きく頷いた。
 悪巧みに目を細めているが、凶悪ではなく、微笑ましいのだ。ちょっとした悪戯を思い付いたと、レモンとオレンジが目配せしている場面に、神取は感嘆の声をもらした。器用だと褒めると、僚は自分の事のように目を輝かせた。

「さて、じゃあ、作るね」

 号令に神取は食器棚の一角からエプロンを取り出した。
 手早く着込む男に僚は奇妙な顔付きになった。
 神取は笑いかけ、一人でソファーにふんぞり返っているのは性に合わないのだと言った。何でも手伝うから、何でも言い付けてくれと隣に立つ。

「迷惑でなければ」
「いや、迷惑なんてないけど」

 僚は曖昧な顔で笑った。ただ困惑する。

「鷹久、エプロン姿さ」

 なんだか、と僚は言葉を濁した。おもむろに手を上げ、肩に触れる。すとんとしたシルエットのエプロンだ。柔らかなブラウンの生地は手触りもよく、男の身体に綺麗に馴染んでいた。

「おかしいかい」

 これまで何度か身に着けた場面は見せてきたが、と神取も曖昧な笑顔になる。

「ううん、全然」

 おかしい事なんてない、僚は慌てて首を振った。そんな事思うものか、と、顔をしかめる。心の中で、ああまたちゃんと言えなかったと飲み込んだ言葉に後悔する。
 本当はセクシーといいたかった。軽く腕まくりして、それがまた様になる。いかにも出来る男といった風情で、見た瞬間必ず胸がどきりとする。もう何度か目にしているのに、その度に必ずそうなるのだ。
 今回もそうだ。リビングから遠目に見るのだって恥ずかしくなるほど動悸がするのに、今回はその上隣で一緒に料理をする…嗚呼もう顔がにやけてしまいそうだ。
 気まずい沈黙を寄せ付けまいと、僚は作業に取り掛かろうとした。

「私もアップリケをつけてみようか」

 意識して顔の筋肉を引き締めていると、そんな言葉が聞こえてきた。

「……は?」
「この辺りに、ワンポイント。どうだろうか」

 あるいは君とお揃いにポケットにしようか。冗談とも言い難い男の言葉に何度も目を瞬く。

「いいよ、今のままで十分カッコいいから」

 僚は冗談に交えて本音を伝えた。そういう方法なら滑らかに口が回った。

「ほんとほんと、カッコいいって」

 何か云いたげな視線がついてくる。僚はかわす為に、野菜の細切りを頼んだ。

「まずは縦半分に切り、種を取ります」

 ピーマンを並べ説明する。喋り始めは声が震えたが、実習で聞いた通りに口にするとすぐに落ち着いた。

「これはメインの青椒肉絲に使うので、こんな感じで切って下さい」

 とんとんと包丁を鳴らし、見本を示す。包丁を置いて見上げると、承知したと神取は残りを引き受けた。
 小気味よい包丁の音と、滑らかな手付きに、僚は目が離せなくなった。やる事はたくさんあって、早く取り掛からねばと思うのだが、すっかり魅了されていた。

「何か違ったかな」

 見とれていると、視線に気付いた男が手を止めた。心配気味の声に僚は首を振った。

「ああ、いや、鷹久んちの包丁すごく切りやすいから、いいなと思って」

 するすると言葉が出たのは、実際に思っていたからである。前回キッチンを借りた際、揃っている調味料の類もそうだが、道具の一つひとつも上質のものばかりだと感心したのだ。

「すごく使いやすかったよ」
「それはよかった」

 嬉しげな男の顔にいくらか肩の力も抜け、僚は次の作業に取り掛かる事が出来た。
 隣に別のまな板を並べ、サラダやスープの準備を進めがてらちょっとしたお喋りを楽しむ。
 盛り付けるお皿はどれにしようか、味付けの甘い辛いの好みはどんなものか、色々と発見があった。
 聞き上手の男におだてられ、僚は自分の持つ柑橘類の豆知識などを披露した。ひけらかしになっていないかとちらちら不安が過ぎるが、嫌味でなくごく自然に驚いてくれる男に乗せられ、僚はいくつか口にした。
 話している間、男のように相槌を打てば相手が気持ちよく喋れるのだと、学ぶ部分もあった。心に留めておこうと、刻み込む。
 メイン、サラダ、スープの合間にデザートのゼリーを冷やし、僚はてきぱきと作業を進めた。男の手伝いもあって、とてもスムーズに進む。男の補助は実に絶妙で、どれも息が合っていた。あれが欲しいと思うと同時にさっと揃うのは気持ち良く、お喋りの効果もあって、一度は落ち着いた高揚感が胸の内で再び膨れ上がっていった。
 また、コンサートのチケットも頭を過ぎり、心はどこまでも弾んでいった。
 気付けば鼻歌が零れていた。
 横で作業を手伝っていた神取は心持ち目を見開き、ご機嫌な少年に微笑んだ。
 僚は照れ隠しに大げさな笑い声を上げ、今の曲が何か当ててみろ、とやけ気味に言った。

「短くてわからなかったな。もう一度頼む」

 人差し指を立てる男に、僚はそうだろうと苦笑いを零した。気持ちの赴くままに音を発しただけで、何かの曲を口ずさんだわけではないのだ。

「じゃあもう一回な」

 気を取り直して綴る。今度は神取もすぐにわかった。

「エルミンの校歌だね」
「大当たり、はいこれ景品」

 僚は楽しげに笑いながら、スープに使った残りのコーンをひと匙男の口に運んだ。

「おっと」

 まさか景品が口に飛び込んでくるとは思っていなかった神取は、慌てて迎えた。何の味付けもされていないが、噛みしめればそれなりに味わいがある。トウモロコシの風味が良い。

「美味いよ」

 僚には強がりに聞こえ、余計笑えた。あと一すくいでカラになるので、自分も口に入れる。よくよく噛みしめていると、それほど強がりでもないなとわかった。

「うん、美味いな」

 お互い頷きながらコーンを噛みしめ、笑い合う。
 サラダ、スープが出来上がり、メインの下準備も整うと後は早かった。

「下ごしらえまでがちょっと面倒なんだよな」

 強火のフライパンで炒めながら、でもそこも悪くないのだけどと僚は言った。
 使ったザルやボウルを洗いながら、神取は同感だと頷いた。

「今日は鷹久が手伝ってくれたから、すごく楽しかった」
「私もだ。次の機会も、是非手伝わせてくれ」

 また景品がもらえるかもしれないから、と神取は笑った。

「……こっちこそ、うん、よろしくな」

 僚はちらりと男のエプロン姿を見やり、出来るだけ平静を装って頷いた。次こそはもう少し落ち着くはずだと、自分に言い聞かせる。毎度そうやって言い聞かせて、もう何度目になるかわからないが。
 メインも出来上がり、今日のメニューも無事揃った。一番に取り掛かり冷やしていたデザートのゼリーも綺麗に固まり、テーブルを一層華やかに彩った。
 向かい合って席につき、いただきますと箸を取る。
 僚は飯椀を持ったところでさりげなく男の様子を伺った。頬を緩め、美味いともらす様にやったとにやける。これで安心して自分も食事を進める事が出来ると、大きく頬張る。
 いつもの倍、美味しく感じられた。
 この歯応えが良い、味付けが好みだ、一つ一つ丁寧に好きな箇所を挙げる男の声はなんともむず痒く、僚は誇らしさと恥ずかしさに唇を緩めた。
 気ままなお喋りを楽しんでいると、明日の話が出てきた。
 絵を見に行かないかとの男の誘いに、僚は目を見開いた。始めは困惑したものの、話を聞く内どんどんと興味は膨らんでいった。
 デザートを食べる頃にはすっかり気持ちは固まり、明日の予定に心が躍った。

 

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