チクロ

今月のメニュー

 

 

 

 

 

11/2
 びしょ濡れになった服を着替えた桜井僚は、同じように着替えた男に案内され、キッチンに足を踏み入れた。
 明日の準備の為だ。
 砂糖に塩コショウ、酒醤油みりん、油…常備されている調味料の類を、不思議な面持ちで見回す。

「調理器具はこの下だ」

 キッチンカウンターの下の取っ手を引き、神取鷹久は披露する。片手鍋、両手鍋、フライパンに中華鍋が収納されていた。そして食器はこの棚にある通りだと、背面の棚を指す。
 僚は振り返った。
 白で統一された造り付けの棚は天井まで届き、隙間なく一面を覆っている。目の高さ、胸の高さ辺りは透明なガラス戸で食器類の他に、ワイングラスや、ティーカップが並んでいた。その他の開き戸や引き出しには箸やナイフフォークの類が綺麗に整頓されていた。食器棚の一部はカウンターになっていて、オーブン、電子レンジ、炊飯器が並んでいる。どれもとても綺麗で、つい先ほど箱から出したばかりに思えたが、光の反射でスイッチボタンの辺りにうっすらと使用の跡が見え、また不思議な気持ちになる。

「足りないものがあったら、明日の買い物で足すといい」
「……うん」

 僚は慌てて笑顔になり頷いた。
 以前、初めてここに泊まった朝に、ちょっとした手伝いで足を踏み入れた事がある。こちらの大好物であるフルーツを用意してくれた事に感謝しながら、切って皿に盛り付けた。朝という事もあり、シンクの前にある大きな窓が眩しく、清々しかったのを覚えている。作業の後はキッチン全体を見る事無くさっと出たので、全容はわからなかった。大型の冷蔵庫に驚いた記憶がある。その冷蔵庫はダイニングから見える範囲にあり、深みのあるブラウンはよく目を引いた。目立つというのではなく、見惚れると言った方が近い。
 わかっているのはそれくらいだったが、今日初めてきちんと案内され、この部屋で生活している人間の匂いにはっきりと触れ、僚は奇妙な感覚が込み上げるのを感じていた。ぼんやりと曖昧だった輪郭がしっかり整って、ものがよく見える。わからない隙間の部分が埋まって、すっきりする。気持ち良くて、嬉しい感覚。
 僚は手にしたメモに目を向けた。明日の買い物リストだ。明日、以前男と約束した『調理実習の成果』を初めて披露する。何も特別なものはない、ごく普通の献立だが、男は是非にと頼んできた。君の語りがあまりに美味そうで喉が鳴って仕方がない、これは食べなければ収まらないと約束を迫られ、僚は承諾した。
 いよいよ明日となった。
 マンションのキッチンには、調味料も、調理器具も、食器類も、基本的な物はひと通り揃っている。不足はまるでない、充分だ。よそのキッチンで料理をするなんて初めてで、今から緊張すると僚は忙しなく辺りを見回した。引き受けたからには最高のものをご馳走したい。

「何か、気になるところはあるかね」
「ありがとう、大丈夫」

 説明は充分だと、笑顔を向ける。神取にはぎこちない作り笑いにしか見えなかった。こちらからの頼み事もそうだが、向こうのお願い事が、表情を硬くさせているのだろう、そう推測する。また、先程の戯れも尾を引いている、疲れも顔に出るというものだ。
 ゆっくり風呂で洗い流し、早めに就寝するとしよう。

 

 

 

11/3
「メモは持ったよ」

 コートにマフラー、斜め掛け。外出の準備を整えた僚は、よく見えるよう買い物メモを広げて男に示すと、右のポケットにしまった。
 神取は頷き、壁の時計を確認した。昼下がり、丁度いい。まだ本格的に混雑する時間ではないから、さほど苦労せず買い物を済ませられるだろう。ふと目にした僚の横顔は、いささか緊張しているように見受けられた。綺麗に整った顔はきりと引き締まり、眼差しも強い。

「何か困りごとでも?」

 わざとおどけて肩を抱く。苦笑いの後に続いた言葉は、推測した通り上手く作れるか心配しているというものであった。
 何度か作って馴染んではいるが、慣れぬ調理場で同じように出来るとは限らない。また、人に披露する気負いもあって、やはり少し緊張すると、僚はにやりと笑った。

「あと、鷹久と買い物って、やっぱり何か嬉しくて」

 同じだと微笑みかける神取に、気が合うねと僚は笑い返した。どんな時でも一緒が嬉しいと喉元まで言葉が込み上げるが、照れ臭く感じて慌てて飲み込んだ。
 地下の駐車場で車に乗り込み、出発する。十分もせず到着したそこは、大型のスーパーマーケットだった。

「お願いして作ってもらうのだから、支払いは任せてくれ。欲しいものがあったら、どんどん入れるといい」

 頷いて僚はメモを取り出し、必要なものを求めて歩き出した。野菜売り場で目当てのものを探していると、普段行く店では見かけない、珍しい野菜が並んでいるのが目に入った。売り場がとてもカラフルだと、驚きつつ見回す。また、あちらではせいぜい菊の花くらいだが、他にも何種類かの食用の花が、小さなパックに丁寧に収められ並んでいるのも目を奪う。
 鮮やかな黄色、上品な紫、可愛いピンク、赤、白…華やかさに思わず手が伸びそうになった。

「中々悩むところだね」
「ああ、いや……」

 慌てて手を振る。どれにしようか迷っていると見えたようだ。一旦は否定したものの、トマトの赤の代わりに沿えるのもいいのではないかと、気持ちが傾く。が、前面に貼られた価格のシールにすぐに目を覚ます。
 神取は一つ二つ手に取り、ざっと目を通した。

「こちらはビタミン豊富で、ふむ…これはコクのある味と」
「よく食べるの?」
「試しに一度か二度ね。中々面白い気分だよ、おすすめだ」

 神取は笑いかけ、手にしていたパックをカートのかごに入れた。迷いのない行動に僚は小さく目を見開いた。さすがと感心しつつ、次の品を求めて移動する。
 精肉コーナーでも、ついつい珍しいものを追って目があちこちさまよってしまうのを、僚は止められなかった。見回しながら、目当ての品を手に取り、普段買うものに比べずっと『お高い』と息を飲む。珍しい品、高価な品、しかしそれらを買う人がいる。男のように、日常の生活で消費する…知らない世界だ。妙な興奮に見舞われる。
 どこかで見かけたような、といったあやふやな記憶を引っかく珍しいチーズの山や、知ってはいるが恐らく使う機会は来ないだろう、と笑いが込み上げるスパイスの類、初めて目にする輸入菓子の数々に、僚は口を閉じる暇もなかった。
 色の洪水に眩む目を何度か瞬き、男に顔を向ける。

「買い物は、いつもここで?」
「主にここだ。最近ようやく、どこに何があるか把握出来るようになったよ」

 いや、まだ少々怪しいかもしれんが、と、神取は苦笑いで肩を竦めた。
 よくわかると、僚は一緒に笑った。

「ここ、すごく広いし、覚えるの大変そうだ」
「ああまったく。だが、見るだけでも楽しいので気に入っている」
「確かに楽しいね」

 様々な色が散らばり、ただ眺めて歩くだけでも楽しいと、僚は頷いた。
 四月にあのマンションに移り住んでからここで買うようになったが、普段は時間が取れず外食に頼っており、頻繁に来られないのが少々残念だと、神取は続けた。

「そっか……普段は、どんなもの買って、作るんだ?」

 質問にしばし唇を曲げ、非常に適当であると答える。

「ちょっと、お見せ出来ない代物だ」
「え……」

 思いもよらない言葉に僚は面食らう。何度か朝食をご馳走になった事があるが、どれも味はもちろん見た目も楽しませてくれた。その上忘れず好物も揃えてくれて、何から何まで完璧だった。そんな人間が、見せられない代物を作るとはにわかには信じがたかった。
 どんな風に見せられない代物なのか、想像もつかない。
 戸惑った微笑を浮かべる僚に神取は苦笑いで応え、想像に任せると肩を叩いた。

「一人の時は、とことん手抜きになるからね。君も以前、そんな事を言っていただろう、それと同じだよ」
「……ああ」

 ようやく合点がいったと、僚は目を瞬いた。一人の時は、出来るだけ洗い物を減らす為無理やりにでも一つの皿に盛り付け、器自体もあまり頓着せず適当に済ませている。同じように男も済ませているのかと、妙なおかしさが込み上げてきた。
 しかし、目を見張るほど綺麗に盛り付けられた朝食の記憶は強烈で、自分のようにしている場面は中々浮かんでこなかった。上手く結びつかない。
 食事時にこっそり忍び込んで、覗いてみようか。
 店内をぐるりと巡ってメモに書いた買い物を済ませ、二人はマンションに戻った。
 キッチンの作業スペースに買った品を並べ、僚は早速作業に取り掛かった。

「……おや」

 自宅用に買い足した生鮮品の類を冷蔵庫に収めていた神取は、リビングに何かを取りに行き戻ってきた僚の格好を見て、小さく驚きを現した。
 綺麗な青色の、ゆったりしたかっぽう着を纏った姿に、神取は口端を緩めた。色と生地に見覚えがある。以前彼のアパートに伺った際、棚の辺りで綺麗に丸められて置いてあったのが確かこれだと、神取は記憶を手繰り寄せる。食器棚にあったので、エプロンの類だと推測していた。

「かっぽう着か、中々似合うよ」

 大きめの丸襟と、左右に一つずつついた余裕のあるポケット、袖は絞ってあり、彼を可愛らしく見せるデザインだと、神取はじっくり眺めた。

「これ、結構いいだろこれ」

 僚はポケットに手を突っ込み、恥ずかしそうに笑いながら自慢した。袖まくりが簡単で、煩わしさがないのが気に入っている。

「ああ、実にいい。よく似合うよ。ポケットの刺繍がまたいいね、君の好物のフルーツだ」

 右にレモン、左にオレンジの輪切りが、それぞれ刺繍されているのを、神取は感心しながら見つめた。
 僚はポケットに入れた手で自分に見えるように持ち上げ、これは妹の作品だと男に説明した。小学生の時手芸部に入っていて、習いたての刺繍を披露したくてむずむずしていたので、親のおさがりであるこのかっぽう着を練習台として渡したところ、この二つが刺繍され返ってきた。

「なるほど」

 神取は小さく目を見開いた。輪切りの円形は歪みもなく、針目の大きさも揃い綺麗に仕上がっている。色も一色ではなく濃い薄いを上手く組み合わせて、実に美味そうな輪切りだ。

「器用な妹さんだね。自慢したくなるのもわかるよ」

 満更でもないと照れ笑いを浮かべる僚の顔を、神取は注意深く観察した。彼はあまり、家族の事を話したがらない。だから彼から出てくる言葉には慎重に耳を傾け、聞き取る必要がある。
 嫌うものは極力避けたいものだ。遠ざけておきたいものの話は、出来ればしたくない。しかし今、彼は、滑らかに言葉を繰り出した。ごく自然に親の事、妹の事を口にした。悪からぬ感情、むしろ好ましく思っている方だ。
 彼は、別れた実父含め家族に対してわだかまりを持っているが、今の距離感が上手い具合にこじれをほぐしたのか、独特のきつい眼差しや唇の歪みはこれといって見られなかった。
 神取は言葉を選びながら、彼の妹自慢が満足するよう、会話を続けた。そういった話はこれまでしていなかったようで、ぎこちなくそして短めではあったが、聞いていて楽しかった。誰かを嫌いこき下ろす話より、やはり誰かを褒め尊重する話はとても気持ちが良い。

「では次は、そのアップリケがついたかっぽう着をぜひ見せてくれ」
「うん、わかった。次持ってくるから期待してて」

 僚は生き生きと目を輝かせ、約束した。

「じゃ、作るから、向こうでしばしお待ちを」

 笑顔でリビングを指差す。指示に従いソファーにもたれた神取だが、どうにもキッチンが気になって仕方なかった。ひと通り説明したが、漏れはなかっただろうか。足りないものに困っていないだろうか。そういった心配から始まり、彼一人に全て任せる…押し付ける事に段々と落ち着かない気分になっていった。しかし作るペースがあるだろうから、やたらに手伝いを申し出るのも難しい。それで邪魔になっては本末転倒だ。テレビをつけて気を紛らす。
 しかし、キッチンから聞こえてくる物音を耳は律義に拾い上げた。すぐ傍のテレビの音声よりも、キッチンからの小気味よい音の方がよく聞こえた。とんとん、ことことと几帳面な響きは彼の性格を表しているようで、神取はどんな作業をしているのか思い浮かべながら、出来上がりを待った。
 やがてじゅうじゅうと音がして、何とも食欲をそそる良い匂いが漂ってきた。音と匂いとの容赦ない攻撃にさらされ、腹の虫が暴れ出す。今にも鳴り出しそうな腹を押さえ、神取は一人ひっそり笑った。
 それから間もなく、おまちどおさまと声がかかった。神取はテレビを消し、立ち上がって振り返った。
 テーブルの上に、華やかな色が出揃う。
 これは美味そうだと喉元まで言葉が迫るが、ただ息を飲み、喉を鳴らすのがせいぜいだった。驚き圧倒され、思うように言葉が出せない。神取はただ黙って突っ立っていた。

「花の飾り方って、こんな感じでいいか?」

 千切りキャベツの横に沿えた黄色の花を指差し、僚は首をひねった。なにせ初めての事で、上手くイメージ出来ないのだ。
 心配そうに見上げてくる眼差しに神取は小さく目を瞬き、上等だと応えた。どうやら彼はこちらの無言を、不服からくるものと受け取ったようだ。誤解がとけるよう、思い付くあらゆる言葉で褒めちぎる。彼が、苦笑いで肩を竦めるまで。

「ほんと、そんな大したものじゃないから」

 僚は逃げるようにキッチンに向かった。とんでもない、大したものだ。完璧な食卓だ。夢見心地で席につくと、もう一皿追加された。
 チーズとナッツを組み合わせた、ひと口でつまめるそれに、神取はまじまじと視線を注いだ。

「それ、ワインに合うかと思って、作ってみたんだ。作ったって程じゃないけど、よかったら食べてみて」

 僚は脱いだかっぽう着を手早くくるくると丸め、向かいに座った。神取は目を上げ、期待に輝く眼差しを眩しそうに見つめた後、再び目を落とした。今度こそ言葉も出ない。嬉しさが込み上げてくるが追い付かない。
 いただきますと箸を取る。
 どうぞ召し上がれと、僚も箸を取った。口に合うだろうかとはらはらしながら見守っていると、味噌汁を啜った男がしみじみと美味いともらした。やった、と笑いを堪えながら自身も汁椀に手を伸ばす。上々の出来だと自画自賛し、ようやく緊張から解かれた反動からくる空腹を満たす為、箸を進めた。
 向かいでは男が、始めのひと言きりものも言わず妙に真剣な顔で、黙々と口に運んでいる。食べる以外で口を開くのも惜しいと言わんばかりの迫力に、僚は無性におかしくなるのを感じた。同時に、たまらなく愛おしい気持ちに包まれた。嬉しくてたまらない。美味しいと言葉はもちろん嬉しいが、全身で表現されるのも、また嬉しかった。
 まさに今の男がそうだ。
 泣きたくなるほどの幸福が押し寄せる。よかった、成功だと安心するほどに涙が込み上げてきた。
 慌てて目を瞬き、僚はごまかしに味噌汁を啜った。汁椀を置くと同時に、男が、明日はどうしようかと話を切り出してきた。まだ引っ込んでいないせいで少し焦ってしまうが、実は考えていた事があると返し、提案を口にする。
 都心から程近くの果樹園でフルーツ狩りをしようという計画に、神取は身を乗り出した。
 二人は食事を進めながら、明日の予定について話し合い、楽しい夕餉を過ごした。

 

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