チクロ

特別な横顔

 

 

 

 

 

 目玉焼きのフライパンに蓋をし、桜井僚は火を消した。ほぼ同時に、背後でトースターが出来上がりの音を立てる。パンは男に任せ、フライパンの横で温めていた野菜スープの具合を見る。ほかほかと湯気が立ち、丁度よく火が通ったようだ。こちらも火を止める。
 目玉焼きは平たい皿に、スープはカップに盛って、僚は男を振り返った。

「こっちはもう出来るよ。あとは――」
「あとは、ヨーグルトにジャムを添えるだけだ」

 ガラスの器に白いヨーグルト、その上に瓶詰のジャムをスプーンで落としながら、神取鷹久は答えた。

「さんきゅ、じゃこっち運んでるね」
「ああ、頼む」

 僚はトレイに二人分をのせてダイニングテーブルへと運んだ。キッチンの方から、瓶とスプーンが触れ合うかちゃかちゃと小気味よい音が聞こえてくる。
 男が手にしているのは、先日二人でフルーツ狩りに出かけた際、取ったリンゴの余りで自分が作ったジャムだ。朝のパンはもちろん、紅茶やホットワインに入れて楽しんでいると、都度メールを送ってよこした。男らしい短い文章だが、丁寧に味わってくれているのがよく伝わってきて、その度自分も嬉しくなった。
 そして今日、朝食のヨーグルトに使う分で瓶は空になった。
 透明な瓶から少しでも残さず出そうと、男は粘り強くスプーンを動かしていた。
 しかし、どう見ても瓶は空っぽだ。
 かちゃかちゃ、かちゃかちゃ。
 ついおかしくなる。

「もうないよ鷹久」

 もうおしまい。
 そう告げると、神取はとうとう諦めた顔で手を止めた。そしてほんの少しだけ肩を落とした。わずかな動きだが、かえって哀れを誘った。
 胸にぎゅっと迫ってきたが同時に笑いが込み上げた。僚は笑いながら眉を寄せた。

「また作ってくるよ」
「本当かい」
「もちろん、お安い御用だよ」
「ぜひ頼む。本当に、最高だったよ」

 大げさだなと返すが、嬉しくてたまらなかった。

「わかった、約束な」
「ありがとう」

 ようやく男はにっこりした。また、胸に迫ってきた。
 ヨーグルトを運び、向かい合って食卓に着く。
 揃っていただきますと頭を下げた後、案の定男の手は真っ先にヨーグルトに伸びた。
 そんなに気に入ってもらえたなんてたまらなく嬉しい。
 男はいつでも、恐縮するほどこちらを褒めた。ただ美味いと言うだけではなく、どういう味付けだから美味い、この歯応えが好きだと、はっきり言ってくれた。
 このリンゴのジャムも、少し果肉が残って、しゃりしゃりと噛みしめる楽しみも味わえるのがいいと絶賛した。そう言われると、次に作る時はそこを更に喜んでもらおうと、やる気が出てくる。
 一つとして無駄のない貴重な言葉を、惜しげもなくくれる男の顔をじっと見つめながら、同じペースでヨーグルトを味わう。
 やがて目が合い、自然と込み上げる笑みに頬を緩めてお互い頷き合った。

 

 

 

 道路を挟んだ向かいの駐車エリアに車を止め、神取はエンジンを切った。
 どうぞの声に僚はシートベルトを外して外に出ると、目的地…道路を隔てた向かいの美術館へと目をやった。
 絵を見に行かないかと誘われたのは、昨夜の事だ。今、ちょっと気になる催しをやっているので、よければ一緒にと誘われた。
 中学での行事の一つ、美術鑑賞で美術館を訪れた事はあるが、自分から望んで行った事はない。
 落書きを少しましにしたような絵を描いているので、多少は興味もあるし楽しめるとは思うが、男には遠く及ばないだろう。
 クラスメイトに、一年の頃絵画コンクールで金賞を取った女子生徒がいる。そしてよくつるむ面々に彼女に密かに好意を寄せている男子がおり、彼は彼女の事となると殊更饒舌になって、深く熱く語る傾向があった。
 そのせいで…いやお陰で、いくらか詳しくなった。とはいえほんの聞きかじり、ろくに自分のものに出来ていないし自分は相変わらず落書き程度、とても知っているとは言えない。
 そういった余裕の心が持てなかったのも理由の一つ。これまでは、毎日の生活を送るのに精一杯で、とても周りを見るゆとりがなかった。言葉を濁しつつ伝えた。
 すると男は、部屋を綺麗に片付け、維持する事が出来るくらいに回復したなら、余裕も出てきたのではないかと言った。
 確かに、一時期色褪せていたいくつかのものを、以前のように楽しむ事が出来るようになった、好物を積極的に欲するようになった、何より、自分が美味しいと思うものを男と分け合いたいと思うようになった。
 自分だけで精一杯だったものを、上辺の取り繕いではなく本心から、余裕をもって行えるようになった。
 野望を語る君の顔は本当に頼もしかった…そんな言葉に、恥ずかしいやら嬉しいやら目の奥が少し熱くなった。
 男も嬉しそうに笑って、先日おすそ分けされたものをお返ししたくて。そう言った。
 男が言うのは、フルーツ狩りの事だ。
 食欲の秋を体験したなら、次は芸術の秋といこうか。そう言いたいのだ。
 無性におかしさが込み上げてきた。
 絵を見に行こう。
 好きか嫌いかで言えば、好きな方。興味はあるが、よくわかっていない自分が一緒に行っていいものだろうか。素直に疑問をぶつける。
 男は嬉しそうな顔になった。
 わからない、でも興味はある、そりゃいい、そういうのがいいんだ。わからない方が返っていい時もある。そう難しく考えないで気楽に、試しに行ってみようと誘われ、一気に気持ちが膨れ上がった。
 道中の車内で、男なりの楽しみ方を伝授された。
 実のところ、男も昔は退屈していたという。はっきり言って嫌いだった。しかし結局逃げられないので、ならば楽しもうと頭を切り替えた。
 絵を見るやり方は一種類ではなく何通りもあって、それぞれ良さがある。こうしなくてはいけないなんてなくて、間違いもない。
 画家について深く突っ込んで調べ、その頃の事情を調べ、集中して潜るのもいいし、見た瞬間の直感に任せて受け取るのもいい。
 今日はどんなテーマで見ようかと事前に決めて、それから鑑賞を始めるのだ。
 好き嫌いで見たり、館内の展示物を一冊の小説に見立てて話を組み立ててみたり、一度目は全部横目に通り過ぎて、戻って二度目にじっくり堪能したり…自由自在だ。
 一枚ずつ集中するのに疲れたら、フロア全体を一つの作品に見立てて眺めるのもありだ。
 次々とよどみなく出てくる美術館の楽しみ方に、僚はただただため息をもらした。

「始めの内は上手く波に乗れないかもしれないが、君ならばすぐに掴めるはずだよ」

 そう言ってもらえるのは嬉しかったが、買いかぶり過ぎだと肩を竦める。

「さあ、では今日は、そうだね…自分が買って飾るとしたらどれか。これで館内を巡るのはどうだい」
「へえ……やってみたい」

 面白い提案だと僚は目を瞬いた。
 もちろん実際に買える訳はなく、想像の旅だが、自分の部屋、つまり自分の生活に加わってもらうとしたら、どんな絵が良いと思うだろうか。
 それを考えながら見るのだ。
 同じペースで回るのは難しいから、待ち合わせは受け付け傍のショップと決め、二人は旅の一歩を踏み出した。

 

 

 

 二階から一階へ向かう階段の手前、順路も終わりに差し掛かるところで、僚は足を止めた。振り返って、正面突き当りに飾られている絵を遠目に見る。
 湖のほとりの風景を写し取った一枚は、ここからだと青くにじみ、ほんのり緑の縁取りがされて綺麗だった。
 ずっと遠くから一枚に集中すると、見え方がまたがらりと変わって中々面白い。
 これも男に教えられたものだ。
 他にもいくつか方法を試した。どれもやってみるととても楽しく、場違いではないか、相応しくないのではないかという気持ちからくる居心地の悪さを感じる事もなく、気負わず絵と向き合う事が出来た。
 男の言う掴めるものを掴んだ実感はないが、ほんの少しわかった気がした。
 やっぱり男はすごいなあと、僚は心の中で感心した。嫌いな事も好きになる工夫をして自分のものにして、有意義に時間を過ごす。
 やっぱり遠いな。
 遠いのは寂しいが、遠いのが嬉しくもあった。誇らしいとも思った。少しでも早く隣に並べるよう、頑張ろう。込み上げてくる気持ちに胸が熱くなった。
 待ち合わせのショップを覗くと、入口から少し進んだ先の棚で。冊子をぱらぱらとめくる男が目に入った。隣にたどり着くより早く、男の目が向けられる。
 目を見合わせ、その顔に微笑を浮かべた。
 僚はひと息飲み込んでから、軽く手を上げて応えた。
 ショップの横はカフェになっており、予定しているランチに向かう前のひと休みにと立ち寄った。
 見て回っている時はちっとも気付かなかったが、窓際の明るいテーブル席に座ると、思った以上に足がくたびれている事がわかり苦笑いが込み上げた。_

「それだけ集中していた、楽しめた証拠だね」
「うん、いやほんと、……すごかった」

 心からそう思うと、僚はため息に交えて言った。
 メニューからクリームがたっぷりのったアイスコーヒーを選び、乾いた喉を潤しながら感想を述べる。
 まずは今日の礼を口にし、僚は、どんな絵に心惹かれたかを語り、男の感想に耳を傾け、同調し、自分の意見を述べ、言葉を紡いだ。
 甘いコーヒーをちびちび啜りながら、止まらないお喋りを続ける。
 とても気に入った絵はあった。一枚だけでなく、いくつも見つかった。男のお陰で、とても気持ちの良い時間を過ごす事が出来た。知らなかった楽しみが広がった。あの青い絵、本当に欲しくなったくらいだ。
 でも一番心に残っているのは男の横顔。
 どんな人混みに紛れても埋もれず光を放ち、凛々しい立ち姿で目を引いた。
 真剣に絵を見つめるその横顔が何より欲しいと思った。
 自分に向かってくる淀みない眼差しも大好きだが、自分以外を見つめる強い視線もまた好きだ。不思議な気持ちにさせてくれる。自分に向いてないのは正直腹立たしくて忌々しいけど、そんなちっぽけな嫉妬も横顔を見つめるとあっさり吹き飛んでしまうのだ。
 その後、必ず自分に向けられるから好きだった。どんなに絵に没頭して遠く旅しても、終着点は必ず自分。だから男の横顔が特別なのだ。
 嗚呼自分は何て奴だろうと自己嫌悪に落ち込む。
 上手く隠して帰り道、運転で正面を向いた男の横顔を遠慮がちに見つめる。信号待ちで止まり、男は顔を向けた。

「今日は楽しめたかい」
「うん、最高に」

 僚は眩しい時そうするように、わずかに眼を眇めた。
 まっすぐ向けられる視線に申し訳なく思うがやっぱり嬉しい。単純な自分。
 男が好きだ。
 たまらなく好きだ。

「ますます好きになった」
「それは良かった」

 僚は男の事を言い、男は美術展を思い浮かべる。

「今日は本当にありがとう。また、一緒に行ってくれる?」
「ああ、お安い御用だ」

 信号が青に変わる。男の顔が正面を向き、僚は横顔を眺める。しばし見つめた後、同じように正面を向いて、しみじみと幸せをかみしめた。

 

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