チクロ

夏をなぞる

 

 

 

 

 

 そのメールが届いたのは、木曜日の夜だった。
 土曜日、一日貸し切り出来るかと問う内容のもので、束の間揺れ惑い、桜井僚は大丈夫と返信した。
 翌金曜日、いつものように迎えに来た男の車の中で、詳しい計画を聞かされた。
 日帰りでドライブはいかが。
 つい数日前、柄にもなくしょぼくれ落ち沈んでしまった自分を励ます為の計画だと、僚はすぐに察した。

――君とでないと、車を走らせてもどうも味気なくてね。

 五月の初め、男は今所有しているものに加え新たに車を購入した。元々気ままに車を走らせるのが好きで、ますます走る事が楽しくなったと語った。
 しかし、一人ではつまらないという。
 隣の誰かを思い浮かべて買った車だから、一緒に色んな所へ行きたいのだと男は付け加え、土曜日の誘いを再び口にした。
 こうして半ば強引に約束を取り付けられた。申し訳ないと思う気持ちはもちろんあった。先月も一度、約束したにもかかわらず男のマンションで一晩過ごした。翌日、男は上機嫌でドライブに誘った。本当に嬉しそうにハンドルを握り、制限速度ぎりぎりまでぶっ飛ばして仰天させた。
 お陰で、その間は何も考える余裕もなくただただスピードに圧倒されていた。びゅんびゅんと後ろに吹っ飛んでゆく景色がとても気持ち良かった。
 そこまで思い出して、強烈な誘惑が過ぎるのを感じ取り、僚はいけないと胸の内で首を振った。
 しかしあのスピードは魅力的だった。男が病み付きになるのもよくわかる。カーブでの揺れも曲者で、地面を直接身体ですべっているような、表面のざらつきを手のひらでなぞっているような独特の感触があった。
 申し訳ないと思いつつ、日帰りのドライブに思いを馳せる。
 男は、本当に嫌な事は決して口にしないが、それ以外は迅速に事を進めるきらいがあった。
 突拍子もない事を言い出し、何がどうなったとあたふたしている間にすっかり準備が整い、考える間もなく連れ出される。
 強引と言えばそうだが、嫌いではなかった。
 困った事にならない、つらい思いをしないという、信頼があるからだ。
 任せておけば安心だと、信用出来るからだ。男の示す道は間違いがない。
 だから、愚図った自分の為に申し訳ないと思いつつ、好意に甘え、了承した。
 しかし、アパートに帰り一人になると、また心が揺れ動いた。込み上げてくる申し訳なさと羞恥を鎮める為、水曜日に男に買ってもらった青い絵本を手に取り、僚はじっくりと眺めた。
 やがて気持ちも和らぎ、軽さが戻ってきた。
 動けるようになった身体で明日の準備に取り掛かる。
 夜八時、つけっぱなしのテレビは番組が変わり、にぎやかな笑い声が聞こえてきた。丁度よいざわめきを聞きながら、僚はクローゼットを覗き込んだ。
 端に寄せた五段チェストの引出しから、靴下を一足、ボタンシャツを一枚。
 洗面所からタオルを一枚。
 三点揃えて袋に詰め、いつもの斜め掛けにしまったところで、これで準備はいいだろうかと頭をひねる。
 自分の性格を思い浮かべて用意したのだが、いざ現地で何か足りないとなってはいけない。
 普段から、斜め掛けの内ポケットにはもしもに備えて絆創膏や裁縫セットを収めているし、大分前に用意して、結局まだ使っていないたっぷり入ったポケットティッシュも入っている。
 それに何か足りないとなっても、向かうのは店一つない無人島ではないのだ。万が一の時は、近くのコンビニエンスストアに駆け込めばいいだろう。
 開きかけていたファスナーを締め、これでよしと一つ頷く。盛り上がってきた気分の赴くまま、男にメールを送る。
 準備が出来た、明日が待ち遠しいと、気持ちを込めて送る。
 返信はすぐにやってきた。テーブルにもとのように置いたと思った途端の着信に思わず胸が高鳴る。

――こちらも準備万端だ。明朝九時に会おう。

 だらしなく頬が緩みそうになり、慌てて引き締める。無理に力を入れたせいで引き攣り、少し痛くなった。そこでふと息苦しさを感じた。
 呼吸も忘れるほど喜んでいる単純な自分に、顔をしかめながら笑う。
 一人で何をやっているのかと滑稽さに打ちのめされるが、込み上げてくる嬉しさにすっかり薄れる。
 用意した斜め掛けを、部屋のどこからでも目に入る椅子の背に引っ掛け、僚は口端を緩めた。

 

 

 

 翌朝、明けてすぐは雲が多かったが、次第に晴れて青空が広がった。
 出発の時間には、眩しいほどの陽光が降り注ぐまでになった。
 待ち合わせ場所に向かうと、丁度男の車も滑り込んできた。
 深みのある落ち着いた綺麗な赤に、しばし心を奪われる。空を反射しているフロントガラスに目を凝らすと、軽く手を上げるシルエットが見えた。
 笑いかける男の顔が、見えないが見えた。
 僚も手を上げて応え、助手席に回り込む。
 丁度ぴったり、お互い時間に正確だと挨拶を交わす。
 シートベルトを締めながら僚は、絵本の感想とどれだけ嬉しかったかを改めて口にした。
 男は良かったと微笑んだ。

「君に喜んでもらえるのが一番だ」

 胸に沁みる。痛いほどに。僚は重ねて礼を言った。何度言っても言い足りない。もっともっと伝えたい。こんなにも自分を一番に思ってくれる男に、自分も男を一番に思っていると証明したい。
 しっかり応えたい。
 どうしたら男は喜ぶだろう、どうやって証明していこうか。
 じきに車は高速道路に乗り込んだ。

「さあ、行こうか」

 道の先の先に目を凝らし、男は心持ち弾んだ声を出した。アクセルを踏み込む。

「!…」

 足が浮く感覚に僚は一杯に目を見開いた。慌てて、しっかり足の裏をつけ踏ん張る。
 すでにもうこのたまげる加速を体感しているが、飛び出る感じがたまらなく気持ちいい。うなじの辺りがぞくぞくして、胸の中で大いにはしゃぐ。頭を渦巻いていたうじうじは、いつの間にかどこかに吹き飛んでいた。
 車の中という密室で、自分にこんな楽しみをくれる男の顔を、僚はちらりと横目に見やった。まっすぐ見るのは何となく恥ずかしかったので、こっそり窺う。
 運転に集中し、まっすぐ前を見据える横顔にしばし心を奪われる。楽しそうに運転しているな、と少し羨ましくなる。
 いつか自分も、そこに座りたい。男はこちら側だ。そしてこんな風に空いた高速を飛ばし、いい気分を味わってみたい。
 ああでも、この車を自分が手に入れられるようになるまで、何年かかるだろうか。そもそも一生かかっても無理ではないか。叶える為には、どれだけ長い道のりを歩く事になるだろう。
 思わず目が眩む。

「穴が開く」
「……は?」

 不意に男は口を開いた。面白がっている口調だ。すぐには意味を理解出来なかった。素っ頓狂な声を上げるのと、男の手が動いて頬の一点を指差し、この辺と言うのと、ほぼ同時に起こる。
 そうされるまでもなく、僚は意味を掴んだ。たちまち顔を赤くする。
 気付いたところで、恋人の顔を見る事になんら問題はない、後ろめたい事はないはずだが、何故だか無性に恥ずかしかった。
 気付かれていたのが、妙に悔しく感じる。
 ふふと笑う男の声に耳まで熱くなる。
 自分でもよくわからない奇妙な感情にもごもごと口を動かし、僚は苦笑いでごまかした。
 それから、開き直り、堂々と顔を向けて男を見やる。

「どうかしたかい」

 男の声は、包み込むように優しかった。

「……うん」

 僚は曖昧に頷いた。こうして眺めているのが気持ちいいから、とは、素直に言い難い。やはり気恥ずかしい。
 はっきり理由を知りたい、という声音ではなかったのに甘えて、僚は心行くまでじっくりと眺めた。

「穴が開いたら、フタしてやるから」
「なら安心だ。その時は頼むよ」

 他愛ない会話、それで終わるはずだったが、言った時はぼんやりと丸いシールを貼るくらいの軽いものだったのが、海に向かっているからか、ぽんと弾けるようにビーチボールのあの栓が思い浮かんだ。我ながらひどい発想につい吹き出しそうになり、慌てて咳払いでごまかす。

「やっぱり君に頼むのはよそうかな」

 態度からある程度察して、神取は大げさに肩をそびやかした。

「大丈夫だって、ちゃんとするから」
「ふふ、怪しいものだな」
「ほんとだって」

 僚は慌てて謝り、自分が何を連想したか素直に白状した。
 楽しげにはしゃぐ僚に調子を合わせ、神取も声を上げて笑った。
 夏の一歩手前という事で、浜辺はまだ人もまばらだった。沖の方にちらほらと、ウインドサーフィンを楽しむシルエットが見える。
 海岸近くの駐車場に車を止め、歩いて砂浜に向かう。日差しが少し暑かったが、吹き付けてくる風のお陰でそれほど汗ばむ事もなかった。
 男は、波打ち際まで行くよりは、少し離れたところから、海全体を眺めるのが好きだった。
 太陽を反射して眩しい海を、目がちかちかするまで眺めるのを好んだ。
 泳ぐのも好きだし、まだ季節でない海をぼんやりちかちか眺めるのもいい。
 自分はこうだが、こちらに合わせる事はない、君は君の楽しみ方で海を満喫してほしいと言われていた僚は、始めこそ男の隣で同じように眺めていたが、背中を押されて、遠慮なく従った。
 裸足になって裾をまくりあげ、波打ち際まで進む。波が引いていく時の足裏のむずむずした感触をまず楽しむ。湿った砂を足の指で掴んだり、裾が濡れるぎりぎりまで海に向かったり、その合間に男を振り返って目で会話したり。
 ざぶん、ざぶんと寄せては返す心地良い波の音を聞きながら、海に来た時間を楽しむ。
 ある時ふと見やった右手の砂浜は、ずっと先まで人の姿がなかった。ずうっと向こうに、男か女かわからない人影がぽつんぽつんとあるだけ。左手の側は、中学生らしき女子が二人と、親子連れが、それぞれ離れた位置で、砂浜に絵を刻んだり持っている小さなバケツで海水を汲んだりと、思い思いに楽しんでいた。
 もう一度人けのない左側を見やった時、途端に猛烈に走りたい欲求に駆られた。走り出したくて足がむずむずしてくる。
 そして気付けば足は動いていた。走り出してすぐは、まだいくらかためらいもあったが、速度を増すにつれ、余計な事は全て頭から吹き飛んでいった。走る速さについていけず、身体からぽろぽろ剥がれ落ちていくようだった。
 ぱしゃぱしゃと波を踏みしめ、湿った砂を蹴り上げて、どんどん前へと進む。
 その様子に神取は目を丸くした。どこの大馬鹿者かというはしゃぎぶりに笑いが止まらなかった。
 僚はある程度まで行くと折り返し、また波打ち際を全速力で走った。風を切り、まっすぐ前を見据えて力一杯走る姿は、日を受けて輝くようであった。どこの大馬鹿者は、とても美しかった。
 息を切らしながら戻ってきた僚を、神取は笑いながら迎えた。

「ご感想は」

 まだ痙攣する腹を何とか抑え、そう尋ねる。僚は一点の曇りもない飛び切りの笑顔で、最高に気持ち良かったと白い歯を見せた。

「見ているこちらも、気持ち良かったよ」
「本当に良かったよ。最初はまあちょっと恥ずかしかったけど、走り出したら風とか気持ち良くてさ」

 息を整えながら、僚は癖のある黒髪をかき上げた。
 頭の中だけでせせこましく考えて、窮屈な思いをしていたのが全部吹き飛んだ。

「そっちこそ、あんな声あげて笑うなんて、初めて見るかも」
「あんな風に走る君を見るのは、初めてだったからね」

 海へと誘った当初は遠慮してこちらに合わせ、大人しく眺めるにとどめていたが、背中を押すと、僚はすぐさま裸足になって波と戯れた。
 遊ぶ僚の傍まで行った途端、波をかけられそうになったり、わざわざ手にすくった海水を持ち運び、危ないと笑いながら足元に零したり…もちろんどちらも本当に汚す意図はなく、避けるのが前提のおふざけだ。似たような事をしてくる悪友がすでにいたので、対処は心得ていた。芝居がかった声で嘆くと、僚は笑いながら謝ってきて、わかり合っているやり取りを心から楽しんだ。
 こんな風に遊ぶ事は何度もあったが、今日のようにわき目もふらず、一直線に走り抜ける姿を見るのは初めてだった。

「たまらなくおかしくて、嬉しくなったよ。君があんまり気持ち良さそうだったから」
「うん、ほんと気持ち良かった。ありがと。なんかね」

 今になって恥ずかしさが込み上げてきたと、僚は照れながら笑った。その眦に少し光るものを見つけ、神取は静かに微笑んだ。なんて可愛い人だろうと、胸が熱くなるのを感じた。
 懐中時計から僚へと顔を向け、尋ねる。

「私はもう少し海を見ているが、君はどうするかね」
「じゃあ、今度は大人しく遊ぶよ」
「構わないよ、昼の時間まで、思い切り腹を減らすといい」
「もう充分減ったし」
「そうかい」

 渋い顔で笑う僚の肩を叩き、時間になるまで思い思いに海を楽しむ。
 車に戻り、僚は陰に隠れて着替えを済ませた。砂だらけの足を用意していた水で綺麗に洗い流し、靴下をはき、裾にまとわりつく砂を丹念に払い落とす。
 大丈夫だよと男が声をかけても、僚はまだ気にしていた。

「一粒でも車に落としたら、後で鷹久にお尻ぺんぺんされるし」
「そんな事はしないよ」
「あれ、そうだっけ」

 笑う男にわざと目を丸くし、僚はにやにやと斜めに見やった。
 降参だと、神取は両手を軽く上げた。
 彼がそれだけ、車に注意を払い敬意を示してくれる事に感謝する。自分ももちろん大事に扱って、傷や汚れを気にするが、万一があってもすぐに対処出来る余裕があるからか、それほど神経質ではなかった。その代わり、彼が目を配ってくれた。
 先の冗談めかした言葉もそれの表れで、大事に思ってくれる心配りにたまらなく嬉しくなる。
 混雑を避ける為、少し早めにランチへと向かう。
 お陰でどこもまだ余裕があり、さて何を食べようかと何軒か迷った末に、海鮮丼の写真が一番美味そうに見えた店に入った。
 二階の、海が臨める席へと案内される。
 途切れなく連なった窓ガラスからの眺めにしばし見入って、僚は小さくため息をついた。
 僚は店ののぼりにあった海鮮丼を、男はおすすめの定食を注文し、それぞれ少しずつ分け合って海の幸を堪能した。

 

 

 

「良いものが見られる場所へとご案内しよう」

 休憩の後、そう言って男は歩き出した。期待に胸弾ませながら、僚は後に続いた。
 道中には、あの店もあの店もいいと、心くすぐられる土産物屋が連なっていた。後で寄ろうという提案に、是非もなく頷く。
 小道をしばらく行くと、展望公園へと続く階段が現れた。

「え、これ上るの……」
「おや、若いのにだらしないね」

 尻込みする僚を挑発し、神取はにやりと口端を緩めた。
 たちまち僚はきりりと唇を引き結んだ。

「ほんの小高い丘だよ、それほど急な階段でもないし手すりもある、ご覧のように綺麗に整備されている」

 僚は先を見やった。コンクリートの階段は途中から右に折れ、まだ続いていた。
 一つ息を吸い込み、無言で上り始める。ふふと笑い、神取は後に続いた。
 階段の両脇は、ぱらぱらと細身の木が立ち並び、足首ほどの草が地面を覆っていた。視界はすっきりと抜けており、道も明るい。
 始めは軽快に足を運んでいた僚だが、段々と持ち上げるのが厳しく感じるようになってきた。だが、後ろに続く男にそれを悟られるのだけは御免だと、始めのペースを崩さず上り続けた。
 時々風が吹き抜けるのがありがたかった。枝葉を伸ばし、折り重なった木々の傘のお陰で日差しは遮られ、汗に悩まされる事もない。
 僚は黙々と足を運んだ。
 右に折れ、左に折れて、ついにゴールが見えた。よかったとほっとし、息切れを噛み殺す。
 上りきったところで、僚は振り返った。すぐ後ろにいた男は息一つ乱さず、目を見合わせるとにっこり微笑んだ。負けずに笑顔を見せる。
 展望公園は落下防止の柵でぐるりと囲まれ、ベンチが海に向かっていくつか置かれていた。休憩がてら景色を眺めるにはもってこいだろう。
 ついつい誘惑にかられる。今すぐあそこに腰を下ろして、乱れた息を整えながら景色を眺めたい。しかし男は息切れ一つしておらず、余裕たっぷりの笑みまで寄越してきた。これで自分が座る訳にはいかない。
 悔しいと顔にはっきり表している僚を心の中でそっと愛で、神取は静かに息を吸い込んだ。彼には澄まして見せているが、ただのやせ我慢だ。まだまだ鍛え方が足りないなと自省する。
 どこか不機嫌な僚をつれて、柵の方まで歩みを進める。ついてきた彼を一度振り返り、良い眺めだねと遥か水平線を指差す。
 ひたすら上った甲斐がある絶景。
 息を切らしながら見渡す太平洋は格別であった。遠くの空にぽかりぽかりと雲が浮いて、風も心地良く、みるみる汗が引いていく。
 険しかった僚の顔付きも、この眺めを前にすぐに溶けていった。

 すっげー……

 半ば無意識に呟きをもらす。
 僚が風景に見惚れている隙に、神取はふうとため息を一つついた。

「階段を上ると、良いものが手に入る。よかったろう」
「……うん」

 男の示すものを読み取り、僚はしみじみと頷いた。改めて景色と向き合い、つまらないこだわりから心を開放する。
 眼下に広がる景色を、僚は飽きる事無く眺めていた。
 神取はそっと後退すると、海を眺める僚の姿に見惚れた。ほのかに笑みが浮かぶ整った横顔を、蓋が必要になる程見つめる。
 少年の眼差しはきりりとまっすぐ前を向き、和やかな色を湛えてきらめいていた。日差しにきらめく海と、きらめく瞳とを、心に刻むように神取は飽きる事無く眺めていた。

 

 

 

 もっと長い階段に思えたが、下ってみるとあっという間だった。この程度の距離で、ひいひい根を上げていたのだ。僚は先を行く男に気付かれぬよう、こっそり頬を擦った。火照って仕方ない頬を、吹き抜ける風が癒してくれた。心持ち足取りをゆっくりにして、気持ちを静める。

「さあ、どこから見ようか」

 再び土産物屋が並ぶ小道にやってきた二人は、ぶらぶらとそぞろ歩きしながら、一軒ずつ覗いて回った。すると、しょうゆの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。どこからだと顔を巡らすと、すぐそこに、だんごののぼりが見えた。その向こうにはせんべいの文字があり、少し視線をずらすとそちらにはひと口コロッケとあった。
 僚が顔を向けるのと同時に男も見やって、顔を突き合わせた二人は、一拍置いてにやりと笑った。

「俺はひと口コロッケ」
「おや、私もだ」
「六個だとちょっと安いみたい」

 丁度半分こ出来ると、迷わず買いに行く。
 摘まむのもひと苦労の、やけどしそうなひと口コロッケを、ふうふう言いながら口に運ぶ。食べ歩きは行儀悪い後ろめたさが美味しさのスパイスで、お互いの顔に満面の笑みが浮かんだ。
 階段を往復して腹ごなししたせいか、まだ入る余裕があった。せっかくだからだんごも食べよう、せんべいも齧ろう。ホタテの串焼きも中々おつで、もう一本追加した。
 食べるねえ。
 そっちこそ。
 すっかり食べ歩きにはまってしまった。小道を行き交う観光客が、美味そうに頬張っている姿も、強烈な誘惑だった。すぐ横を良い匂いをさせて通り過ぎるものだから、つい自分も食べたくなってしまう。
 気になるものを端から試して、いい具合に腹も膨れた頃、僚の肩を軽く叩き神取は少し先を指差した。
 目に飛び込んだ看板は、有名なアイスクリームのチェーン店。

「君は何味にする?」

 うきうきと弾む声に、僚は目を瞬いた。よく入るものだと感心する。

「じゃあ、やめておくかい?」
「とんでもない。食べようよ」
「よかった。万一に備えて胃薬も用意してあるから、安心だよ」
「ええ」

 それはさすがに予想していなかったと、僚は腹を抱えた。
 男もくすぐったそうに笑い、今日はとことん食べるつもりで来たのだと言った。
 恐れ入りましたと肩を揺する。
 各々季節限定を一つ、普段頼まないようなフレーバーを一つのダブルでもらい、少し歩いた先の、ベンチが並ぶ休憩場所でつつき合う。
 一つは甘酸っぱく、一つは香り豊か。一つは奇抜な色合いのもの、一つは濃厚なチョコレート色。口の中でなめらかに溶けてゆくそれぞれの味わいに頬を緩め、僚はじっくり愉しんだ。
 食べ歩きの合間に、土産をいくつか買い込んだ。ふりかけや乾物といった、日持ちするものが主だった。せっかくだからと色々選んだら結構な量になり、袋は一杯だ。後で、男と分ける予定だ。

「他に見たいところはあるかい?」
「うん、もう充分だと思う」

 土産の詰まった脇の袋を確かめ、僚は満足したと答えた。
 美味しくて、楽しくて、面白かった。
 四つの味を二人で少しずつ楽しみながら、今日の感想を言い合っていてふと僚は、見やった日差しが夕暮れに近付いているのに気付いた。

「では、そろそろ車に戻ろうか」

 食べ終わったカップを屑籠に放って、神取は言った。
 僚は一つ頷き、ベンチから立ち上がった。

 

 

 

 帰りの車中、僚はしばし窓からの眺めを見送った後、地図を引っ張り出して膝に乗せた。開いて、自分たちが今辿っている幹線道路を指でなぞる。
 今日は一日楽しかった。身も心も気持ち良くクタクタだ。もうすぐ終わりなんて名残惜しい。大満足だけど、楽しい時はあっという間に過ぎる。
 そんな気持ちを込めて、僚は指先をそっと滑らせた。
 男へと顔を上げる。

「今日はありがとね」
「少しはお役に立てたかな」

 僚は急いで頭を振った。少しなんてとんでもない。いつも応援してもらってばかりで申し訳ない。期待に応えたい。でも自分はまだまだで、階段一つ上るのさえやっとだ。もっともっと頑張らねばとても追い付けない、男の隣に並べない。
 深く入り込もうとしたその時。

「今度はどこへ行こうか」

 絶妙のタイミングで男の声が滑り込む。
 神取は続けた。
 夏はこれから。ここなら日帰りも可能で、気分を切り替えるにはもってこいだ。
 まだまだ行きたい店が一杯ある、食べたい物も一杯。君を連れて行きたいところが一杯だ。
 あの展望公園からの夕暮れや、夜景は、ちょっと言葉では表せない。また、良く晴れた冬の日は、富士山も見える。遠いのに近くにあるようで、不思議な感覚なんだ。ぜひ君の目で見て、体験してほしい。

「だからまた行こう、また来よう」
「また来たい。行こうよ」

 帰り道をなぞっていた僚の指が、逆向きになる。
 またこの空気を共有しよう。密室と開放の気持ち良さを何度も味わいたい。

「今度あの階段上る時は、一気に行きたいな」
「では、私も負けないよう鍛えておこう」
「だめだよ、鷹久は怠けてろ。もう充分なんだから。俺だけ鍛える」
「そいつはひどいな」

 ゆったり笑う男に僚はぐっと息を飲んだ。ひどい、いやひどくない。やっぱりひどいか。

「じゃあ鷹久は歩きで。俺は走る」

 少し考えた末の代替案に、神取は頬を緩めた。

「急がなくていい。君は君の階段を、しっかり上りなさい」

 早足でも休み休みでも上るのを止めなければ、必ず良いものが手に入る。彼が掴むのはどんなものだろうかと、神取は思いをはせる。
 次への夏に期待を膨らませているのか、どこか楽しげな様子で地図をなぞる僚にちらりと目配せして、ほのかに笑み、神取は車を走らせた。

 

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