チクロ
揺れる香り
どうぞ、と差し出された白いカップから、ふくよかなコーヒーの香りが立ち上る。ゆれる白い湯気を鼻先まで近付け、桜井僚はまた深呼吸をした。 男が用意し始めた時から、部屋はコーヒーの香りで一杯になっていた。一度目に深呼吸した時、匂いに引き寄せられるようにしてある記憶が僚の中で一斉に花開いた。順序もばらばらに我先にと蘇ってくる記憶の断片を整理しながら、僚はコーヒーの到着を待った。 ほどなく目の前に一杯のコーヒーが運ばれる。 「ありがとう」 「どういたしまして」 笑顔で見上げてくる僚に微笑み返し、神取鷹久は向かいの席に座った。お互いの前にカップ、お互いの間に菓子皿。反省会の始まりである。僚は開いた楽譜を睨み付け、この箇所、この箇所とまだ至らない部分を目で追っていた。 神取は邪魔をしないようタイミングを待って、休みの間に、またビデオに録ろうかと提案した。一瞬怖気付いた僚だが、すぐに切り替え、よし頑張ると力強く頷いた。 「では来週用意しよう」 「え……来週」 そうだと、神取は壁のカレンダーを指差した。三月最後の金曜日に、練習の成果をビデオに収めようと話を進める。 「……わかった」 いつもながらの強引な進め方は男ならではで、一瞬面食らうもののすぐにやってやろうと負けん気が湧いた。上手く見抜かれているなと、僚は少しおかしくなった。男の歩き方にすっかり慣れた自分が嬉しくなった。 コーヒーカップを口に運ぶ。男の真似をしての事だ。男は次いで菓子皿に手を伸ばした。僚はそれより早く一つ摘まむと、男に差し出した。 「おや、ありがとう」 「鷹久が美味そうに食べてるとこ見るの、好き」 一口ずつゆっくり噛みしめていた神取は、僚の言葉にふと頬を緩めて見やった。 「私の事は」 「特に」 「ふうん」 素っ気ない態度も気にせず、神取は微笑のままカップを傾けた。 その、わかっているという余裕が非常に面白くなかったが、言わずに終わるのも収まりが悪く感じられ、僚は口の中でもごもごと呟いた。 「もう一度頼む」 「地獄耳だな」 「君の音は全部逃したくないからね」 「じゃあ一回でいいじゃん」 「まあそう言わず、贅沢したいんだ」 僚はおどけた顔で唇を尖らせ、口先だけの『好き』を三回ほど繰り返した。 「ありがとう」 それでも男の笑顔はちっとも崩れなかった。楽しそうに、嬉しそうににこにこと見つめてくる眼差しに、僚はおどけるのをやめた。不真面目な態度ではあったが、見つめ返す視線できっと読み取っている事だろう。本当に好きだという気持ちは、しっかり伝わっているだろう。 男がしみじみと噛みしめているのが、何よりの証拠だ。菓子を一つ口に運び、コーヒーを啜る。腹の中がじわっと温まる感触に、小さくため息をつく。 「いい香り……ここで飲むコーヒー、好きだな」 砂糖とミルクのたっぷり入ったコーヒーを見つめ、僚は独り言のように呟いた。 「私は、君がそうしてコーヒーを飲んでいる姿を見るのが、好きだよ」 白い湯気をふうふうと散らして、ちょっとずつ啜ってはため息をつく。とても可愛くて、抱きしめたくなる。 男の言葉に、じゃあ今すぐどうぞと僚は笑いながらテーブルに身を乗り出した。 神取は抱きしめる代わりにカップを掲げ、自分好みのコーヒーを啜った。 そして笑い合う。 僚はまたひと口啜った。 「ほんと美味しい」 「そう、これ美味しいです、って言ってくれたね。覚えているかい」 「忘れないよ。俺の好みの飲み方に合う銘柄、わざわざ探してくれたんだよな」 金曜日の食事会で、自分がどのようにコーヒーを飲むのが好きか観察し、わざわざ揃えてくれたのだ。 「君に少しでも喜んでもらいたかったからね」 憎いやつだと、僚はわざと鼻の頭にしわを寄せた。 「覚えてるよ。他にも色々。さっき、鷹久がキッチンでコーヒー用意して、いい香りがこっちまで漂ってきた時、急に色んな事が頭の中に蘇ってきたんだ。目の前に迫ってくるみたいに、色んなものが」 男が、君が来ないとおやつ食べられないって嬉しそうに食べてたのとか、このコーヒー美味しいって言ったらすっごく嬉しそうな顔になったのとか。 僚は頭に過ぎった思い出を一つひとつ口にした。 コーヒーが美味しいという感想だけではなく、その前後のチェロの練習中の事や、その時の気持ち、終わった後の美味しいお菓子を男がどんな顔で食べたか…匂いに引き寄せられた記憶を、男の前に一つひとつ並べる。 「初めてこのコーヒー出してもらった時って、まだこうなるってわかってなかった」 こうして近付けるとは思ってもいなかった。 単なるチェロの先生と生徒で、お互い硬い、ぎこちない空気の中相手の出方を窺っていた。 何度目かの反省会で、話の一つとしてコーヒーに触れた。本当はもっと前、初めて振る舞われた時から言いたかったが、距離感が上手く掴めず、今日こそ言おうと喉元まで引き寄せて、結局言えずじまいだった。 やっと美味しいと云えた時、男はそれはそれは嬉しそうに顔を輝かせた。 『ミルクと砂糖をたっぷり入れる方だから、この銘柄にしたんだ。喜んでもらえて良かった』 ほっとしたと力の抜けた笑顔は、それまでの印象をがらりと塗り替えた。 練習中は真剣なあまり顔が引き締まって取っつき難く、何より第一印象が悪かったのもあって、無邪気な笑顔に一瞬呆気に取られた。実際は表情豊かで優しく笑う事が出来る人だと、見直した瞬間だ。 「でさ、翌日の昼頃、何かの拍子にそれ思い出して、アパートですごく嬉しくなった事とかも、覚えてる」 「そうか」 「うん、その時も、コーヒーの香りがした気がして、それで思い出したんだよ。あ……」 記憶をたどり優しく微笑んでいた僚の顔が、突如ぎくりと強張った。神取はしばし見守り、どうしたと声をかけた。 「いや、さ……」 僚は言いにくそうにもごもごと口を動かした。おそらく、思い出した記憶の一つが少々口に出しにくいものなのだろう、神取はそう推測した。こちらへの不満、恥ずかしい記憶。さてなんだろうか。 僚の手が、菓子皿から一つ摘み上げる。サクサクとした歯ごたえのビスケットの半面に、ほろ苦いチョコレートがくっついている。噛みしめながらコーヒーを飲むと丁度良い味わいになり、舌の上で優しくほどける。男が所望した、チェロの授業料代わりのひと口菓子だ。 透明なフィルムに包まれたそれをまじまじと見つめる様子で察した神取は、ああ、と小さく頷いた。 予測は果たして当たりで、僚はあの時の落下するような感覚を思い出していたのだ。チェロに触れる事に能天気に浮かれ、男の好意にべったり甘えていた。恥ずかしさに身が捩れた。 今、あの瞬間を思い出し、当時のように背中をひやりと凍らせたのだ。 「あれは本当に血の気が引いた、倒れるかと思ったくらい。そっちから見ても、すごい顔してたろ」 「そうだね、どんより、という言葉が似合うほどだった。心ここにあらずといった様子で、それほどショックだったのだね」 「……うん」 「身体で払うなんて言うくらいだ、どれほど思いつめたか、よくわかるよ」 茶化す口調の男に思い切り渋い顔をして、僚は片手を振った。勘弁してくれと追い払う。そこに触れられるのは本当に恥ずかしかったが、下手に避けられるよりよっぽどよかった。いかに思い上がっていたかを改めて見せられると、嫌な汗が噴き出してくる。でも、男は許してくれた。受け入れてくれた。だから今、笑い話として口に上らせる事が出来る。 僚はカップを口に運んだ。少しぬるくなったが、やっぱり香り良く、胸に沁み込んでくる。 「……わかりゃいいんだよ」 もうなくなった湯気を散らすようにして呟く。 神取は口をへの字に曲げておどけ、その通りだと頷いた。 その顔がおかしくて、僚は慌てて顔を背けた。しかし我慢しきれず、とうとう声に出して笑った。 向かいで神取も、あわせて微笑んだ。ひとしきり笑い合って、口を開く。 「あの時」 「ん?」 「キスしてくれて、ありがとう」 男が言うあの時を思い出し、僚は曖昧に笑みを崩した。破れかぶれの衝動が、自分たちをここに連れてきてくれたのだ。美味いコーヒーの湯気と、楽しい空気。 どういたしまして。 そっと呟き、僚は残ったコーヒーを一気に飲み干した。 |