チクロ
言えた義理じゃない
男は一瞬驚いた顔で目を見張り、すぐに身体を押しやってきた。 忌々しげに唇を歪める様を見てどっと後悔が押し寄せる。きつく眇められた男の目が、歪んだ唇が何を云っているか、言葉にしなくても分かる。 自分はなんて事をしたのだろう。なんでこんな事をしてしまったのだろう。たちまち全身から力が抜け、立っていられなくなった。膝から床に崩れる際、テーブルにあった紅茶のカップが倒れ中身が勢いよく流れ出した。 君と付き合うつもりはない。 頭上から冷たい声がぶつけられる。 テーブルから滴り落ち、ひたひたと床に落ちて跳ね返る紅茶の滴を顔に受けながら、すみませんと声を絞り出す。 嗚呼、このまま消えてしまいたい…心臓が握り潰される寸前、桜井僚ははたと目を開けた。 開いた目で現実を見た途端、あれは夢だったのだと心臓が落ち着く。 ……そうか。 毛布を鼻まで被り横向きの窮屈な姿勢でいたから、夢見が悪かったのだ。そんな事を思いながら仰向けに寝返りを打つ。 隣に男の姿はなかったが、毛布の下でシーツを探るとまだしっかりぬくもりは残っていた。この具合だと、ついさっきベッドを抜け出したばかりだ。耳を澄ますと、隣接する洗面所から水音が聞こえてくる。 僚は時計を探し、起きるのにちょうどいい時間だとあくびと共に大きく伸びをした。 その手で顔を覆い、深く息を吐き出す。 男に冷たく振り払われる夢は、彼と付き合う前に繰り返し何度も見た。男はいつも辛辣で、きっぱりとこちらを遮断してきた。汚い言葉を浴びせる事はないものの、眼差しにありありと浮かんでいた。つまりそれだけ、自分の中の不安は大きかった訳だ。好きでもないのに身体を傷付け、底辺の人間だと自ら押し込めて目が見えなくなっていたのだから当然だ。 どうせ受け入れてもらえないと思いながらも諦めきれず、ぶつかって、いつも粉々に砕け散っていた。 夢に出てくる男は本物じゃない、本物はあんなにひどい人間じゃない。自分の恐怖心がああいう形になっただけで、本当の彼とは大違いだ。 でも、そうだろうか。自分が現実だと思ってる方…毎週食事に誘い、楽しくお喋りをして、親身になってチェロを教えてくれる方が夢で、夢だと思っている辛辣な彼こそが現実なのではないか。 何度も打ち砕かれて、しまいにはそんな事まで考えるようになった。 それほど悩まされたが、受け入れられてからは見る事もなくなりすっかり忘れていたのに、今頃になってなんだというのだ。もう二度とあんな、好きでもない事はしない、男に恥じない生き方をすると決めた。男の為に、自分の為に、だというのに…忌々しいと、僚はベッドの中で舌打ちした。 勢いよく起き上がると同時に、男が戻ってきた。 僚は思い切り上体をねじって、おはようと声を上げた。どことなく身体が強張っていると感じたからだ。 「おはよう」 ベッドから見上げてくる僚に微笑み、神取鷹久は軽く肩を抱いた。 「どこかつらいみたいだね」 確かめる動きで肩を撫でる男に、僚はわざとおどけた顔をしてみせた。 「ああ、きっと昨日鷹久が無茶したせいだな。ほら、腕もここまでしか動かない」 と、手を組んで上に伸ばし、耳の後ろまで持っていく。つまり、いつもと変わりない。 神取は、得意げに笑う僚の顔を見つめ、ほっとしたように微笑んだ。 「それは大変だ。もしどこか痛むなら、遠慮せず言ってくれ」 「うん、ありがと。俺だってもう、痛いのはごめんだし」 鷹久のは別だけどと付け足し、にやっとして抱き付く。 「さあ、顔を洗っておいて」 「うん」 僚はすっかり目覚めた身体できびきびとベッドから降りた。朝食の準備に取り掛かる男の背中に、すぐに自分も行くと声をかける。 着替えて顔を洗う頃には、すっかり悪夢も薄れた。 早足でキッチンに向かい、男と肩を並べ昨夜の内に下ごしらえしておいた材料を調理する。 味噌汁と副菜を任されている。副菜は作り置きがあるので、後は味噌汁を作るだけだ。僚は慎重に火加減を見た。ここのコンロはアパートのキッチンより微妙に火力が強いようで、あちらの感覚でいると煮え過ぎてしまうのだ。 鍋の表面に目を凝らし、調整していると、隣から声がした。 「おっと」 見ると、フライパンに黄身が広がっていた。男が作っているのはとろりと半熟のベーコンエッグで、卵を割るのに失敗して片方潰れてしまったのだ。 「俺もたまにやるんだよな」 元気出せと、僚は笑って軽く肩を叩いた。 苦笑いを浮かべ、こちらは自分のにしようと神取は肩を竦めた。 「君は綺麗に出来た方を」 僚は笑顔のまま目を見開いた。腹に入ればどちらも同じなのに、綺麗に仕上がった方を食べてもらおうとささやかな心遣いがむず痒くて、しようもなく頬が緩んだ。さりげなく顔を戻してにんまりした時、猛烈に愛しさが込み上げてきた。泣きたくなるほどに。 「はい、味噌汁出来たよ」 「ありがとう、こちらも……出来上がりだ」 神取は用意された二人分の汁椀に礼を言い、ベーコンエッグをそれぞれの皿に盛った。続いてフライパンを洗おうとしたところで、背中から抱き付かれ、小さく目を見開く。 「どうした」 「え、ありがとうって」 「何がだい」 「ベーコンエッグだよ」 「どうした、僚」 「えー……秘密、って言っても鷹久目が良いからなあ」 知られたくないが、わかってほしいとも思う面倒な感情も、男はこうして易々と見抜いて受け止める。顔が歪むのは悔しいからか、それとも嬉しいからか。僚は見えないのを良い事に思い切り唇をひん曲げた。 神取は胴にがっちり回された少年の腕を軽く叩いた。肩に引っ掛けるようにして乗せられた顎が、笑うように揺れる。 「僚、私も抱きしめたいから、一旦緩めてくれないか」 「えー、鷹久甘ったれだなあ」 こんな自分が言えた義理ではない。 「そうなんだ、君に甘えたくてしょうがない。頼むよ」 でも男は、ちゃんと聞き分けて寄り添ってくれる。 「しょうがないなあ」 出来るだけ何ともない風な声を出して笑う。きっともうお見通しだろうが。 「ありがとう」 神取は向きを変え、頬をくっつけるようにして抱きしめた。しばらくして、小さなため息が僚の口から零れた。その、ほっとしたと力の抜ける様に無性に嬉しくなる。何が彼を脅かしたのかはわからないが、自分のすべき事はこれで合っていたようだ。 じわりじわりと肌に沁み込んでくる彼の体温が愛しい。愛しくてたまらない。 昨日のチェロ、とてもよかった。これからも楽しんでいってほしい。 鷹久のお陰、これからもよろしく。嫉妬するほど頑張る。 「さあ、食事にしよう」 「うん。……もうちょっと」 「ああ、もうちょっとだけ」 お互い、好きだという気持ちを腕に込めて相手を抱きしめる。 |