チクロ
一緒に作ろう
「じゃあ読むよ」 桜井僚は紙片を目の高さに掲げ、今しがた書き付けた内容を上から順番に読み始めた。それは、これから男と一緒に買い物に行く際のメモで、今晩の豪華ディナーを作る材料だった。 メニューはレシピ本をめくり、二人で決めた。豪華ディナーにしようと思い立った時は、典型的なご馳走の数々を思い浮かべたが、自分達で作れる口に馴染んだものがいいとなり、選ぶ内に豪華とは言い難くなったが、充分満足いく内容に落ち着いた。 鶏肉、タマネギ、卵…一つずつ頷き、神取鷹久は目を上げた。僚も目を向け、これでよしと頷き合った。 出かける準備がてら、炊飯器をセットする。帰宅までに丁度よく炊き上がるはずだ。 リビングを出るところで、スーパーマーケットの他に一軒寄ってほしいところがあると僚は切り出した。どこそにある何という店だ、と伝える。まだ開店して一年足らずの新しいカフェだ。 「知ってる?」 質問に、神取はじっと僚の目を見つめ、先を越されたか、と呟いた。 言葉に僚は一瞬目を見開き、すぐに言葉を理解して、少しの驚きと喜びを発した。 「近い内に、君と行こうと思っていた」 美味しいオーストリア料理が頂ける店だから。君に縁のあるものだから。近々予約するつもりでいたと神取は続けた。だから、先を越された、という言葉になったのだ。 「同じ事考えてたか」 少しはしゃいだ声で僚は言った。 「そこ行きたいんだけど、いいか?」 「構わんよ。車ならほんの隣の距離だ」 「よかった。鷹久は、チョコレートケーキ、好き?」 「つまり、ザッハトルテか」 「そう。ただのチョコケーキじゃない」 僚は、力を込めて『Sachertorte』と発音した。かなりこだわりがあるようだ。独特の響きに神取は嬉しそうに目を瞬いた。 「それをご馳走してくれるのかい」 「うん、一緒に食べよう」 「最高の豪華ディナーだ」 神取は満面の笑みで応えた。 先にスーパーマーケットで買い物をし、帰りに寄ろうとルートが決まる。 車に乗り込み、地下駐車場を出ると、土砂降りの雨はいくらか弱まって、空は大分明るくなっていた。この分なら夜には上がるだろう。 神取はちらりと空を見上げ、車を発進させた。雨の音だけでは気が滅入るだろと、ラジオをつける。途端に賑やかな歌声が車内一杯に広がった。パワフルで伸びのある女性の声を聞くともなく聞きながら、一つ目の目的地へ向かう。 ワイパーの動きをぼんやりと眺めていた僚は、続いて流れてきた曲に心持ち目を見開いた。 数秒して、神取もまた目を瞬いた。隣から、遠慮がちな歌声が聞こえてきたのだ。微かに口端を緩める。 ラジオからは、一度聞いたら忘れないような、特徴的な男性の声が響いてくる。疾走感のあるメロディに乗せて、欲望むき出しの恋心を歌い綴っている。ギラギラとした、今にも飛び掛かってくるような歌詞だ。 それを彼の口が綴っているのは中々刺激的だった。本人は、歌声を聞かれて恥ずかしそうにしているのがまたたまらない。恥ずかしいが、歌いたい。狭間で悶えて歌う方を選び、遠慮がちながら喉を震わせている。実に可愛らしい。 しかし残念な事に、駐車場はもう目の前だった。 神取はマーケットの入り口に近い、高架下に広がる駐車場の一角に車を滑り込ませた。ちらりと僚をうかがうと、察して口を噤むのが見えた。にやりと笑いかけ、曲が終わるまでエンジンを切らずにいる。 僚は息をひと飲みすると、むず痒そうに笑い、再び歌い出した。 神取はしばし耳を傾けた。流れるように紡がれる歌声は霧雨のように身体に降り注ぎ、しっとり包み込んで、夢見心地にさせてくれた。 嗚呼なんて気持ちの良い時間。 解き放たれる恋心を歌いきり、僚ははにかみながらありがとうと言った。 どういたしましてと、神取はエンジンを切った。 「君の声、好きだな」 シートベルトを外しながら告げる。 「いいよそういうの」 心なしか頬を赤くして、僚は車を降りた。照れ隠しからか、僚の口はよく回った。感想も感情も一切遮断するかのように紡がれる言葉、今度の雨は、夏の夕立のように激しく、あっという間に溺れてしまいそうになる。 「ほら、買い物メモ出して。早く行こう」 早足でずんずん先に進む僚を、神取は笑いながら追いかけた。 |
見るからにうきうきといった様子で、僚はケーキの箱を大事そうに膝に乗せた。 「では、安全運転で帰ろう」 「うん、よろしく」 神取は静かに車を走らせた。後部座席には買い物袋、彼の膝にはデザートのケーキ。帰宅したら、豪華ディナーに取り掛かろう。 カッコよく食器を揃えて、グラスを並べて、乾杯して…語りながら僚は運転席の男に顔を向け、抑えきれないといった笑みを浮かべた。 神取は横目で確認し、食後には美味しいケーキをいただこうと続けた。 「豪華ディナー、な」 僚の弾む声が雨のように降り注ぐ。身体にしっとりまとわりついて、沁み込んで、力になるようだった。 「君が玉ねぎのみじん切りで苦労したら、私は励ますよ」 約束すると告げる男に、僚は渋い顔になって絶対だと念を押した。 「いつもあれには苦労させられるんだ」 喋り始めた僚の舌はなめらかに回り、どのように玉ねぎが目玉を攻撃してくるかを、事細かに身振り手振り交えて伝えてきた。 くるくる変わる表情、ひらひら動く手、するする流れ出る言葉の数々が、男をまな板の前に誘う。そして、玉ねぎの激しい攻撃にさらされ疲弊する僚の目玉となって、同じだけ苦しみを味わうのだ。 まったく、彼の語りはいつ聞いても耳に心地良い。今日は中々刺激がたっぷりだが。 「でも、鷹久が応援してくれるなら頑張るよ。お返しに俺は、鷹久が薄焼き卵で包むのを応援する」 「本当かい」 「うん、チキンライスでフライパン振る時も応援する」 「そりゃありがたい。うんと張り切るよ」 二人は互いに褒め合い励ます事を約束して、笑い合った。 やがて道の先に、マンションが見えてくる。段々と高まってゆく気分のまま、僚は大きく息を吸い込んだ。男と作り、一緒に頂く豪華ディナーに期待が膨らみ、胸が一杯になる。 膝に乗せたケーキの箱を見つめ、にんまり笑った。 |