チクロ

考えとく

 

 

 

 

 

 桜井僚が目を覚ました時、室内はまだ明るかった。大きく伸びをしながら、窓と、傍にいるはずの男を順繰りに見回す。

「よく眠れたかい」

 目が合うと、男は軽く笑った。大あくびを両手で隠して、もうぐっすりと、と頷く。

「よかった」

 男の手が頭に伸びる。優しく撫でる手のひらに目を閉じて浸る。いつでも暖かい手に、自然と笑みが浮かんでくる。今起きたばかりなのに、気持ち良さにまた眠くなる。このまま寝てしまいたくなる。しかし充分休んだ後なので、目を閉じても頭は冴えていく一方だが。
 僚はぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「今――」
「四時を少し過ぎたところだ」

 探す仕草でわかったのだろうが、呼吸が無性に嬉しかった。

「身体の具合は?」
「ああ……」

 聞かれて、僚は毛布の下で腰や腹を触って確かめた。痛みや軋むような事はない。

「大丈夫」
「腹の具合は?」
「まだ鳴らない」

 昼寝の前に言われた言葉を打ち返し、にやりと笑う。
 お返しに神取は小さく目を見開き、同じように小さく笑った。

「でもちょっと……」

 喉が渇いてる。起きて水でも飲みに行こうかと、僚は起き上がった。

「ホットミルクはいかが?」

 自分も小腹が空いたところで、起きたら誘おうと思っていたのだと神取は続けた。
 僚はぱっと顔を輝かせて頷いた。ハチミツ入りだと聞き、ますます笑顔になる。
 ではすぐに、と神取はキッチンに向かった。僚はベッドから出て着替え、リビングのソファーでおやつの到着をわくわくと待った。
 少しして、白い湯気をなびかせて二つのカップが運ばれる。
 いただきますと僚はカップを口に運んだ。丁度いい甘さに頬が緩んだ。腹の中までじんわり温まり、とても気持ちが良い。

「飲んだら、夕飯の買い出しか?」
「そうだね。ちょどいい時間だ」

 二人で時計を見やる。

「買い物メモ、持った?」
「コートのポケットに」
「コートは?」
「玄関だ」

 よし、いいかな、笑い合い、ひと口ずつホットミルクを啜る。
 カップを洗う最中、神取はキッチンの窓から外をうかがった。空は良く晴れているが、冬特有の冴えた色をしていた。寒くない格好をと念押しすると、そっちも、と返ってきた。素っ気ないようで心のこもった彼の口ぶりに、つい唇が緩む。
 玄関先でともにコートを着込み、まず神取が口を開いた。
 可愛いね、良く似合うと渡されたむず痒いひと言に僚は渋さを混ぜた笑みで応え、そっちこそカッコいいと見上げる。すらりと背の高い黒ずくめに、色鮮やかな暖色のマフラーが目を引く。
 そこでふと、昨日交わした言葉を思い出す。

「そういえばマフラー、昨日はほんとに一緒に寝たの?」
「ああ置いた。いい夢を見たよ」

 手袋をしながら、神取は楽しげな口調で答えた。

「へえ。鷹久の事だから、すごい内容だろ。ちょっと口には出せないような」

 黙したまま思わせぶりな笑みを浮かべる男に、僚はやっぱりと目を見開いた。

「さあどうだろう。軽蔑するかい?」
「え、全然。鷹久は変態なんだからそんくらいじゃないと」

 冗談半分茶化す。男がどんな夢を見ていようが…たとえ本当に口には出せないような、いわゆる猟奇的な内容であろうと、軽蔑せずにいる自信がある。むしろそれでこそ男だと思ってさえいる。少しおかしな方向で、男を全面的に信頼している。
 男はにやりと口端を持ち上げた。
 褒めてくれてありがとう。
 褒めたんじゃないよ
 褒めてくれたじゃないか
 褒めたっていうか……。
 自分でもよくわからなくなり、僚は肩を揺すった。
 くすくすと笑いながら、神取は己の首に巻いたマフラーを撫でた。

「これで、もう冬も怖くないな」
「そんな大げさな」
「君が選んで買ってくれたものだ、君の気持ちがこもっている。つまりこれをしていれば、君に抱きしめられているも同然というわけだ。怖いものなしだ」
「そんな事考えてんの」
「ああ、嬉しくてね」
「……ふうん」

 僚はさりげなく自分のマフラーに触れた。お互い似たり寄ったりと知り、それが何だかおかしかった。嬉しくておかしかった。
 身に着けていると自分の顔が思い浮かぶ、嬉しいというなら、もっと沢山贈り物をしたいという欲求が浮かんできた。
 どれを見てもどこを向いても自分の顔が思い浮かぶくらい、贈り物に埋もれてしまえと、頭の中に妄想を巡らす。

「さあ行こうか」
「うん」

 僚は靴を履いた。

 

 

 

「良く似合う、可愛いよ」

 少し離れた場所から眺め、にっこり笑う男に、僚は複雑な顔をしてみせた。これを着たら言われるだろうと予測はしていた。自分でも、こりゃ可愛いと鏡の前で笑った。
 料理の際、エプロンではなくかっぽう着を身に着ける事にしていた。袖口のゴムが、まくれば煩わしさを解消してくれるので、そこがいたく気に入って愛用している。これまでは薄手の綺麗な青色のかっぽう着だったが、冬場に重宝する厚手のものをたまたま見つけ、先日購入した。それを、今日は持参したのだ。
 そして男に初披露したところ、先の言葉で称賛された。
 実際に男の声で言われると、予想していたよりずっと腹の底がむずむずとして、妙に熱くなった。

「……鷹久さあ、何着てもそう言うよな」

 悪い気はしない。決して腹を立てているわけではない。そこは気を付けて、僚は言った。

「君の可愛さがますます強調されるからね」

 返ってきた言葉は、他の誰かが口にしたら嘘くささに身体中が痒くなるようなものだったが、不思議と男の声だとそうはならなかった。可愛いと言われるのが、何だか誇らしくさえ思えてくる。そんな威力を持っていた。
 本当に不思議だと、僚は背中の紐を結んだ。

「手触りも結構良いよ」

 少し調子に乗り、自慢げに言う。
 腕を撫でる手に倣って、神取も手のひらをすべらせた。

「ああ、本当だ」
「だろ」

 ふふと笑い合う。

 

 

 

 食後の洗い物を手早く済ませる僚の横に立って、神取は先程のように腕を撫でた。

「撫ですぎだよ」

 当然上がる僚からの抗議の声に、神取はすまんと謝罪しながら、繰り返し手をすべらせた。
 年頃の男の子がかっぽう着を身に着けている、それだけで可愛くてたまらなかった。薄手の時はすっきりした印象で、厚手の今はシルエットが丸くなって、ますます可愛かった。丸いシルエットがせっせと動いている様がとても愛くるしいのだ。

「良い手触りだから、つい癖になって。でも君の肌も、とても触り心地がいいよ」

 触れていた布地から顔へと目を向け、神取は微笑した。
 僚は慌てて顔を背け、刺々しく言った。

「鷹久って意地悪だな」
「いきなりどうした」

 面食らい、神取は目を瞬かせた。

「どうしたじゃないよ。俺にチェロの練習させないようにして、意地悪してるじゃん」

 瞬き一つ分の間に理解した神取は、心なしか顔を赤くして怒っている僚に詫びのキスをした。

「確かに意地悪だった」
「……ホントだよ」

 手を拭いながら、僚はぶっきらぼうに言い放った。これから練習だというのに、よそに気を取られてままならない状態に追い込むなんて、意地悪以外のなにものでもない。

「他の教室通おうかな」

 大きく息を吐き、男をちらちら窺いながら悲壮感たっぷりにもらす。

「済まなかった。どうしたら許してもらえる?」
「……そうだな、どうしようかな」

 そう言われるとすぐには浮かんでこない。君が可愛いからとか何とか、無茶苦茶な言い分をぶつけてくるに違いないと構えていたので、素直に謝られて面食らう。かっぽう着を脱ぎながら僚は考えた。

「じゃあ、音楽室行くまでに、考えとく」
「それで許してくれるかい」
「それも考えとく」

 そう言って僚はにっこり笑った。合わせて神取もにっこり笑った。

 

 

 

 そう言った僚だが、音楽室に行っても、特にないやと練習を開始した。取り組んだ途端頭を切り替えて、真剣なあまり少し怖い顔でチェロに挑んだ。
 彼の紡ぐ柔らかな色気に、神取はすっかり引き込まれた。ちょっとばかりチェロを羨む。こんなに良い音色を届けてくれる僚に、うっとりとして目を細める。反省会でも僚はまだ少し興奮気味で、本当に好きなのだなとおかしくなった。自分も負けてはいられない。
 月曜日からの生活に備え、早々にアパートに送り届ける。いつもの場所に車を停め、次に会う日の約束をして、少し会話して、もたもたと時間を過ごすのは、お互い離れがたいと思っているからだ。
 次に会うまで少し時間が空く。自分の出張のせいだ。連絡はいつものようにいつでも取れるが、それがかえってもどかしい。メールの文字だけでは味気ないが、電話で声を聞けば、すぐにでも会いたくなってしまう。
 そんな期間がこれからしばらく続くのだ。もたもたと未練がましく過ごしてしまうのも無理はない。しかしとうとう、会話が途切れた。
 じゃあ、と僚がドアに手をかける。神取は頷いた。
 降りる間際、これ、と、僚は四つ折りの小さな紙を差し出した。男が摘まんでも、すぐには手を離さなかった。

「マンション帰ったら、読んで。帰ったらな」

 繰り返し念押しして、ようやく僚は手を離した。わかったと、神取は一旦胸ポケットに収めた。車を降りた僚は、何度も振り返り、夜闇に溶けて見えにくい男に目を凝らして、アパートに帰っていった。完全に見えなくなるまで見送って、神取は車を発進させた。
 リビングに入ると、まだ微かに彼の匂いがするようだった。しかしどこを見ても、あの可愛い人はここにはいない。今しがた送り届けてきたのだから当然だ。室内の至る所に気配は残っているが、本人はいない。微かな匂いをたどるしかないのが切なかった。
 そこでふと、胸ポケットのメモを思い出す。
 神取は取り出したそれを慎重に開いた。乱暴に扱うと、彼の気持ちが飛び散ってしまうように思えたからだ。

『冷蔵庫の中身全部食べたら許してやる』

 二行の文章には、そう書いてあった。すぐさまキッチンに向かう。
 カラにした事はないが、中身はいつも大抵偏っていた。酒とそのつまみが入っている事がほとんどで、時々、悪友のはとこからのもらい物が加わるくらいだ。
 けれどここ数ヶ月は、開ける度ちょっとした感動に見舞われる。
 やってくる彼が時々作り置きをこしらえてくれるので、中身が充実しているのだ。
 神取はメモを手にしたまま扉を開けた。途端に冷気がさあっと零れ落ちた。
 棚にはいくつもの容器が並び、それぞれ異なる中身が詰まっておりとても賑やかだった。
 容器にはそれぞれ付箋が貼られており、黄色の一行メモサイズの付箋には、日付と中身が読みやすい字で書かれていた。
 男はにんまりと口端を緩めた。
 なんて分かりやすい独占欲。庫内一杯に詰まった彼の愛情に、溺れてしまいそうになる。イメージを頭に思い浮かべてみた。きっと、たまらなく気持ちいいだろうな。
 中段の引き出しは、氷か彩りの乏しい冷凍保存品くらいだったが、こちらも変化があった。可愛らしい絵の描かれたアイスの箱が一つ。
 このアイスは金曜日、海を見に行った帰りに彼が突発的に欲したものだ。土曜日の予定が決まった時、一緒に食べようと購入を決めた。六つ入りのアイス、昨日二人で半分こして食べた。サイズが小さめだったから、いっぺんに二つぺろりと平らげた。残りはあと二つ。今夜の内に食べてしまうだろう。
 彼はこちらを、突拍子もない事を言う人間だと呆れるが、彼も中々負けてはいない。雪の降る中アイスが食べたくなるなんて実に楽しい。
 言うまでもなく、二人で食べたアイスは非常に美味かった。
 もう一度冷蔵庫の扉を開ける。並んでいる容器は多いが、中身はそれぞれ少しずつで、月曜日までには食べきってしまうだろう。
 こちらの事を考え、丁度いい分量で作ってくれたのだ。

「これで許してくれるかい?」

 神取はメモに向けて呟いた。
 嬉しくて、涙が込み上げてきた。つい険しい顔になる。
 とても充実した冷蔵庫。冷蔵庫内一杯の、彼の愛情。彼の作ったもので生きる、生かされる。なんて幸せだろう。
 さあ、どんな言葉で感謝を伝えたらいいだろう。彼は今頃、これを後悔している。こんなにしつこくした自分が今更恥ずかしくなって、嫌われたらどうしようかと不安に苛まれ一人悶々としている事だろう。彼はそういう性格、目に浮かぶようだ。笑いが込み上げる。彼の、こんなに重たくしつこい愛情がたまらなく嬉しい。
 感謝の気持ちを伝えるには、彼の不安を吹き飛ばすには、どんな言葉を贈ればいいだろう。
 神取はメモと携帯を手に、しばらく考え込んだ。

 

 

 

 携帯電話を握りしめたまま、僚は笑い転げながらお笑い番組を楽しんでいた。毎週見ているもので、行き過ぎた下品さもなく、気楽に見ていられるのが気に入っていた。
 今日は、今は特に笑えて仕方なかった。芸人のちょっとした仕草さえおかしくてたまらない。
 ついさっきまではひどく憂鬱な気分だっただけに、身も心も楽になった今、僚は思い切り…もちろん隣人に考慮して最大限抑えて…腹を抱えて笑った。
 たった一通の、一行のメールでこんなにも気持ちが切り替わるとは我ながら単純だと呆れもするが、こんな自分で良かったと心から思う。
 番組がコマーシャルに切り替わったところで、もう一度メールの文面に目を通す。もう何度目になるかわからないが、何度読んでも顔がにやけて仕方なかった。見る度顔がほてってくる。
 そうなる相手はただ一人。

「うん……考えとく」

 また作ってほしいと希望の書かれたメールを目で追い、呟く。
 嬉しくて、涙が込み上げてきた。
 携帯を持った手を額に押し当て、僚は目を閉じた。

 

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