チクロ

冬の影

 

 

 

 

 

 朝、目が覚めたら、まず部屋を暖かくする。これがここ最近の、布団から出る前の一連の行動。そうでなければ寒くてとても出る気にならない。
 エアコンと同時にテレビもつけ、時折時刻を確認しつつ暖まるのを待つ。
 起きてしまえばあとはもうてきぱきと動けるのだが…桜井僚は仰向けのまま大きく手足を伸ばした。
 昨日より寒いな。慌てて手を引っ込める。起きるまでまだ少し余裕がある。早く部屋、あったまらないかな。
 横になってテレビを眺めながら、頭の中で、起きてからの行動を組み立てる。
 三十分後、登校の支度もほぼ済み、朝の内にやっておくべき雑事もすべて片付いて、朝食に移る。一時期、億劫さから省いた事があったが、一日怠く目も覚めず、ずっと具合が悪かった。自分は三度食べないと持たない身体なのだと悟り、前夜の内に冷蔵庫に用意するようになった。昼の弁当と共有だ。
 この部屋が、足の踏み場もないほどゴミだらけになったり片付いたりしていた頃は手際も悪く、食べるのさえ面倒に思えたが、腹が膨れれば気持ちも落ち着いて、一日中纏わり付いていた怠さもかなり薄らぐようになった。うじうじとひねた考えを持つ事もなくなり、おかしな言い方だが、呼吸が楽になったように感じられた。
 今日の朝は、弁当箱一杯に詰めた肉野菜炒めの残り。それに冷凍保存した白飯とインスタント味噌汁。
 朝に見るニュース番組が終盤に差し掛かるところで大体いつも食べ終わり、天気予報を聞きながら後片付け。終わり間際の星占いを横目に見ながら支度をし、終わったところでテレビを消し、出がけの習慣である戸締りの確認をしてからアパートを出る。
 登校途中、いつも寄るコンビニエンスストアでクラスメイトに合うのも、いつもの通りだ。

「さくらさん、おはよー」

 パック飲料を手に取ったところで、上杉に肩を叩かれる。おはようと振り返り、横に稲葉の姿がないのに目を瞬く。

「マークの事だから、じきに来るっしょ」

 上杉の言う通り、会計を済ませ外に出たところでばったり遭遇する。すぐ追いつくから先に行ってくれという言葉に従い、心持ちゆっくり学校を目指す。
 信号を渡って住宅街に差し掛かったところで、一度振り返る。まだ、姿は見えない。
 今日の冷え込み、昨日見たテレビの感想を言い合いながら進み、学校の角に差し掛かったところで、マークは追い付いた。

「やーいお寝坊さん!」
「……うっせーよ」

 上杉にからかわれ、稲葉は口の中でもごもごと言い返した。昨夜、ついゲームに熱中してしまい親に怒られて渋々就寝した。今朝、親に怒られてどうにか目を覚ました。
 高校生にもなって情けないと自省する稲葉を、上杉が追撃する。なにおう、と始めこそ威勢がいいものの、返す言葉もない稲葉はふんとばかりにそっぽを向いた。その様子を、いつもと変わらぬ二人のやり取りを、笑いながら見守る。

「あーあ……俺も桜井みたいに、一人暮らしすっかな」

 そうすればうるさい親から逃げられてせいせいするし、気兼ねなく人も呼べる。何より、一番の原因である己の甘え根性も治せるだろう。稲葉は頭の後ろで手を組んだ。
 上杉はすぐさま顔の前で手を振った。

「マークが? むりっしょ!」
「ああ? やってみなきゃわかんねーだろ」
「ですって。先輩としてひと言ガツンと言ってやってくださいよさくらさん」

 上杉は肩を竦め、やれやれと首を振った。

「いやあ、やれば、案外どうにかなるよ。俺だって出来てるんだし」
「いやいや、さくらさんだからこそだよ。マークじゃどうだかねぇ」
「あんだとてめぇ」
「にしてもさすがさくらさん、言う事違うねぇ。オレ様に次ぐイケメンなだけの事はあるね!」
「ナニ頭あったかい事言ってんだオメーは……」

 調子に乗るなと、稲葉が上杉の肩をはたく。すぐさま上杉は暴力反対と大げさに痛がり、呆れ顔で稲葉が首を振る。
 途切れなくぽんぽんと続く小気味よいやり取りに肩を揺する。

「なあ桜井、今度よかったらその辺、色々教えてくんねぇか?」
「ああ、俺でよければ」
「へえ、マーク結構本気なんだ」
「俺だって先の事色々考えてんだよ。オマエと違ってな」
「あーひどい」

 正門から校舎へ向けてまっすぐ進む途中、まず上杉がグラウンドの方へ逸れていった。稲葉について後に続く。
 テニスコートの向こうのグラウンドでは、運動部の連中が固まってランニングをしていた。
 グラウンドの端っこでは、一年生と思しき女子二人が「なんとか先輩ちょーカッコいい!」とはしゃいだ声を上げていた。何かを言っては肩を叩き合い、白い歯を零れさせ、きゃあきゃあと実に楽しそうだ。

「オンナノコって元気だよねえ」

 コートもマフラーも手袋も、完全防備の上杉がぶるぶる震え上がりながら感心する。

「ジジくせえぞ」

 そう言う稲葉も、マフラーに首を埋め手は両方ともポケットの中だ。

「あーあ、オレ様も運動部入っとけばよかったかな」

 そうすれば今頃ああしてカワイ子ちゃんたちに、ブラウン先輩かっこいーって黄色い声援受けちゃったりしちゃったり。

「なあマーク」
「ねーよ」
「もーつれないんだから。そう言うマークだって、キャーキャー言われたい子がいる癖に」
「お、ちょ……バカ!」

 途端稲葉は顔を真っ赤に染めて、大慌てで上杉の言葉を振り払った。
 上杉が誰の事を言い、稲葉が誰を思い浮かべているのか、すぐに理解する。
 稲葉はその辺り非常に正直だ。言葉や態度にすぐ出てしまう。

「桜井まで笑うなよ」

 上杉と調子を揃えてにやにやしていると、耳朶まで赤くなってしまった稲葉が唸るように言った。慌てて片手で詫びて、二人と、女生徒と、グラウンドの生徒たちを順繰りに見やる。
 そこに、男の姿が浮かび上がってきた。
 男がこの学園の卒業生だと知ってから、何度か、そしてあちこちで、こうして男を映す事がある。
 十一年前、男も確かにああしてこのグラウンドを走ったのだ。
 彼は運動部ではなかったが、体育の授業で、自分たちと同じように過ごした。
 長くなった冬の影を引き連れて、黙々とグラウンドを走る男の姿を思い浮かべる。
 どんな風だったのだろう。
 こんな風に黄色い声援受けたりしたのかな。
 幼稚な独占欲、嫉妬心が湧く。またそれ以上に、応援する女子の側になり、カッコいいものはカッコいいからと誇らしい気持ちになる。
 束の間、声援を送る一人となって、かつてあのグラウンドを走っただろう男を思い浮かべる。
 ひとかけらから咲いた想像は色鮮やかに展開し、どこまでも膨れ上がって、頭を一杯に埋めてゆく。ときめく中に身を任せ、思う存分酔い痴れた。

「さみ! もう行こうぜ」

 震え上がる稲葉の声で、はっと我に返る。
 一人身体がほてっている事に、何とも言えぬ恥ずかしさが込み上げてきた。こっそり白い息を吐き出す。
 見ると、朝練の生徒たちも引き上げていっている。先ほどの女子たちは、やはり元気にはしゃぎながら校舎の中へと駆けていった。
 二人について昇降口まで進んだところで振り返り、自分から長く伸びる影を見やった後、前を向いて歩き出す。
 気付けば口元に笑みが浮かんでいた。

 

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