チクロ
月夜に溺れる
灯りを消して五秒ほど後、桜井僚はおおと感嘆した。 少し離れた位置で僚と同じ方向を見上げていた神取鷹久も、心の中でため息を吐いた。 真っ暗な部屋の中、二人は夜空に煌々と輝く月に見入っていた。 始めに気が付いたのは僚であった。部屋からの灯りで庭の牡丹を見ようと、障子戸を開いた。外はもうすっかり夜のとばりが降りていたが、何とかうかがう事が出来た。もっと奥を見ようと少しずつ顔を上げていって、見つけた。 高い位置で冴え冴えと青白い光を放っている月に、そこで気付いた。ビックリするほど綺麗な満月が、空にぽっかりと浮いていた。 月だ、凄いの、という声を受け、神取はもっと楽しもうと一旦テレビを消し、部屋の灯りを落とした。直後は真っ暗に思えたが、徐々に月光が目に沁み込んで馴染んできた。 真っ暗なんてとんでもないと僚は目を見開いた。雪に反射しているのもあるだろうが、月光は思ったよりも明るいものだった。よく目を凝らせば近くにある男の顔がはっきり見え、部屋の中も、ぼんやりとだが物の位置をそれぞれ捉える事が出来た。本を読む事だって出来そうな明るさだ。 「すげえ……!」 思わず、といった声が僚の口からもれる。 町にいては他の灯りがきつく、月のほのかな光はかき消されてしまってばかりで、中々感じ取る事が出来ない。今日初めて、月は本当はこんなに明るいものなのだと知った。 窓から見える雪景色、寒牡丹、石畳…それらが月明かりにぼんやりと浮かび上がり、夢うつつの中にいるように感じられた。 何とも不思議な瞬間である。顔が自然とにやけて、震えがくる。来てよかったと激しく心が揺さぶられた。 僚の感動を邪魔しないよう声音に気を付けて神取は口を開いた。 「つけようか」 「まだ、もう少しこうしてていい?」 「もちろん。寒くはないかい」 「寒い」 だからもっと近くにくっつけと、僚は浴衣の袖を引っ張った。 神取はふと笑い、肩を寄せ合った。うむ、よし…そんな呟きが隣から聞こえ、笑いを堪えるのに苦労する。 見ても見ても飽きないようで、庭木に積もった雪が月光で淡く浮かび上がる様を、僚はしみじみと眺めていた。 時々、もっと奥側を見ようと身を乗り出したり、伸び上がったりする彼に寄り添い、神取もまた月光降り注ぐ雪の庭を楽しんでいた。 「連れてきてくれて、ほんとありがと」 「こちらこそ、君の手伝いが出来て嬉しく思ってるよ」 照れ隠しだろうか、僚は寄り添った肩で軽く押してきた。彼のする仕草は、どんなものでも可愛くて仕方なかった。 唐突に寝転がり、夜空全体を見ようとするのでさえも。 「顔に、跡がつくよ」 笑いかける。急に畳に寝転がって、何を始めるのかと理解が追い付かなかった。わかった今は、真剣な眼差しに圧倒される。 「この角度が、一番沢山星が見えるから」 遠くに目を凝らす僚の瞳を見やった時、一瞬、違う色が閃いたように思えた。 「鷹久もやってみなよ」 瞬きの後にはもう、いつもの褐色が輝いていた。時々彼に見えるものだった。彼の瞳は、光の当たり具合で違う色を見せる事が偶にあった。今回見えたのは、鮮烈な黄金色だった。まるでそこに月光があるようであった。 僚に浴衣の袖を引かれる。 「溺れそうだよ、あんまり星が見えすぎて」 神取は微笑み、彼に倣って横に寝転がった。どこからかひんやりとした冷気が漂ってくるが、空の瞬きを見るには丁度良い心地だった。 淡い光を探して目を凝らす。 街中ではちょっと見られない贅沢な眺めが、天上に広がっていた。溺れそうと表現したくなるのもよく分かる光景に、しばし心奪われる。 黙って眺めを満喫していると、僚が口を開いた。 「月曜日さ、マラソン大会なんだ」 「ああ、そんな時期か。前回はどうだった」 「……聞くなよわかるだろ。ぼろぼろだよ」 低いが、それほど悲嘆している声ではなかった。神取は小声でそうかと応え、抱き寄せて頭を撫でた。 「今回は自信があるのでは」 「ないけど」 「そうかい、少し前から思ってたが、君の身体、随分肉付きが良くなっているよ。始めて見た時に比べて、すっかり見違えた。少しは意識して鍛えているのだろう」 「……うん、うん」 色々言い返す言葉が浮かんだが、出てきたのはそれだけだった。 相変わらず男の目は色々なものをよく見ていると、僚は大きく息を吐き出した。見抜かれている事に対して、いくらかの悔しさとそれから奇妙な嬉しさが浮かんできた。どこもかしこも抜かりなく見ている目が憎たらしくて、見守ってくれている目が、嬉しかった。 男の言う通り、これまでは惰性だった色々な事に、きちんと向き合って取り組みたいと思ったのだ。 「まあでも、付け焼刃だから大した事ないと思うけど、せめて少しくらいはさ」 「応援しているよ」 「でも今日、鷹久に一杯いじめられたからダメだな」一杯のところを殊更強調して、僚は顔を向けた。 「おっと」おどけた声と共に神取はそっぽを向いた。 「どこ見てんだよ、こら」 「いやあ、星が綺麗だね」 「そっちは天井だよ」 「心の目で見ているんだよ」 「ごまかすの上手いな」 肘で小突かれ、観念して神取は笑った。 僚も笑い、起き上がった。 「ありがとう」 もう電気つけるね。向き合い、にこりと笑って立ち上がる。 淡い月光を雪が反射し、さらに弱い光が、僚の瞳をまたしても不思議な色に浮き上がらせた。 今さっきも、これまでも、何度か閃きを目にしてきたが、いつも瞬間は心奪われる。緑、黄金、白銀、その時々で色は違って、瞬きの間に見える煌きは希少な宝石のようであった。 直後、部屋全体がくっきりとした白い光に満たされる。落差に慣れるまで、神取はしばし目を伏せていた。馴染んだ頃に顔を上げ、僚をしっかりと見据える。 僚は灯りをつけて座椅子に戻ると、いいもの見た、ずっと忘れないでいようとにこにこと嬉しそうな顔で言った。 神取は障子を閉めて向かいの座椅子に座り、つけたテレビに目を向ける僚の横顔を見やった。 君の目…気付いた時には唇から音が零れ出ていた。 「……え?」 僚は画面から男の顔へと目を移した。 神取は組んだ手を膝に乗せ、座椅子にもたれた。 「いや、君の目がね、いいなと思ったんだ。くっきりと強くて、色も綺麗だ。時々不思議な色に光って、いつも見惚れてしまう」 「ああ、色……たまに言われる」 僚は一瞬ちらりと他所へ目を向け、曖昧に頷いた。光の当たり具合で違う色に見える事があると、何回かクラスメイトに言われた事がある。 「父親が、半分、オーストリア人だから」 「そうか、なるほど君のその独特の美しさは、あちらの血か」 余り驚かず、神取は称賛の言葉を口にした。軽く身を乗り出す。 僚の方も、驚かない神取にそれほど驚きはなかった。それよりも男の過ぎた称賛がむず痒く、複雑な気持ちになる。 一拍置いて口を開く。 「ずっと前から?」 「何がだい」 「俺が純粋な日本人じゃないって思ったの、ずっと前から?」 「ああ……あの夜交差点で初めて見た時、どことなく違うなとは思った。ご両親ではないなというのはわかったんだがね。毎週食事をするようになった頃から、さてどこだろうかと考えるようになった。君の顔付き、特に目が感情豊かだから、黒髪と相まって地中海系の血筋かなとも思った」 「そうかね……」 自分ではよくわからないという声音で、僚は相槌を打った。 「アパートの本棚にある、何冊かのドイツ語の本も手掛かりにした」 本棚の一番下の段に数冊収められていた。触れてほしくないものなら、見えない位置にしまっておくはずだ。色の褪せた具合から結構年数が経っており、また随分くたびれているところから、頻繁に手に取っている様子もうかがえた。 「なるほど、オーストリア……熱心に勉強しているようだね」 「鷹久の観察眼、すごすぎ」 ちょっとおどける。浮かんだ笑みを曖昧に崩しながら僚は言った。 「父方の祖父が、オーストリア人」 「そうか」 「うん」 頷き、僚はそわそわと辺りを見回した。邪魔になったテレビを消し、手にしたリモコンを置いて小さく息を吐く。しばらくの間リモコンを凝視した後、男へと目を上げる。 「……ずっと黙っててごめん」 「やっと言えて、少しはすっきりしたかい」 「……うん」 「そりゃよかった」 不安に染まった眼差しで見やってくる僚に笑いかけ、神取は頷いた。出来るだけ圧迫しないよう気を付けて観察する。彼はまるで怒られている時の、悪さを白状する時の子供のように、顔を歪ませていた。 その顔を無理やり明るくして、僚は言った。 「両親が離婚したの、小学校前だったから、あんまりよく覚えてないんだよね。何があったとか、その辺さ」 「そうか」 「うん」 不自然な表情はすぐに消えた。暗く落ち込むのではなく、泣きそうでもなく、ごく普通の力の抜けた顔付きになって、僚はがりがりと乱暴に頭をかきながら、音を立てて息を吐き出した。自分が今口にしているものは、話したくない事の一つであった。長い事自分の心にしまい込んでいたので、人にどのように説明すればいいか、そもそも何から話せばいいか、いざ話すとなると言葉がうまく出てこないのだ。 「別に、絶対言いたくないって訳じゃないんだけどさ、何というか……つまんない話だし」 これを聞かせて人がどんな気分になるか。まず間違いなく嫌な気分になる。楽しい話では決してないし、面白みもない。聞いている間余計な気を使って、疲れて、それだけ。 間違っても、こんな良い夜に聞かせるべき話じゃない。 そう構える事はないと、神取は軽く息を吐き出した。 「話せるものだけでも、出してみては」 「うん……」 男の言葉に幾分心が軽くなり、僚も同じように小さくため息を吐く。 「親が離婚したのは、妹が生まれてすぐくらいだった。父は出ていって、しばらくは母の田舎で暮らす事になった。母一人だと、三人で生活するのは難しいから」 神取は出来るだけ息を密かに頷いて、じっと耳を傾けた。 「いつだっけ、前にも言ったけど、その時に俺は、父親に捨てられたんだって感じた。母にも。だって子供にはわからない。朝早く出てって、暗くなってからでないと帰ってこない理由なんて、子供の俺にはわからなかった」 ねえ、と同意を求めてくる僚の気弱な顔は、笑ってはいるが見るからに引き攣り、とても痛ましかった。幼い子供が、大人の事情を素直に聞き入れる義理も何もなくて当然だ、自分本位に我儘を言ってしまうのも無理はないだろう、その同意を求めているのがありありとうかがえた。僚の気持ちは当然で、責められるはずもないと神取は充分理解出来たので、いくらか意識して強く頷いた。 僚自身も、今はきちんと理解している。受け止めている。どうにもしようがなかった事に対してわかる部分わからない部分両方とも、今はしっかり承知している。 納得はまた別ではあるが。 「今の父とはそこで知り合った」 そしてほどなく再婚した。 やってきたそいつを、自分は邪魔なよそ者、異物、そういう目で見ていた。今は自分が邪魔者で、だから家を出た。妹は赤ん坊だったから本当の父親の顔覚えてなくて、すんなり馴染んだ。自分だけがいつまでも納得出来なくて、そうこうする内に一人あぶれた状態になっちゃった。 僚は少しせっかちに舌で唇を湿した。誰にも話さず、触れる事もろくにしないでしまい込んできたせいか、上手く話せている自信がないからだ。 「大丈夫かい」 「うん、平気。ありがと。こっちこそ、変な話ごめん」 「いいから」 優しい響きに救われる。僚はほっとしたように笑った。そんなに心配そうな顔する必要なんかない。話してみて思ったが、あらためて自分はかなり恥ずかしい人間だとわかり、ちょっといやかなり痛手を受けている。別の意味で、話さなければよかったと後悔している。 その一方で、嫌な顔一つせず真剣に耳を傾け受け入れてくれる男の存在に救われる。 「やっぱり……」 「どうした」 「やっぱり大丈夫じゃない」 言いながら僚は立ち上がり、座布団を掴んで男の隣に移動した。 ぴったり横にやってきた僚に微笑みかけ、神取はそれで大丈夫かと尋ねた。僚はもちろんだと答え、小さく咳き込んだ。 「向こうには向こうの事情があるよなって、最近やっと思えるようになってきた。今の父は良い人だよ。喋り方とか表情とかで感じるものだから曖昧だけど、そういうのってでも重要だろ」 「そう。どんなに巧みに装っても、声や顔付きに出てしまうものだ。そこから感じ取るものは大概当たり、人間の勘は侮りがたい」 「だよね、よかった。その辺嫌な感じしないから、もうそれほど苛々したものは浮かんでこないけど、でも」 やはり一緒に暮らすのは無理だから、皆嫌い。本当の父も、今も…母も妹も。本当には嫌いにはなれないけど。僚は歪めた唇の端で笑った。 「だからあの本は、何ていうか、繋がりを持っていたいから置いてるんだ」 「というと?」 僚はしばし考え込んだ。 自分に流れるオーストリア人の血を無視したくない。離婚した両親を憎んで、嫌っても、完全には嫌いになれないし繋がりが無かった事になるわけでもない。イヤだ、キライだとうず高く積もったものを取り払ってみた自分は、オーストリア人の祖父を持つ人間。これは変えようがない。 どんなに抵抗したって自分はそうなのだ。ならばあるがまま受け入れる道を模索するしかない。それが、アパートの本棚に並ぶ数冊のくたびれた本。 「ああ駄目だ、ごめん、こういう話ほんと苦手」したくない訳じゃないけど、説明が下手くそで嫌になる「だから、鷹久が聞きたい事言うよ。なんか質問ある? なんでもいいよ」 甘えるような指先で膝をつつかれ、神取は微笑した。そうだな、としばし考え、口を開く。 「君は、月に一度は帰っていると言っていたね」 「うん」 「そうやって彼らと過ごす事、君はどう思ってる?」 言葉を探して小さく唸る僚の顔付きを、神取はそっと観察した。 「ど、う……雨の日だと行き帰り面倒だなって思うけど、それ以外は特に」 「そうか、ありがとう」 返事に僚は頷き、次の言葉を待った。しかし男はこれで終わりと言うように軽く頷いた。 「え、も……それだけ?」 僚は目を白黒させた。もっと沢山の質問が来ると予想していただけに拍子抜けする。 神取は笑いかけた。 「そう、これだけ。君も、それ以外は特にないのだろう?」 「……うん、ないけど」 「雨の日の移動は、本当に憂鬱だね」 「うん……うん」 共感してもらえるのは嬉しいが、と複雑な面持ちで僚は小刻みに頷いた。右へ左へ目をやり、自身を納得させるようにもう一度頷く。 部屋の中はとても静かだった。外からは何の音も聞こえてこない。まるで、雪が余計な音を全て吸い取ってしまったようだった。 僚は何か云うように口を開け、それから男を見やった。 「もうちょっと…話してもいい?」 「もちろん」 「あんまり……また、やなことなんだけど」 男についての嫌な事ではなく、聞かせるにはあまり好ましくない自分に関する嫌な事。 神取は歓迎した。 「構わんさ。中で欝々と腐らせるより、言葉に出した方がいい」 しっかり手に取って眺めて、どんな形をしているのか、どれほど大きく、重たいものか、よく見極めるといい。 「そうやって実際見てみると、案外大したものじゃないと、気付く事がある」 「……ありがと」 淡い月明かりほどの囁きが空気を揺らす。神取は笑いかけた。 僚はひと息吸い込んでから話し始めた。 「さっき、鷹久が言った事」 どの『さっき』なのかを問う眼差しで見やり、神取は先を促した。 またひと息飲み込み、僚は続けた。 「過去を許すっていう…自分のした事許してやれっていう、こと」 話したがる予感があったので、神取は黙って頷いた。 「俺に出来るかな」 ひっそりと静かな呟きは、誰かに訊くと同時に自分に問いかけるようでもあった。目線は黒いテーブルの上に向けられている。顔が映り込むほどよく磨かれた表面を神取も同じように見つめ、同じように、ひっそりと声を出した。 「君はそうしたい?」 誤った執念を無理やり燃やし、怒りを呼び起こして憎み、疲れるほど憎んできた自分を、許したいかどうか。 僚は黙って瞬きを繰り返した。その顔を注意深く見守る。いくらか険しいが、怒りのそれとは違い適度に力は抜けていた。彼にとってとても難しい決断だが、男が心配するほどは深刻でないようだ。 「お父上の事、ご両親の事、君は許してもいいと思うようになった。もう、とらわれているのはよそうと、踏みとどまっているのはやめようと思うようになった」 僚は黙って頷いた。気付けば表情はいくらか和らいでいた。 「今すぐ決めねばならない問題ではないよ、僚。だから、君はこう誓うといい」 ずっとテーブルに落ち込んでいた眼差しが、ようやく男に向く。 神取はふと笑いかけた。 「いつかきっと許す、とね」 「……いつか」 僚の唇が同じ言葉を綴る。 「そう。丁度いいから、今夜の月に誓ってみてはどうだろう」 「……は?」 僚はぱちぱちと目を瞬かせた。いきなり飛び出したメルヘンチックな言葉と男の落差に、軽く眩暈がした。聞き間違いかと男の顔をまじまじと凝視する。 当の男は、それほど意外な言葉を口にしただろうかと、至極真面目に、いぶかる顔をしていた。 僚は慌てて、だらしなく開いた口を噤んだ。 そのタイミングで、神取はおどけた笑い顔になった。乗せられた事に気付いて僚は一瞬むくれた後、つられて笑い出した。 「月って、あの月だよな」 「ああ、そう」 当然だと、大威張りで座椅子にもたれる男にますますおかしさが込み上げ、僚は肩を揺すった。短い応答なのに、とにかく言い方が笑えて仕方なかった。笑うとは心外なと不機嫌になる男のその顔もおかしかった。一見真面目ぶっているが、目や口元に笑いたいのを我慢している引き攣りがはっきりと表れていて、笑えて仕方なかった。これで笑うなという方が無理がある。とうとう男も我慢出来なくなって、息を吐き出した。 二人は腹を抱え笑い転げた。その合間に、ひいひい言いながら誓う。 わかった、月に誓う。 よろしい、聞き届けた。 目に涙が滲むほど笑って笑って、息が止まりそうだった。まるで溺れた時のように喘いで、二人は何度も頷き合った。 ようやく収まった時には二人ともすっかり疲れ切って、布団に入るのもひと苦労だった。 並んで天井を見上げ、お休みと言い交わす。 五分もせずに眠ってしまいそうだと、神取が目を閉じた時、僚の声が聞こえてきた。 「さっき、目を褒めてくれた……」 暗闇に響く彼の声は半分眠っているようにふわふわとおぼつかなくて、またどこか慌ててもいた。寝る前にこれだけは言っておかなくては、と思い出したのだろうと神取は推測した。 「嬉しかった……みんなに言われるより、ずっと」 とろけるように甘い声が、嬉しさを伝えてきた。 鼓膜を震わすしっとりとした響きに、神取は大きく目を見開いた。まだ言葉は続くかと隣に耳を澄ますと、心地良い寝息が聞こえてきた。気分がどこまでも高揚し、叫びたい衝動に見舞われた。両手で顔を覆い何とか堪える。 こんな気持ちにさせておいて、一人楽しく夢の世界に遊びに行ってしまった恋人を恨めしく思いながら、神取は天井越しに見えない月を睨み付けた。 その顔はだらしなく緩み切っていた。 |