チクロ

初夏

 

 

 

 

 

 とてもよく似合うと手放しで絶賛する男にはにかんだ笑みで肩を竦め、自分でもいい買い物をしたと思っていると、桜井僚は応えた。
「サイズもちょうどいい。七分袖がまたいいね」
 彼の斜め後ろに立った神取鷹久は、まるであつらえたように身体に馴染むボーダー柄の羽織シャツをじっくり眺めた。

「暑苦しくなくて、いいよな」

 今着ているものにも合うしと、僚は軽く腕を広げ男ににっこり笑いかけた。そしてすぐに、ファッションショーはここまでと、いそいそと脱ぎ始めた。まだぶら下がっている値札で生地を傷付けぬよう丁寧にたたみ、元のように袋にしまう。
 僚が今着ていたのは、今日の買い物の成果だ。美味いランチの後、腹ごなしに店を覗きながらそぞろ歩きしている途中で、偶然目に留まったものだ。今の時期に合いそうな、涼しげなボタンシャツを探していた僚は、強烈に惹かれるものを感じた。
 映画の時間までの暇つぶしに差し込んだ買い物で、実のところ何か見つけられるとは思っていなかっただけに、嬉しい巡り合わせであった。
 試着を申し出、その場で羽織ってすぐに気に入り、値段との折り合いも充分であった為、僚は購入を決めた。
 その後、封切されたばかりの評判の映画を二人で観賞し、一杯のコーヒーで休憩したのち帰宅。男のマンションで映画の感想を言い合い、にわかファッションショーをして盛り上がり、充実した一日であった。
 お喋りがひと段落ついたところで、僚は何気なく窓から外を見やった。夕暮れが過ぎ、夜に移り変わるところだった。もう少ししたら帰らねばならない時間だと、あっという間に過ぎた今日に眼を眇める。
 さて、と神取は切り出した。僚は身体を少しずらして見やった。
 落ち着いたところで来週の予定を話し合う。

「金曜日は、いつも通りチェロの練習でいいかい」
「え、いいよ」

 どうしてそんな言い方をするのかと、僚は訝しげに首を傾げた。何か予定でもあるのだろうか。
 神取は緩く首を振った。

「そろそろ、中間考査の時期ではないかと思ってね」
「ああ……うん」

 あやふやな自分の立ち位置を改めて思い知らされ、僚は渋い顔で口を噤んだ。楽しさに浮かれてばかりもいられないのだ。

「そんな顔をするな」元気のない少年の肩を抱き寄せる「今の頑張りが今後に繋がる、もうしばらくの辛抱だ」

 僚は、右肩にかかった大好きな男の手をぎゅうと掴んだ。

「……鷹久は、寂しくないのか」
「寂しいさ。ものすごく」
「……じゃあ、そういう顔しろよ」

 表情を変えろと言いながら、僚は見もせずに男に抱き付いた。抱き返してくる腕の力強さが、言葉以上の感情を伝えてくる。少し苦しいくらいの抱擁は何よりの励ましだった。ここに、こうして自分を案じてくれる人がいると、何より感じられ、僚は頬を緩めた。

「試験は木曜までで、金曜日は特別に休みなんだ」

 しばらくして口を開く。

「そいつはよかった。じっくり勉強が出来る」

 わかっていてわざとずれた事を言ってくる男に、僚は不満をたっぷり詰め込んだ唸り声を上げた。
 神取は笑いながら肩を叩き、宥めた。

「翌日の土曜日は、どこか行きたいところはあるかい」

 それから腕をほどき、恐らく険しい顔付きをしているだろう僚に目を向ける。果たして、想像以上におっかない顔をしていた。といって本当に機嫌が悪い訳でないのは、目付きを見れば明らかだった。からかって済まなかったと頬を撫でると、僚は鼻の頭に思い切りしわを寄せ、ふんと吐き出した。実に迫力のある、愛くるしい顔。
 神取はもう一度頬を撫で、カレンダーの傍に歩み寄った。日付を指して尋ねる。
 僚は顔を戻し、男の指す日付に注目した。

「私は、君を乗せて遠出がしたい。ちょっとした日帰り旅行など、どうだろう」

 あの車で。
 男の言葉に僚は目を見開いた。男はつい先日、今所有している車に加え新たに一台購入した。誰もが知るスポーツカーで、自分もそれなりに興味がある為、駐車場で目にした時、少なからず興奮した。
 まだ一緒に乗る機会がなく、やっと巡ってきた日に胸が高鳴る。

「どこ行こう……海?」

 男がよく連れていってくれる場所を、やや前のめりの気持ちで口にする。
 いいねと神取は微笑んだ。この時期、気候も良いし、楽しむにはもってこいだ。
 時期という言葉で、僚の頭にはたと閃くものがあった。

「どこでもいい?」
「もちろんだ」

 続く言葉を待つ男にしばし考え込み、僚はゆっくり口を開いた。

「ちょっと聞きたいけど、鷹久はサクランボ、好きか?」

 不安から凝視になった褐色の瞳を穏やかに見つめ返し、神取はゆっくり頷いた。たちまちぱっと輝きが戻る。思わず笑ってしまいそうな可愛さに、目が離せなかった。
 今度はどんな甘い驚きをくれるのだろう。神取はじっくりと聞く体制に入った。
 つい二日前、テレビの特集で見たものだと僚は切り出した。五月下旬からサクランボ狩りの時期到来と、いくつかの農園が紹介された。下旬ならば試験の時期は過ぎているので、予定が合えば行けると記憶しておいたのだ。

「サクランボか、いいね」

 嬉しそうに緩む男の顔に笑いかけ、今度も特上を探すと僚は約束した。
 その日は、五月下旬の土曜日の遠出を決定して解散し、翌週の金曜日、いつものチェロの練習後、詳しい計画を立てた。当日朝の待ち合わせの時間、どこへ向かうか、何時頃帰宅予定か、大まかに組み立てる。お互いしっかり書き止め記憶し、前日のチェロの練習で顔を合わせた際、最終確認をした。
 そして土曜日がやってきた。
 目を覚ました僚は、空気の入れ替えに窓を開け放った。見上げる空はやや曇りがちであったが、つけたテレビの予報では雨の心配はないようだ。念の為他局もくまなく確認しながら、朝食の準備に取り掛かる。
 昨夜の内に用意しておいた作り置きを揃えていると、男からメールが届いた。すぐに返事を送り、準備万端だと伝える。
 待ち合わせの時間までふわふわと夢見がちに過ごす。時折はっと、なんて浮かれているのだと我に返るが、すぐにまた熱が戻って、何とも心地良い高揚感に包まれる。
 アパートを出る際、ひと目でわかるような赤い顔をしていないだろうかと気になった。それほど顔がほてっていた。気温のせいではない。風はとても涼しげで気持ちがいい。具合も良い。全身が妙に熱いが、手足はとても軽い。だるさなんてどこにもない。
 待ち合わせ場所であるいつもの交差点に向けて歩き出すと、やや落ち着きが戻った。時間には少し早いが、いつも正確な男の事だ、そう待つ事もないだろう。
 果たしてその通りで、間もなくあの角を曲がって来るだろうと適当な予想のままに、男はやってきた。
 人工的な灯りの駐車場で見るよりはるかに美しい色をした一台の車が、自分の前でぴたりと止まる。
 景色を映し込む曇り一つないよく磨かれたフロントガラスに目を凝らすと、片手を上げる男の姿が見えた。
 僚も軽く手を上げ、おはようと助手席に乗り込んだ。

「少し、待たせてしまったかな」
「いや、ちっとも」

 シートベルトを締めながら僚は首を振るが、遠くからでもわかる程彼を見分ける目が身についた神取は、澄ました顔の彼にふと微笑した。笑ったのは、自分だけが今日に浮かれているのではないとわかりほっとしたからだ。
 信号を確認し、発進する。
 彼の特殊能力、より甘い果物を見分ける目が、今日はどんな極上を見つけるのだろうと期待から、目が覚めると同時に気持ちが膨れ上がった。彼と過ごす時間は、まったく楽しい。待ち遠しさにそわそわと落ち着かず、角を曲がってまっすぐに彼を見つけた時、全身が熱くなった。
 そんな風にして、彼も同じように待ち遠しさをくすぶらせていたとわかり、笑みが浮かんだ。
 隣で、わずかな動きながら頭を動かし車内をくまなく見回していた僚は、ふと男の微笑に気付き、物珍しそうに見ているのを笑われたと思い、シートに座り直した。

「やっと、君を招待出来て、嬉しいよ」

 言われた直後は意味を飲み込めず、僚は二度三度目を瞬いた。すぐに、自分が今座っている助手席の事だとわかり、ますます夢見心地になる。薄れていた頬のほてりが舞い戻ってきたようで、隠し場所のない車内で一人慌てふためく。
 間もなく高速道路に進入する。
 ラジオから流れる渋滞情報によると、目立った渋滞はなくスムーズであるようだった。計画通りに現地に到着出来そうだと告げると、僚は何か云いたげに唇を動かした。
 僚は小さく息を飲み、口を噤んだ。どう言って感謝すれば一番上手く伝わるだろうかと、思ったように言葉が出てこない事に焦れる。
 表情と、もごもご動く口の動きからそれらを読み取った神取は、わかっていると微笑で受け取った。

「では行こうか」

 そう言ってギアに手をかける。
 出発はとっくにしているし、これから高速に乗る訳でもないのに何の合図だろうかとの疑問から、僚は隣の男を見やった。直後、飛び出すように強烈な加速を感じ、思わずうわ、と声を上げる。咄嗟に口を押さえる。そして足も。ふわっと浮くような感触に腹の底がざわめき、慌てて足を踏ん張る。

「……すごい」

 覆った手の下で、口が笑いの形になる。笑ってしまうほど、気持ちの良いスピードだった。もう一度すごいと口に出し、男を見やる。

「なんかこう……声が出る」

 恥ずかしいが、言いたくてたまらなかった。素直に口から飛び出させたくなるほど快感だと告げてくる僚に、自分もそうだと神取は笑顔で返した。隣で素直にはしゃぐ恋人を見て、気持ちが舞い上がる。そういう時こそ気を引き締めねばと目を瞬く。あまり浮かれていては、この密室、すぐに伝わってしまう。
 調子づく自分を隣に据えて、神取は制限速度ぎりぎりまでスピードを上げた。
 途中で一度小休憩を挟み、ついに果樹園に到着する。
 時間制限の食べ放題があり、また、別料金で収穫したサクランボを持ち帰る事も出来るそうだ。
 入口で受付を済ませ、持ち帰り用のパックを受け取った僚は、日頃ご馳走になっている礼だと大張り切りで農園に踏み入った。神取は任せると、後に続いた。
 青々と茂る葉に、宝石のように真っ赤な実がたわわに生っている様は、中々に素晴らしい、見ごたえのある光景だった。
 どれも真っ赤でぴかぴかで、充分に熟れているように見えたが、僚はささっと見渡しただけで構わず奥へと進んでいった。目的がはっきりしていて、そちらに向かっている足取りだった。
 歩きながら振り返り、僚は言った。

「多分、みんな入口すぐのところで、収穫するんだろうな」

 言葉に神取は肩越しに見やった。もしも、入ってすぐの木が取り尽された後なら、彼らも奥へと足を運ぶだろうが、入り口付近でも十分に収穫が楽しめるほどたわわに実っていた。入ってすぐの驚き冷めやらぬ内に、早く味わいたいとサクランボ狩りを始めるのが当然だ。

「もうちょっと待って。いいのが向こうに見えるから」
「ああ、あと少しだけなら」

 済まなそうな顔で言ってくる僚に、神取はわざと口をすぼめた顔で笑った。
 おどける男に肩を震わせ、僚は近くの木の上方を指差した。

「その辺り、よく日が当たるんだろうな。どれも甘いよ」
「この枝かい」
「そう」

 ぱっと広げた指で枝を示し、男にすすめる。
 神取は手近なサクランボの軸をそうっともぎ取ると、見守る僚に一度掲げ、口に放り込んだ。笑顔にならずにいられない、嬉しい甘酸っぱさが口一杯に広がる。去年の秋、初めて彼とフルーツ狩りを楽しんだ時から知っていたが、相変わらず驚かせてくれる能力だ。
 言葉も出ない。口もきけない代わりに、目配せで満足を伝える。たちまち彼は顔一杯に喜びを浮かべ、なんとも愛くるしい笑顔になった。極上のフルーツを味わいながら、極上の笑顔を受け止める。これ以上の贅沢はないと、神取はしみじみと噛みしめた。
 ぜひ一緒に食べたくなり、神取はあと一歩届かない枝をそっとしならせ、美味を共有した。
 僚は、彼だけが見える不思議な光を見分けて、次々サクランボをもいでいった。
 持ち帰りの容器は、宝石のように艶やかな赤い粒であっという間に一杯になった。
 少し位置を変え、今度は違う品種を味わう。園内には数種類の品種が植えられ、それぞれ美味をもたらした。
 真っ赤なもの、黄色いもの、少し深みのある赤。どれもそれぞれ味わいがあり、顔は笑いっぱなしだった。
 二人は時間一杯まで色鮮やかな宝石を口に運び、美味しいと言い合い、笑い合った。

 

 

 

 大満足で園を後にし、帰路につく。いくらか進んだところで、僚は後部座席を振り返った。
 そこには、男があらかじめ用意したクーラーボックスが積まれており、中には先程収穫したサクランボが収められていた。
 しばし眺めた後、僚は前に向き直った。
 今にも鼻歌が聞こえてきそうなほどご機嫌な横顔をちらと見やり、神取は微笑んだ。本当に良い顔だと幸せを飲み込む。
 僚は質問した。

「何か、食べたいリクエストとかあるか?」
「そうだな……君の得意なものはなんだろう」
「タルト、ゼリー、チーズケーキとか…今なら何でも作れそうだ」

 零れんばかりの笑みで僚は言った。

「作るのが嬉しくて」美味いって食べてくれる誰かさんがいるからさ「これ、ほんと気持ちいい。こんなに嬉しいものなんだな。気合を入れて作るよ、最高に美味いの」

 ありがたいと、神取は頷いた。

「やっぱり一番はジャムだな、なんといっても日持ちする。長く美味い物が食べられる」

 言いながら僚は、カラになったジャムの瓶をいつまでもかちゃかちゃと未練たっぷりにすくっていた男の姿を、脳裏に過ぎらせた。可愛くて、少し切なくて、あんな姿を見たら毎日でも作りたくなる。

「ではこちらも、気合を入れて頂こう。それとね」
「うん」
「君の作るものは、いつも本当に美味いよ」
「……うん」

 むず痒そうに笑い、僚は窓の外へ目をさまよわせた。ちょっと泣きそうであった。
 目尻に滲んだ熱いものをごまかす為に、急いで瞬きを繰り返す。
 落ち着きのない様が男の目の端に映る。神取はさりげなく様子をうかがい、見えない、気付かない振りをする。
 やがて涙は通り過ぎたのか、僚は口を開いた。

「なんか…二度目があるって思ってなかったんだ」
「というと」
「勝手にあれ一回きりって思い込んでたんだ」二度目が出来るなんて思ってもなかった「……ごめん、うまく説明できなくて」

 どうしてこんな風に考えてしまったのか、自分でもよくわからないのだと、僚は小刻みに首を振った。

「いや。今ようやく、実感しているのかな」

 神取は小さく首を振り、彼の、あやふやながら心に広がる不安に思いを巡らす。

「そう……だね。今頃なんだって思うだろうけど、なんかようやく、色んな感覚が自分に追い付いたって感じだ」

 僚は膝に置いた手を何度か軽く握った。
 今までだって、一つひとつ楽しいし嬉しいとその瞬間ちゃんと思っていたけど、どこかふわふわしてたんだろうな。今急に、どっと押し寄せるみたいにして実感した。
 きっと睨むようにして目線をぶつけ、僚は強い笑みを浮かべた。

「俺、鷹久と一緒にサクランボ食べたんだよな」
「ああ、食べたよ。君の選んでくれたものはどれも、本当に甘くて最高だった」

 神取は殊更ゆっくり頷いてみせた。よかった、と隣から声がする。

「僚、一度きりではないよ。二度で終わりでもない。これからも一緒に、美味い物を見つけて、食べて、楽しんでいくんだ」
「うん……だよね。そうだよな」

 ようやく実感を掴み取った声が、嬉しげに応える。
 そうだとも。神取は微笑んだ。

「次に食べごろのフルーツはなにかな」

 男からの質問に、僚は息をひとのみした。これから夏、夏は何と言ってもまずスイカ。桃、ぶどう、梨、栗。桃狩り、ぶどう狩り、梨もぎ、栗拾い。ぶどう一つとっても、品種によって少しずつ収穫期が異なり、言ってしまえば毎日が何かしらの旬だ。
 僚は真剣な顔で正面を睨み、あれもそうだ、これもそうだとぶつぶつと零した。
 隣から聞こえてくるフルーツへの溢れんばかりの愛に、神取は楽しげに肩を震わせた。彼が挙げる分だけ一緒に味わえるのだと思うと、楽しくて仕方なかった。

「次は、どの味覚狩りに出かけようか」
「うん……そうだな」

 そしてまた僚は真剣な顔で悩み出した。
 家に帰るまでに決着がつくだろうかと楽しく心配しながら、神取は車を走らせた。

 

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