チクロ

うそつき

 

 

 

 

 

 十二月に入り、日に日に寒さが増し毎朝起きるのがつらい季節がやってきた。
 でも金曜日は特別だ。
 エアコンをつけたばかりでまだちっとも部屋が暖まっていないにも関わらず、桜井僚は活動を始めた。
 今日は週に一度の練習日、朝起きた瞬間から心が浮き立ってしようがない。その前の食事会も楽しみだ。先週の内に、今日行くところを決めていた。
 男と交わした会話がふと過ぎる。

――寒くなってきたので、あたたかい鍋でもつつこうか。
――うん、鍋いいよね。
――よおく煮込んだシチューやグラタンもありだ。
――あ、それもいいな……どうしよう。

 男の挙げる候補はどれも魅力的で、大いに迷った。その中で特に強く心惹かれたのはグラタンだった。自分ではまず作らない、口にしない。冷凍のものが売っているが手が伸びない。
 普段はあまり縁がないメニューだが、それだけに喉が鳴ってしようがなかった。
――では決まりだ、来週は美味しいグラタンを食べに行こう…ようやくその日がやってきた。
 今日は格別寒いが、むしろもってこいだ。寒い日こそよく合うのだ。
 洗面所で冷たい水を顔に浴びせながら、僚は笑った。氷水かという冷たさに頬が引き攣ったが、それくらいではびくともしない。鏡に映る少々だらしない顔付きにもへこたれず、思い切り浸る。
 そんな中、とうとう十二月に入ってしまったという焦りが過ぎった。
 男への贈り物として選んだピアノ曲を、自分のものにするという課題…かなり手強い壁を思い出し、いっとき顔が引き締まる。そうだ、浮かれてばかりもいられないのだ。
 しかしそれも顔を拭い終わる頃には薄れ、何とかなるさという生来のお気楽さが湧いてきた。まだ、時間はある、きっと出来るはずだと自信を取り戻す。こんな自分で良かった。
 単純な自分に呆れ笑いを一つ。けれどこれに救われているのだ、
 僚は頭を切り替え、まずは今日だと足を踏みしめた。

 

 

 

 午前中は風もなく、日向であればそれほど寒さを感じなかったが、午後になり夕刻に向かうにつれ、凍てつく風が強さを増していった。
 いつもの待ち合わせ時間の頃には、昇降口から門までの距離でさえ堪えるほどの寒さになった。
 迎えてくれた柏葉に、いつも以上に感謝を込めて挨拶し、僚は車に乗り込んだ。
 扉が閉まり、車が走り出してようやく、丸めていた肩から力を抜く。
 もう少し温度を上げますかと運転席から聞かれ、僚は急いで首を振った。中は充分暖かく、安心して息がつける。

「大丈夫です」

 嬉しくてつい緩んでしまう顔のまま答える。すると隣から男の手が伸びてきた。今にも手の甲が触れようとするところへ、自分から差し出す。
 冷たさに驚け、と。

「おお冷たい」

 神取鷹久は幾分大げさに声を上げた。その反応を待っていたのか、僚はにやりと口端を持ち上げた。

「ここはあったかい。本当に助かります」

 後半は柏葉に向けて告げ、僚はミラー越しに会釈を交わした。マフラーを解きながら隣の男を見やると、今にも雪が降りそうだねと言ってきた。ほんとに、と一緒になって空を見上げる。いつの間にかどんよりと雲で覆われ、予報では曇りであったが、いつ雪が降り出してもおかしくないほどだ。
 それでも、顔が緩む。

「グラタン選んでおいて正解だったね」

 目を見合わせ、お互いにっこり頷き合う。
 着いた先は老舗の洋食屋だった。半個室の席に案内され、着席と同時に僚はほっと背もたれに身体を預けた。あたたかみのある優しいオレンジの灯りに、気持ちが落ち着く。車の中も充分暖かかったが、色の効果もあるのだろう、より力が抜ける気がした。
 おすすめの特製グラタンを頼み、前菜とデザートを付け足し、あともう一品頼むとしたら何にするかと男に問われ、僚はしばし悩みいくつかの候補から一つを選んだ。
 ほどなくしてドリンクが運ばれ、僚は炭酸水を、男はワイングラスを軽く掲げた。
 今週もお疲れさまと乾杯する。
 神取はひと口グラスを傾けると、向かいに座る少年へと目を向けた。壁に掛けられた小さめの額縁や、頭上にあるライトを、順繰りに眺めていた。アイボリーの壁は灯りによってほんのりオレンジにぼやけ、飾られた小さな額縁の中に広がる風景をのどかな午後に見せていた。
 まばらな木々の向こうに動物がたたずんでいるようだ、牛か馬か、あるいは別の生き物かと、眺めながら僚は考え込んでいた。神取も同じように思考を巡らせながら、主に僚を眺める。
 両手を行儀よく膝に揃え、ほんのわずかに首を傾けて鑑賞する様は、一種独特の雰囲気があった。
 この角度から見る彼もいいものだと見惚れ、視線に気付いて顔を向けてきたところで口を開く。

「君はいつも、姿勢が綺麗だね」
「え、そ……鷹久のが綺麗だよ」

 思いもよらぬ称賛に目を丸くし、すぐに首を振る。自分は男を見倣っての事だ。男は本当に育ちが良いのに、自分のせいで悪く見られるなんて我慢ならない。
 神取はわずかに顔をしかめた。

「そうか……窮屈させて済まないね」
「そんな全然、別に窮屈なんて思ってないから」

 そんなつもりで言ったのではないと、慌てて否定する。背筋が伸びてむしろ気持ちいいと思っているくらいだ。

「ならいいが……車の中では特にきちんとしているから、どうしたものかと思ってね」

 乗り心地が好みに合わないのではと心配していたのだ。
 僚は何度も首を振った。好みが合わないなんて、そんな事ない。

「すごくいいよあの車」

 あのシート、だらっとするより少しきりっとしてた方が気分いいし、それで充分リラックス出来る。
 自然と背筋が伸びて、でもちっとも窮屈じゃないんだ。背中とか肩とか、ちょっとの緊張感がかえって気持ちいい。
 不快に思った事など一度もない。そりゃ、最初の頃は車に乗り慣れないせいもあって力んでしまったが、今はとても快適に過ごせている。

「ほんとは……」

 気まずそうに言葉を区切る僚に、神取はわずかに身を乗り出した。もし不満があるなら教えてほしいと先を促す。

「笑うなよ……?」
「笑わんさ」

 不満を打ち明けるのではないとわかり、男は少し顔付きを柔らかくする。
 男の表情を窺いながら、僚は恐る恐る口を開いた。

「……乗る度、内心はしゃいでる」

 自分がこんな、英国製の高級車に乗れるなんて、と、舞い上がっている部分もある。男と並んで座る事にはしゃいで、乗れる事にはしゃいで、でもそのまま出すのは下品だから抑えて、車に相応しい振る舞いをせねばと背筋を伸ばすと、より気持ちが高揚する。

「俺が言うのはおこがましいって分かってるけど、すごくいい車だと思う。やっぱり違うものだね」

 背筋が伸びるのにリラックス出来るいい乗り心地だと、僚は強調した。

「そうか、君もそこを気に入ってくれていたとは嬉しいね」

 自分もその点が気に入ってるのだと神取は喜ぶ。
 運転も中々快適なんだと続けると、見てるとよくわかると僚は言ってきた。ますます嬉しくなる。

「俺も、早く免許取りたい。絶対楽しいよね」
「ああ、請け合うよ」

 自分は主にどんなところを楽しんでいるか、どういうところが好きかと話に花を咲かせていると、お待ちかねのグラタンが、ぐつぐつと食欲をそそる音と共に運ばれてきた。あめ色の器からは香ばしいチーズの匂いが舞い上がり、二人の周りを軽やかに踊る。もう我慢出来ない。いただきますとフォークを取り、しばし無言の時が流れた。やけどしそうな熱さを乗り越え、舌にのせた瞬間、声にならない感動が身体じゅうに広がる。目を見合わせるのが精一杯で、物も言えない。
 お互い同じタイミングで頷き、しばらくは、食べる以外口を開かなかった。どれだけ感激しているかは、お互いの顔を見れば十分だった。

 

 

 

 熱々のチーズで痛め付けられた舌を、デザートのシャーベットで癒す。
 今が旬のリンゴを使ったシャーベットはさっぱりと甘酸っぱく、自然と笑顔が込み上げてくる。注文した時はまだいくらか寒さが纏わりついていたので少し失敗したかと思ったが、これを選んでおいて正解だったと、僚はデザートスプーンを口に運んだ。
 一口ごとに幸せが舌の上で溶け、締めくくりにはもってこいだ。
 向かいで別のデザートをつつく男に笑いかける。

「グラタン、美味しかったね」
「ああ、本当に」

 すっかり満足したと神取は頷いた。この店は他にもおすすめのメニューがあるので、もしよければ今度は別の料理を味わってみようかと誘う。
 途端に僚はぱっと顔を輝かせ、実はメニューを見た時に色々心が動いたものがあるのだと言った。

「気に入ってくれて良かった。次は、何を食べようか」

 しばし、次への期待についてあれこれ言葉を交わす。
 お喋りに花を咲かせ、ひと息ついたところで、僚は何事か考え込む顔で目を伏せた。音を立てないようそっとスプーンを置き、それから男に片手を伸ばし、包むように触れた。
 熱が伝わってきた瞬間、いくらかの緊張が全身に走った。珍しい接触の仕方だと神取は思い、様子を見守る。
 握った手から少しずつ目を上げ、見合わせると、僚は囁くように言った。

「今夜は帰りたくないな……」
「昨日のドラマで、見たのかな」
「なーんだすぐバレちゃったか」

 僚はぱっと仮面を外すと、照れ隠しに繋いだ男の手をぱしりと叩いた。
 痛いなと男は笑いながら手をさすった。

「ごめん。ちぇー、ちょっとくらい乗ってくれてもいいだろ」

 スプーンを手に、笑いながら怒る。

「君のする事はもう、全てお見通しだよ」

 面白そうに笑う男を斜めに見やり、僚は歯ぎしりした。仕掛ける前から結果はわかってはいた。男の目は鋭いのだ。きっと無意識に口の端が笑っていたかしていて、そこを見抜かれたのだ。
 いやそもそも、直前まで全く別の話をしていたのに、唐突に切り出したタイミングの悪さがすべての原因だ。ドラマではもっときちんと空気を作り上げて、とうとう言葉を繰り出したという展開だったのだから、あの場面だけ真似した自分が大馬鹿だったのだ。
 発端は今日の昼休み、いつもの面々で集まり、いつものように昨夜見たテレビやらの話で盛り上がっていたのを耳にした事だ。自分もその番組は見ていた。といって毎週熱心に視聴しているわけではなく、一人部屋を紛らす為のもので、その時間は机に向かっている方が長いが、場面場面は頭に入っていた。多少は話しについていける程度のもの。そこで女子がとりわけ熱を入れて件のシーンを語っていたので、それで真似をしたら面白いかなと思い仕掛けたのだ。
 結果は惨敗。

「ちぇっ。でもさ、ちょっとくらいはドキッとしただろ」
「うむ、まあちょっとくらいはね」

 そう言って神取は悠然とデザートフォークを口に運んだ。
 憎たらしい態度だと、僚は口を思いきりひん曲げた。
 それを見て、神取は楽しげに笑った。
 うそつき。心の中でもらす。ちょっとどころではない。手が触れてきて、少しずつ目線が向けられ、熱っぽい眼差しとそっと空気を震わす声音が…その全てに胸が高鳴った。演技だとわかっても、ドラマの真似だと見抜いた今でも、熱心に向かってくる視線に射貫かれ痛くなるほど胸が弾んだ瞬間は鮮烈だった。
 強烈に残っている。
 今も意識しないと、喉が引き攣り上手く呼吸出来ない。
 神取はごまかす為にコーヒーカップに口をつけた。しかしこのままでは確実にむせてしまう。飲んだふりをして、静かに下ろす。

「鷹久は何でもわかるからなあ」

 どこか誇らしげな物言いに、また胸が一杯になった。
 ゆっくりカップを置き、お返しする。

「……今夜は帰さないよ」

 神取は本心を冗談で上手く包んで告げた。
 僚は一瞬の沈黙の後、はしゃいだ様子で演技の上手さを褒めた。

「今の、違う時言われたらちょっと危なかったかも」
「物まねというのは、中々むず痒いものだな」
「ほんと、そう」

 男がおかしそうに肩を竦めるのに合わせて、一緒に笑う。
 うそつき。本当は思い切り胸が高鳴った。お返しされると身構えていて、すっかりわかりきっていたのに、男の目にまっすぐ射貫かれて息が止まった。笑ってごまかすのが精一杯だった。自分だけそうなるなんて癪に障る。
 僚はコーヒーを飲むふりしながら、キザったらしい、このカッコつけめ、と零して動揺を押し隠した。

「ほんと、鷹久は演技派だね」
「いやいや、君も中々さ」

 お互いうそつき。
 嗚呼理性が吹っ飛びそうだ。

 

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