チクロ

そうだけど違う

 

 

 

 

 

 日曜日の午前中、いつも行くスーパーマーケットに買い出しに向かった桜井僚は、会計の前にメモとカゴの中の商品とを確認し、レジ待ちの列に並んだ。待つ間、近場に陳列されている商品をぼんやり眺めるのも、いつもの事だ。今日並んだところからは、週刊誌の類が見えた。見るとはなしに、表紙に並ぶ見出しを目で追う。芸能人の誰それがどうした、アイドルの誰それがどうした、誰と誰が不倫した…見る者の興味をそそる、いかにもといった見出しをひと通り追っていると、自分の番がやってきた。
 てきぱきと会計は進み、清算してレジを離れた僚は、袋に詰めながら壁に貼られた今週のチラシに目を通す。
 一人暮らしを始めてしばらくは、何が何だかさっぱりであった。今も、この袋詰めは少々苦手だが、買い物に関してはすっかり慣れた。自分の生活で何がどれだけ要りようか、買い足すまでの期間はどれくらいか、大まかに掴めるようになった。
 カゴを戻し、出口に向かう。
 メモを取り出し、次はドラッグストアだと顔を上げた時だ。すぐ傍で、小さな悲鳴が上がった。同時に、自分の方に倒れてくる自転車が目の端に映った。
 女児を抱え、ひどく驚いた顔をしている母親と、倒れる自転車とで、僚は瞬時に事態を把握した。
 しかし、倒れてくる二台の自転車を一人で支えるのは無理があった。倒れるまま、二台の自転車に足を挟まれるしかなかった。転んだところに自転車が倒れたのではなく、一緒に比較的ゆっくり倒れたので、それほど衝撃を感じる事はなかった。支える為についた手が多少ひりひり痛むくらいで、足も、すぐに自転車から引き抜く事が出来た。
 大丈夫ですかと、母親が血相を変えて呼びかける。
 真っ青になった顔が気の毒で、僚は殊更明るく平気だと答えた。今にも泣きそうな女児にも、笑いかける。
 付近にいた人らの協力で、倒れた自転車はあっという間に元に戻った。僚も買い物袋を手に下げ立ち上がり、何度も頭を下げてくる母親に何ともないからと首を振った。
 本当のところは、袋の中の卵やパンが気になったが、表面には一切出さず、笑顔で背を向ける。
 ドラッグストアで日用雑貨を買い、今度は何事もなく僚はアパートに戻った。
 早速荷物を確認する。
 食パンが少しひし形になったくらいで、卵は一つとして割れてはいなかった。冷蔵庫に収めながら、結構頑丈な卵の殻に感謝する。
 これなら、手のひらが多少じんじんするのも構わない。地面を強く叩いたようなもので、痛むのも当たり前だ。見ようによっては腫れているかもしれないが、手首も指も問題なく動くのだ、こんなもの、怪我の内にも入らない。
 次に右足を確認する。こちらは、ひと目でわかる程変色していた。見事な打ち身だと苦笑いを浮かべる。触らなければ痛くもなんともないのは幸いだった。歩く時も、余程強く足を叩き付けない限りは響く事もなく、痛みも熱さもなかった。
 しばらくの間は青あざが貼り付くだろうが、じっとしていれば痛みを感じる事もないので、かっこつけた甲斐があったと僚は安堵した。
 望むらくは下敷きにならず、軽々と転倒を止められていたら…もっとかっこよかったのだが。そうすれば、あの母親もあんなに青ざめる事もなく、娘と一緒ににこにこと帰れたのに。
 あの場にいたのが男なら、きっともっとスマートに解決出来ただろうな。あれこれ想像を巡らせながら、僚は軽いドジをメールに乗せて男に伝えた。

 

 

 

「今日で五日目で、今はこんな感じ」


 僚はリビングのソファーに腰かけ、裾をまくり上げた。汚いから覚悟しろと、笑いながら男に披露する。

「………」

 目にしたふくらはぎのあざに唇を引き結び、神取鷹久はそっと手をあてがった。自分の膝に脚を乗せ、響かぬよう静かに撫でさする。

「もう押しても痛くないし」

 険しい顔付きの男に、そう心配しなくていいと僚は言う。そっとさすってくれる男の顔を見ながら、五日前の事を思い出す。
 メールの返信のタイミングで、電話がかかってきた。発信者は男で、通話出来るなら口でどれだけドジをしたか面白おかしく語ろうと思ったが、ひどく真剣な声音にふざけた気持ちはいっぺんに引っ込んだ。
 どんな状態か、今はどこにいるのか。次々繰り出される矢継ぎ早の質問。一月に捻挫してしまった時も確かそうだった。男の事だから、おろおろとした感じではないが、少しおっかない顔であれこれ聞いてきた。電話の向こうで、真剣なあまりおっかない顔をしているのが容易に想像出来た。
 丁度今のように。いや、今よりもっと目が強張っていた。
 というのも、実際に目にしたからだ。電話であれこれ知らせ、通話を切って間もなく、男はアパートに駆け付けた。
 そんなに心配させてしまった自分が申し訳なかった。
 謝ると、実際に怪我の度合いを確認した男は、このくらいで済んで良かったとやっと笑顔を見せた。
 いくらかの見舞いの品を寄越し、試験の無事を祈願して、男は帰っていった。
 それから五日目の金曜日。
 先週約束したチェロの練習をつつがなく済ませ、反省会も終えて、僚は五日経った打ち身を男に披露した。

「そうだ、試験の方も、鷹久が祈ってくれたおかげで今のところ大きなミスもない」
「それは君が頑張っているからだ。私の補助はせいぜい…八割くらいか」

 にやりと笑う男に、僚は大きく目を見開いた。言ってくれると笑いながら肩を叩く。

「鷹久の手、あったかくて気持ちいいな」

 しかし、いい加減いつまでも脚を乗せたままは居心地が悪かった。行儀悪いように思え、そろそろと引っ込める。

「もうあと何日かすれば、いつもの肌色に戻るよ」
「そうだね」
「そんな顔するなって」

 僚は裾を元に戻し、男の肩に寄りかかった。

「言っちゃなんだけどさ」
「どうした」
「鷹久の鞭の方が、痛く感じるよ」

 首を曲げて見上げてくる少年に、神取はそうかいと曖昧な微笑を浮かべた。

「そう。けど、平手も鞭も、こんな風に痕が残った事って一度もないよね」

 その加減をコントロールしている男の右手を掴んで手のひらを上向きにすると、僚は手相占いよろしくまじまじと眺めた。

「もっと痛くされたい?」
「やだよ、そうじゃなくてさ」

 笑いながら、僚はぺしりと男の手を叩いた。
 わかっていると、神取も笑う。

「ほんのり赤くなるのを見るのが、好きなんだ」恥ずかしそうにしている君を見るのが好きだからね「まあつまり、変態という事だ」
「そうだけど、鷹久は違うよ」

 鼻の頭にしわを寄せる勢いで、僚は否定した。目を瞬き、一拍置いて神取はふと微笑んだ。

「……なんだよ」
「いや、いつもと逆だと思ってね」

 いつもは僚が変態と言葉をぶつけ、それを男が違うと否定するのがお決まりのやり取りなのだが、今はそれが逆転していた。
 いつもと役割を交代したやりとりがおかしくて、と笑う男に、僚は顔をしかめた。

「だっ……てさ」

 しかしその先の言葉が出てこない。まんまと乗せられたようで妙に悔しく、楽しげに笑っている男にも腹が立つ。

「……うるさいよ変態」

 尖らせた唇の先で呟き、僚は鼻を鳴らした。

「そうだね。でも、違うよ」
「知ってるよ!」

 いくらか声を張り上げる僚の肩を抱き寄せ、神取は満足そうに笑った。余裕たっぷりの態度が気に入らぬと、僚は鼻息も荒くそっぽを向いた。それでいて、身体はしっかり男に預ける。
 知ってるよ。
 もう一度、今度は口の中で呟く。肩にかかる男の手にいっそう力がこもり、僚は安心して目を閉じた。

 

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