チクロ

ホットミルク

 

 

 

 

 

 昼間は日差しも暖かく過ごしやすかったが、日没後は冷たい空気がより身に沁みた。
 今日は風がないだけ、まだましだ。
 いつものようにチェロの練習を終え、神取鷹久はすぐ隣に桜井僚を伴って最上階の部屋に戻った。チェロのケースを奥の部屋にしまい、リビングのソファーにくつろいでいる僚に質問する。
 珈琲、紅茶、ホットミルク。

「ホットミルクがいい」

 今日、寒かったからと続ける彼に同じ気分だと頷き、神取はキッチンへ向かう。そのままくつろいでいていいのに、僚もついてきた。嬉しくなる。
 牛乳を用意したところで、もう一つ質問する。
 砂糖、ハチミツ、なし。

「ハチミツのは、飲んだ事ない」

 僚は首を振った。いつもは砂糖をやや多めに入れているそうだ。

「じゃあたまには、試してみるかい」
「うん、美味しそう」

 鍋の牛乳をささやかな火にかけたところで、三つ目を聞く。
 甘いものとしょっぱいもの。チョコレート菓子とスナック菓子。どちらもそろそろなくなる頃。
 僚はうーむと唸った。

「両方一個ずつってのはどう?」
「ああ、そりゃお得だ。そうしよう」

 どちらも好物、神取は提案に大きく頷き、皿に乗せた。
 鍋の牛乳が、じわじわと温まってゆく。
 僚は男から受け取ったカップを傍に揃え、もう間もなくだと鍋を覗き込んだ。頃合いを見計らい、火を止める。
 直後僚は叫んだ。

「……いた!」
「どうした」

 突然の声に神取は見やった。特に動きはなかったと思うが、何か踏んでしまったか、それともぶつけたか。あるいは火傷か。大急ぎで全身確かめる。
 すると僚は、右の眉の辺りに手を上げ、しかめっ面で唸った。

「……ああ」

 顔を覗き込んで、ようやく声の理由がわかる。
 放課後、彼を車に迎え入れた時から気付いていたのだが、眉のやや上辺りに小さな吹き出物が出来ていた。彼はそれを、うっかり引っかいてしまったのだ。ぽっちりと赤く、球になって血が浮いている。

「やっぱりやってしまったね」
「忘れてた」

 失敗した、と僚は顔をしかめた。三日ほど前にぽつりと出来て、なるたけ触らないように過ごしてきたが、治りかけのせいか痒みが襲い、うっかりやってしまったのだ。
 傷を確かめる男に苦笑いを浮かべ、僚は自分でも見ようと上目遣いになった。

「触らないほうがいい。今、薬を持ってくるよ」
「サンキュ」

 背中にそう投げかけ、僚は出来上がったホットミルクを静かにカップに注いだ。
 すぐに男は薬を手に戻ってきた。
 薬が塗りやすいよう上を向く。薬を付けた綿棒でちょんちょんと突付かれ、むず痒さに思わず笑いそうになる。

「もういいよ。一晩も経てば良くなるだろう」

 笑いたいのをこらえている顔につられて、男も頬を緩めた。

「前髪が触れると良くないから、帰るまでの間、上げておこうか」
「え、あ……」

 問うより先に、男の手が前髪をかき上げる。
 ちらりと視界に入ったその手には、細い黒のゴム紐があった。
 まさかと思う間に、かき上げられた前髪は頭のてっぺんで結わえられ、僚は複雑な顔で目を上げた。
 自分が今どんな頭をしているのか想像すると、なんともいえぬ苦い気分になる。
 隣で男がにこにこしているのが、また癪に障った。

「中々似合うよ」

 いたずらそうに笑う顔が、なんとも憎たらしい。僚は険しい顔付きで応えた。

「こんなの、おかしいだろ」
「そんな事ないさ。心から似合うと思っているよ」

 じろりと横目で睨む僚に、男は大げさに首を振った。見るからに不機嫌な目も気にせず、二つのカップにそれぞれ蜂蜜を落とすと、さあ行こうかとリビングへと向かった。
 僚は一拍遅れて足を踏み出した。気になってちらちらと目を上げる。 
 前髪を上げるなんて滅多にないので、額の辺りがすうすうしてどうも落ち着かない。
 僚はそろそろと手を上げると、手探りで触ってみた。正直、自分が今どんな頭をしているのか想像もつかなかった。
 ただ、間抜けなことになっているだろう事は間違いない。そういえば、妹が時々こんな感じに前髪を上げていたか。肩を少し越した、長い黒髪、女子がやるならば何もおかしい事はなく、むしろ可愛いと思えるが、自分では…首を振る。気にするのはやめよう。忘れよう、忘れよう。
 先に腰かけた男の目が、僚の頭上をかすめた。
 忘れられる訳ないと小さく唸り、僚は男の前にあるカップを男からずっと遠い、テーブルの向こうぎりぎりまで遠ざけた。振り返り、驚いた顔で目を瞬かせる男ににやりと笑う。

「ホットミルク、いい匂いだね」
「……そうだね」

 伸び上がってカップを取る男の隣に、深々と身体を沈める。
 神取は気まずそうに目を泳がせた。

「いや、本当に……おかしくはないんだよ」

 しかし隣からは、うんともすんとも返事はない。
 相当機嫌を損ねてしまったようだ。
 困り果てていると、突然伸びた手に、顎をぐいと掴まれた。
 驚いて僚を見つめる。

「本当だな」

 少年に似つかわしくない頭につい笑ってしまいそうになるのを必死に堪え、神取は真面目な顔で頷いた。
 僚は顔付きを険しくした。

「目が笑ってる」
「笑ってない」

 嘘を暴こうとする僚にすぐさま返す。

「ホントだな」
「誓って」

 その答えに僚は手を離した。

「じゃあそういう事にしといてやる」

 ぷいとそっぽを向く。
 ああ悪い事をしたと男は悔い、横目にそっと僚の様子を伺った。その目が、どうしても彼の、てっぺんで結んだ可愛い頭に向かってしまう。
 それを僚が目撃する。

「やっぱり嘘じゃんか」

 僚はおっかない目でもう一度睨んで、笑ってから、ホットミルクに口をつけた。
 男はすぐさま自分のカップをテーブルに置き、向き直った。

「反省しているよ」
「口ではなんとでも言えるよな」

 真横の視線を無視して、僚は正面を向いたまま言い放った。
 と、男の手が伸びてカップを掴み取った。
 取られるまま渡し、僚は手をおろした。

「本当に、反省している」

 男の顔がゆっくり近付く。

「どうだか」

 憎まれ口を利くその口元には、淡い笑みが浮かんでいた。

「本当だよ」

 男は唇を寄せ囁いた

「じゃあ、そういう事にしといてやる」

 男の唇の上で囁き、僚は甘いホットミルクの匂いにそっと触れた。

 

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